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岸惠子(11)投げつけられた石の痛み パレスチナ

一九八七年に、NHKが衛星放送で毎週土曜に「ワールドニュース」の放送を始めた。そして番組のなかに「パリ発・ウイークエンドパリ」というコーナーが設けられ、岸がキャスターを務めた。

生放送だった。日本時間は午前三時。岸はこの仕事を二年間行うことになるが、イラン、アフリカ取材の延長線上に獲得した仕事であり、「社会、ひいては世界に目を向けて、自分の意見を語ること」の大切さを夫シャンピから教えられていた岸が熱中したことは想像に難くない。「まどうことなくわが生涯の輝ける日々なのだった」と岸は回想している。

「ウイークエンドパリ」にはインタビューのコーナーがあり、岸は以前からの繋がりを活かして、著名な俳優や活動家をインタビューすることに成功した。

一九八八年四月、建国四〇周年を迎えるイスラエルの取材をしたのは、ユダヤ人問題について、岸が自分なりの問題意識を持っていたからである。五日間の取材をした上で、番組自体は一時間半の生放送をエルサレムのホテルのテラスから中継したのだった。

ガザ地区に入るに当たり、イスラエルナンバーの自動車からガザナンバーのタクシーに乗り換えるつもりだったが、あいにくタクシーが掴まらず、岸らはそのまま入っていった。ガザ地区は建国四〇周年を記念するイスラエルに抗議して、町のあちこちで古タイヤを焼いており、黒煙と悪臭が漂っていた。

ガザナンバーの自動車を何とかして借りなければならない。そのときに、坂道の前方からトラックがバックしてきた。後ろからは自動車が接近してきた。挟み込まれた恰好になった。数十人のパレスチナ人が集まってきた。厳しい眼をしている。突然、大きな石が窓ガラスに当たり、ひびが入った。取材陣全員がすぐに車から降りて、手を挙げながら自分たちはユダヤ人ではなく日本人であると叫んだ。石を手にしているのは子どもたちだった。裸足だった。

岸は窓ガラスを開けていた。そうしていれば、乗車しているのが日本人だとわかると考えていたのだ。日本人のような顔つきをしているユダヤ人だっているのだ、滅茶苦茶だと、岸は同行者から厳しく諭された。

ヨルダン川西岸のデヘイシャ難民キャンプにはイスラエル政府の許可を得ずに取材した。六、七歳の少年が棒を岸に突きつけた。


《「その棒はなあに?」
 「バルーダ(機関銃)だ。ぼくはフェダイン(ゲリラ)だ」
 「こわいなあ、君たちは戦争しているつもりなんだ。あの高いところに結んであるのは何?」
 「ぼくたちの国の旗だ。あれをみるとユダヤ人は怒る。怒らせたいんだ。ほら、あの丘の上にユダヤ人の兵隊がいる!》(『ベラルーシの林檎』)


パトロール中のイスラエル兵士たちが岸らを取り囲み、無許可の撮影を詰問した。カメラからはフィルムが抜かれた。そのとき、岸は左足に激痛を覚えた。イスラエル兵士を狙った少年の投石が岸に当たったのだった。

この取材は岸にとって、二年間の衛星放送キャスター時代に最も気に入ったものだった。彼女は一人で、また友人たちを招いて、何度もくりかえしこのフィルムを見た。

イツハク・シャミール首相にも岸は取材している。「土地なき民に、民なき土地を」というスローガンを引いて、実際にはそこにはパレスチナ人という民がいたわけですねと問うた。「そうではない」と首相は言った。彼らはアラブ人であり、多くの国がある。しかしユダヤ人にはここしか土地はない。彼らはただ住んで通過していっただけなのだと。その言い方には断乎たるものがあり、岸は「かなり感動した」。それではあのガザ地区の少年たちはどうなるのだろうと思いながら。

彼女は「パリ発・ウイークエンドパリ」で、ジャーナリストを「演じた」のだろうか。ある意味ではそうである。彼女は自分はジャーナリストではないと発言している。自分は素人であり、市民レベルでみた市民レベルの取材しかできないというのである。

だが、ここで岸がいう「市民レベル」という言葉に注目する必要がある。素人が市民レベルで社会問題に取り組むという岸の発想は、小田実の理論と実践に負っているのではないだろうか。彼女は職業は女優だが、一人の市民でもある。一人の市民として、専門家ではない素人ではあるけれども、社会問題に向き合い、取材してそれを放送する。キャスターという仕事それ自体は、岸でなくともできる仕事であるが、このように考えると、職業的なキャスターではない仕事を岸は自分に課していたと考えることができよう。

彼女の人生の軌跡を辿ると、使命感を持ち、生涯をかけて徹底的に追求した社会的テーマがあったとは、わたしには思えない。彼女はジャーナリストではなかった。しかし、それは彼女の仕事が意味のないものであったということには必ずしもならないだろう。(続く)

*次回は「正統派ユダヤ教徒たち イスラエル」


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