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保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第7回) 4人の企画立案者

組織であれ事業であれ、最初は誰かのアイデアから生まれる。そしてそれが何人かに共有されてプロジェクトになっていく。日本文化会議も同じだった。63人の発起人の前に、数人の企画立案者がいた。

石原萠記、福田恆存、村松剛、鈴木重信の4人である。このなかで世間でもっとも知られている人物は、福田恆存であろう。英文学者・劇作家・評論家として名高い。村松剛はフランス文学者で文芸評論家、遠藤周作や三島由紀夫、開高健などと親しかった人物である。中東問題にも明るい親イスラエルの評論家としてもメディアで活躍した(拙著『村松剛 保守派の昭和精神史』参照)。

石原萠記は月刊誌『自由』(1959-2009)の発行人である。左派にも右派にも幅広い交際を持つ人物だった。日本文化会議の発起人に名前がないのは、設立のために奔走したあげくに、設立とともに手を引いたからである。彼が構想した青写真は、できあがった日本文化会議とは違うものだったからだ。

福田、村松、鈴木の3人と石原、というチームだったようだ。福田恆存、村松剛、鈴木重信は、1960年10月に福田を中心に作られたグループ「二日会」のメンバーだった。この会には、会田雄次、高坂正堯、加藤寛、関嘉彦、西義之、林健太郎、そして田中清玄(1906-93)がいた。会田、西、林は日本文化会議発起人である。石原のいない席で、福田、村松、鈴木が田中清玄と会っている。表立って名前は出てこないが、田中清玄も日本文化会議に全く無関係というわけではなかったようだ。

鈴木重信は4人のなかで最も知られていない人物であろう。彼は日本文化会議の専務理事として初代理事長田中美知太郎と2代目理事長藤井隆を支えた人物である。彼の経歴を紹介しておきたい。

1913年東京生。
1923年京都帝国大学文学部哲学科卒業。専攻は宗教学。同年京都市立仁和小学校代用教員。
1924年京都帝国大学大学院を経て滋賀県社会教育主事補。
1925年主事。
1943年神奈川県に転勤。内政部教育課。
1944年内政部兵事課長。

「兵事」とは文字通り軍事にかかわる部署である。敗戦のときの鈴木の名前が出ている新聞記事がある。『産経新聞』2015年8月30日、戦後70年関連記事「マッカーサーなぜ横浜進駐」である。執筆は渡辺浩生記者。長文ゆえ、抜粋して引用する。

《昭和20年8月30日、厚木飛行場(大和市、綾瀬市)に、連合国軍最高司令官、マッカーサー元帥が降り立ち横浜に進駐した。元帥と総司令部は9月17日に東京に移駐するが、その後も横浜は日本占領の本拠地であり続けた。なぜ横浜が選ばれたのか。日米の資料や近年の研究によれば、日本政府の思惑と地元の必死の準備の結果、米側が直前に日本の推奨を受け入れたことが浮かび上がる。》

《8月21日深夜、知事官舎の電話が鳴った。
 同日朝、フィリピン・マニラを訪問した参謀次長、河辺虎四郎中将ら日本の代表団が帰国。現地でマッカーサー総司令部から示された要求に基づき、横浜受け入れを至急整えるよう藤原孝夫知事に対する官邸からの指令だった。
 藤原知事はすぐ幹部を官舎に招集。明けて22日朝、後藤真三男内政部長、鈴木重信兵事課長が上京。陸海軍と各省の代表が集まった内務省での会議で、「横浜で敵を食い止め、帝都(東京)へは一兵も入れない」という方針を知らされた。県と各省代表はバスで横浜の県庁に移動し、徹夜で役割分担にあたった。》

《最重要の課題は「無血進駐」(東久邇宮首相)。一発でも発砲されれば連合国軍は「武力進駐に切りかえる」(神奈川県警史)とされ、藤原知事は「(事故が起きれば)割腹してお詫びするしかない。人事を尽くして天命を待つのみとの覚悟」(「横浜の空襲と戦災」第5巻)だった。》

「横浜地区占領軍受入設営委員会が設置され、県や市は献身的に任務を遂行する。業者挙げてガス、水道の復旧、水洗便所の急造にあたり、清掃には生徒らも動員。警視庁や他県警から応援を得て総勢5千人態勢で厚木や横浜までの沿道などの警備計画を立案した」という。こうした非常事態の中で鈴木は身を粉にして働いた経験があるのだった。鈴木自身が当時について書いた文章がある。一部を引用する。

《当時の横浜の空気には全く物情騒然たるものがあった。八月十五日の終戦と云ふ深刻な体験が、上下を通じて未だはつきりした自覚にならず、只茫然自失して居た時、矢継早に聯合軍上陸の報が来たのである。その間、確かに三、四日の余裕しかなかつた。何分、此の四年間と云ふものは米英撃滅の一本槍で、米国と云へば米鬼であり、鬼畜であり、如何に残虐性に満ちて居るかを誇大に宣伝し、教へ込み、只管(ひたすら)敵愾心の昂揚に努めて来たのである。当座は当局にも何の見透しも自信もなく、民衆は更に五里霧中で、異常な不安と恐怖が充ち満ちて居た。》

《かうした空気の中で進駐軍受入の準備を急速に進めなければならなかつた。政府は早速終戦連絡委員会を作り、各省の委員が県庁に出張し、知事以下県庁員、市役所、電気、通信、水道等の関係者で組織された進駐軍受入れ実行本部と一緒になつて連日徹宵で凝議し、奔走し、まるで火事場の騒ぎであつた。》(鈴木「朋遠方より来る 横浜進駐軍挿話」『新自治』1946年1月号)

このような修羅場を経験したことがある鈴木だった。彼の戦後の職歴は以下のとおりである。

1945年知事官房渉外課長。
1946年教育民政部教育課長。同年11月教育部学務課長兼社会教育課長。
1948年土木部経理課長。
1950年知事公室企画審議課長。
1952年農林部長。
1955年農政部長。
1957年7月米国際協力局の招聘により農業経済視察団長として渡米3か月、帰路1か月西欧7か国(アメリカ、イギリス、オランダ、デンマーク、西ドイツ、スイス、イタリア)の農業事情を調査。
1958年県教育長。
1963年県立教育センター創設事務局長。
1964年同センター参与。
1967年県を退職、県教育センター専任顧問。
1968年日本文化会議専務理事。

このように、1950年代の終わりからは、教育行政に携わり、教育センター設立に関与した人物だった。二日会に参加したときは神奈川県教育長だった。組織運営の手腕は日本文化会議の事務局長として適材だった。

なお、福田との対談「義務教育は死んでいる!」が『正論』1974年5月号に、福田、鈴木、そしてグスタフ・フォス(1912-90 カトリック司祭、上智大学教授を経て栄光学園初代校長)の鼎談「日本の教育・七不思議」が『中央公論』79年3月号に掲載されている。『教育学叢書第22巻・現代の教師』(1968年)という著書がある。京都帝国大学時代にともに木村素衛(1895-46)に学んだ池田進との共著である。

*このシリーズの掲載は不定期です。

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