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保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第1回) 忘れられた保守派知識人集団

令和7年(2025年)は昭和100年に当たる。今年(2024年)5月7日、超党派の「国による昭和100年記念式典の実現を目指す議員連盟」(麻生太郎会長)が政府主催の記念式典と記念事業の開催を岸田文雄内閣総理に要望した。政府は内閣官房に推進室を設置したと7月5日に各紙が報じたが、それから続報がない。進捗状況はどうなのだろうか。

『産経新聞』は2024年4月29日の社説「昭和100年式典 日本を挙げて開催したい」で、次のように記した。

《昭和天皇の遺徳をしのび、激動の日々に思いをはせる機会になるだろう。/昭和改元から100周年を迎える令和8年に、国の行事としての記念式典開催を目指す動きが国会内で活発になっている。超党派の議員連盟が発足し、今年5月7日に設立総会を開くことになった。政府に式典実施の閣議決定を働きかける。/国を挙げて、意義のある式典にしなければならない。政府は早期に開催を決定し、準備に取りかかってもらいたい。/明治改元100周年にあたる昭和43年と150周年にあたる平成30年にも、政府主催の記念式典が挙行された。/特に明治100年式典では、政府が2年以上も前から準備を進めた。東京・日本武道館で行われた式典には昭和天皇、香淳皇后も臨席した。各都道府県や民間団体もさまざまな関連行事を行い、日本の近代化を実現した明治という時代に国民こぞって思いをはせた。/昭和100年式典も、国民一人一人が激動の時代をしのび、将来の国づくりに生かす場にすべきだろう。(後略)》

この社説にあるように、明治100年に当たる昭和43年(1968年)に明治百年記念式典が行われた際には、佐藤栄作内閣は、2年前の1966年3月に実施を閣議了解し、4月に記念準備会議設立と連絡協議会設置を閣議決定している。準備委員会は国の機関20名、各界団体代表者25名、学識経験者42名から構成された。5月、佐藤首相を議長とする第1回総会で1968年10月23日という挙行日時が決定され、同月の第2回総会で、全委員が、式典、行事、事業、広報の4部会に分属することとなった。各部会ごとに検討が行われ、11月の第3回総会で各事業の最終決定がなされた(「明治100年記念祝典 明治100年記念準備会議の経過」『実業往来』1967年2月号)。当時の日本政府の意気込みがうかがわれる。

明治百年記念式典が開催された昭和43年は、内外ともに激動の年だった。年表を開けば、戦争中のベトナムではソンミ村事件、アメリカではキング牧師の暗殺、フランスではパリ五月革命、プラハの春とチェコ事件、国内では、小笠原諸島の日本復帰、GNP世界第2位、川端康成が日本初のノーベル文学賞を受賞。それから、東大紛争、日大紛争に代表される学生運動高の昂揚があった。3億円事件もこの年のことだ。『黒部の太陽』『神々の深き欲望』『俺たちに明日はない』『猿の惑星』などの映画が公開され話題になった。

〈1968〉という呼び方もある。グローバルヒストリーとして大きな転換の年だったという見方である。小熊英二(1962-)の大著『1968』刊行が2009年である。学生運動に関わった多くの関係者が存命ゆえ、同書の評価はさまざまだが、この時代が歴史的研究の対象となったことが強く印象づけられた。筆者が不満に思うのは、この時代の保守派の動向についての検証が不十分なことである。この時期に、いわゆる保守派は何をしていたのだろうか。

実はこの年に、日本文化会議という民間団体が設立されている。冷戦終結後の1994年に解散したので、すでにそれから30年が経過している。名称が似ている日本会議(1997年設立)とは別組織である。田中美知太郎(1902-85)を理事長にいただき、小林秀雄(1902-83)、三島由紀夫(1925-70)も役員を務めた、保守派知識人を結集した感のある組織だったが、現在ではすっかりその存在が忘れられている。関係者も多くが幽冥境を異にしてしまっている。

筆者は昨年『村松剛 保守派の昭和精神史』(法政大学出版局)という小著を世に問うたが、日本文化会議の設立を福田恆存(1912-94)と構想し、趣意書の草案を作成したのが村松剛(1929-94)だった。そのような経緯から同会議について調査を継続している。noteには文字数の制限がない利点があるので、なるべく多くの資料を引用しながら、日本文化会議を中心にした昭和の保守派知識人について記していきたい。

*このシリーズの掲載は不定期です。
 

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