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保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第2回) 1994年の解散

『中央公論』1994年6月号の表紙には、誌名の下に「細川政権とは何だったのか」という記事のタイトルが、執筆者佐々木毅の名前とともに印刷されている。1993年の衆議院選挙で自由民主党が惨敗し、自由民主党(保守)と日本社会党(革新)が対立する、いわゆる55年体制が崩壊、細川護熙(ほそかわ・もりひろ 1938-)連立政権が発足した。1993年8月に発足したこの内閣は、しかし翌年4月に総辞職して短命に終わった。「細川政権とは何だったのか」というのは時期を得た記事といえる。

同じ号に「戦後思潮の象徴日本文化会議の解散」という記事が掲載されている。著者は日本経済新聞編集委員井尻千男(いじり・かずお 1938-2015)である。当時56歳。立教大学助教授時代の村松剛(むらまつ・たけし 1929-94)の教え子である。村松が喉頭癌のため65歳で永眠したのは1994年5月17日だが、6月4日に青山葬儀場で行われた葬儀の司会をしたのが井尻だった。

井尻の記事は簡潔明瞭に日本文化会議の全体像を示した文章なので抜粋して紹介したい。

《財団法人・日本文化会議(理事長・藤井隆氏)が年度がわりの三月末日に解散した。理由はひとえに財政難、それ以外になにもない。派閥抗争があったわけでもなく、不祥事があったわけでもない。(中略)日本文化会議は戦後日本の精神史を抜きにしては語れない。その意味では特別の財団法人だったといわねばならない。昭和三十五年のいわゆる「六〇年安保騒動」は代々木(日本共産党)、反代々木(ブント系)、社会党、民社党など左翼陣営が最高度に高揚した政治の季節だった。(中略)その直後から左翼陣営は来たる改正期の「七〇年」に向けて大規模な闘争を準備していた。国会における保革逆転、一部過激派は革命政権の樹立を呼号した。》

《一方、非左翼の自由主義者たちは、状況に深い危機感をいだきながらも、拠るべき組織もなく、また言論界、マスコミにおいても陰に陽に排除されていた。/若い世代のためにいっておくと、そのころの日本は東西対立、冷戦構造をそのまま国内に持込んでいたのだった。同じ原爆でも、ソ連の原爆はきれいで、アメリカの原爆はきたない、という理屈がまかり通ったのである。(中略)そして、社会主義国と左翼思想を批判する知識人には〝保守反動〟というレッテルをはった。まさしく自由の危機だったのである。》

《「七〇年安保」が近づくにつれて、いわゆる新左翼の過激派はますます過激な路線をとるようになった。そういう状況の下で、福田恆存氏の呼びかけによって昭和四十三年(一九六八年)、日本文化会議が設立された。文学者では小林秀雄、川端康成、伊藤整、井上靖、三島由紀夫、阿川弘之、遠藤周作、学者ではギリシャ哲学の田中美知太郎、医学の吉田富三の各氏らが呼びかけに応えた。創立総会は同年六月十日、東京会館で開かれ、理事長に田中美知太郎氏が互選され、福田恆存、林健太郎、会田雄二、阿川弘之の各氏が理事に、鈴木重信氏が専務理事に就任した。当初の会員は六〇余名だったが、その後、文学者、学者のみならず経済人、官僚、ジャーナリストなどが会員になり、最終的には四六〇余名に達した。》

《その活動のおもだったものは月刊誌『文化会議』の発行、各分野の学者を招いての「月例懇談会」の開催、大テーマをシンポジウム形式で議論する「年次集会」と「東西文化比較研究セミナー」、その他各種の講演会と調査研究だった。》

財界からの支援があったが「その関係は癒着ではなく淡交だった」と井尻は述べ、「冷戦構造の終焉とともにわが国における左右の対立軸も融解した。/それによって日本文化会議の社会的存在感も終わりに近づいた。/そして一時代と一世代が去るように、日本文化会議が消えたのである。」と結んだ。

注目すべきは「非左翼の自由主義者たち」「(左翼陣営は)社会主義国と左翼思想を批判する知識人には〝保守反動〟というレッテルをはった」という記述である。日本文化会議の人々は「保守」と自称していないのだ。それは左翼から貼られたレッテルであり、自分たちは「自由主義者」、つまりリベラリストだと考えていたことがわかる。筆者はこの連載のタイトルを「保守派の1968」としたが、これは多分に便宜的なものである。それというのも、令和の現在、リベラルという語は左翼と混同して使われているので、「自由主義者の1968」「リベラリストの1968」では誤解を招く可能性が高いのでこのようなタイトルにしたのである。

さて、日本文化会議について何もしらない人が読めば、井尻の記事は実にわかりやすい。しかしこれは、『文化会議』1994年4月号(最終号)の巻末に掲載された専務理事鈴木重信(1913-2004)の「会員・会友・読者の皆様へ」に多くを負っている。その意味で、公正中立な客観的記述というより日本文化会議の自己理解を代弁したものとなっている。井尻自身が会員だったので、当然といえば当然である。

*このシリーズの掲載は不定期です。

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