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荒地の愛 鮎川信夫と最所フミ

最所フミ(1908-90)は詩人鮎川信夫(1920-86)の妻である。結婚したのは1958(昭和33)年で、この年、最所は50歳、鮎川は38歳だった(以下、満年齢ではなく単純年齢を採用する)。28年間の夫婦生活だったが、鮎川がこの世を去るまで周囲はそれを知らなかった。最所も鮎川も独身と思われていたのである。

最所は詩人ではない。コラムニストである。代表作の『日英語表現辞典』(1980)のはしがきを読むと、冒頭で「英語は自由世界を結ぶ重要なコミュニケーションの媒体である。(中略)英語の知識なくしては、自由世界の連帯は事実機能しない」と書かれている。それから別の箇所では、「福祉国家」を“welfare state”などと訳したら誤解を与える。現代アメリカでは“welfare”は「生活保護」を意味するし「"state" は "police state"のような全体主義的印象を与えるので望ましくない。Societyのほうが自由世界の感が出せる」とも述べている。

既存の辞書にないこうした繊細微妙なニュアンスの違いが理解できるよう編まれたのがこの本なのだ。同書は『時事英語研究』連載コラムをまとめた『日本語にならない英語』(1968)と『英語にならない日本語』(1971)を合本して増補改訂した書である。引用した文章のなかに「自由世界」という言葉が「全体主義」と対比的に用いられている点に注目する必要がある。前者はアメリカ合衆国を中心とする西側世界を指し、後者はソビエト連邦(現ロシア連邦)を中心とする東側世界を指している。東西冷戦という世界史的背景が踏まえられており、最所は西側世界を維持するために英語が重要であると強調しているのである。

『時事英語研究』連載のきっかけを作った「荒地」の詩人加島祥造(1923-2015)は、本邦英語教育における最所の寄与を讃えている。しかし、フルブライト奨学生としてクレアモント大学院大学に留学し、フォークナーの邦訳で名高い彼は、自身が反共・反全体主義という米国文化政策の渦中にいたせいか、彼女が果たした政治的役割を意識していないようだ。

1955(昭和30)年、米国大使館と米国大使館広報文化交流局(USIS)主催のアメリカ文化セミナーが長野で開かれた。ウイリアム・フォークナーを囲むこのセミナーには、加島も参加している。戦後の日本における米文学研究は、アメリカ冷戦文化政策を補強する側面があった。荒地出版社は、早川書房にいた「荒地」の詩人伊藤尚志が1952(昭和27)年に設立した出版社だ。鮎川信夫がブレーンだった(宮田昇『新編戦後翻訳風雲録』)。同社が1957(昭和32)年から59(昭和34)年にかけて刊行した『アメリカ文学全集』全20巻も、アメリカ大使館からの援助を受けている(『ウイリアム・フォークナーの日本訪問』)。

鮎川は1960年代に『週刊読売』でコラムを連載し、1980年代は『週刊文春』で時事問題のコラムニストとして活動した。「現代詩にまったく興味がなかった」評論家坪内祐三(1958-2020)は、『週刊文春』の連載コラムを読み、名前しか知らなかった鮎川を「これはかなりすごい思想家だなと意識した。(中略)幅広い関心領域の話題について、きわめて、まっとうで率直な言葉を口にしていた」からである(坪内『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない』)。歌人の岡井隆も批評家としての鮎川を高く評価していた(岡井「卓れた人の死」)。

坪内と岡井は詩壇の外にいる人物である。その意味では、詩人の中村稔が「私は詩の実作者としての鮎川信夫に対して必ずしも高い敬意を払っていなかったが、文明批評家としての鮎川信夫の発言には、いつも傾聴すべきものがある、と思ってきた」(中村「ある時代の終り」)と発言しているのが目立つ。もっとも中村は、鮎川のコラムの背後にある「自由のある国アメリカと自由のない社会主義国という善悪二元論」には同意し難いものを感じていた。

たしかに鮎川の社会批評は保守的な構えが明らかで、とりわけソ連に対する批判は辛辣だった。エッセイスト向井敏は、鮎川について「共産主義とその国家体制は人間性を圧殺する全体主義にほかならないという明確な認識を終始持ちつづけた人」(向井「「時代を読む」眼」)と書いている。野沢啓は、鮎川のコラムは「右派ジャーナリズムにのせられた仕事であり、高い原稿料など経済的理由もあったにちがいない」(野沢『単独者鮎川信夫』)と書いているが、筆者の見方は少し違う。レッテルを貼る意図はないが、鮎川も最所もアメリカの反共政策と親和的であり、彼らが孜々として書き続けたコラムは、いずれも西側の自由世界を維持し続けるためのパブリックな営為だった。ふたりは別々の領域で別々の仕事をしていたのではなく、足並みを揃えて同じ使命に献身していたと捉えたらどうかと考えているのである。

鮎川には、戦後詩の原点という人もいる「死んだ男」(1947年2月)という作品がある。その5か月後に発表された長編詩「アメリカ」は、吉本隆明(1924-2012)がいうように、トーマス・マン『魔の山』をはじめとする断片化された多数の既存テキストがコラージュの手法で再構成されている(講演「荒地派について」)。出典註がないので引用されたテキストの境目が見分け難い。作品のコンテクストを作り出す「アメリカ」というタイトル、それから作品中に登場する「一九四二年」「一九四七年」という年号、そして戦死した友人を表す「М」というイニシャルだけが明晰である。

この作品は、すでに戦時中からアメリカが計画していた日本占領計画によって再編成される祖国の状況そのものを示しているように見える。全体として明確なイメージやメッセージがないのは、当時の日本そのものが混沌としていたからで、現在進行形の事態ゆえ、未完に終わっているのも当然と思われる。高良留美子(1932-2021)はこの詩に「アメリカ合衆国への批判は見られない」(高良「鮎川信夫「サイゴンにて」からベトナム戦争へ」)と書いているが、連合国軍占領下に批判できるわけがない。晦渋な覚書もGHQによる検閲を意識してのことであろう。

磯田光一(1931-87)は「アメリカはあなたの運命であり、戦後日本の運命でした」(磯田「孤立の光芒」)と追悼文に記したが、アメリカに特別な思いがある鮎川には、著書『私のなかのアメリカ』(1984)と、石川好との対談集『アメリカとAMERICA』(1986)がある。意外なことに渡米したことはない。北川透は鮎川から「アメリカに行ったらアメリカが分かるなんて考えるのは大間違いで、アメリカなんて行けばかえってアメリカが分からなくなるよ」と言われた。それから「アメリカから金もらって行く奴は全部インチキだ。行くんだったら自分の金で行く」とも語ったという(座談会「認識者の生と死」)。ロックフェラー財団の支援やフルブライト・プログラムなどで少なからぬ数の文学者や文学研究者が戦後も渡米したことを意識した発言である。

米国滞在の代替えではないが、鮎川は米国の雑誌を平均16誌購読して読んでいた(鮎川『私のなかのアメリカ』)。野沢は「最所フミが取り寄せていたのを読んでいただけという可能性のほうが現実的」(野沢前掲)と推測している。また宮田昇は、『週刊文春』のコラムの「海外の新聞雑誌からの豊富で自由自在な引用」について、「抜群の英語力なくして、あれほどホットなニュースを駆使することはできない。大岡山での[最所フミとの]生活を隠しとおしたのは、詩人の心の深淵によるのではなく、案外、「抜群の英語力」を疑われたくなかったせいもあるのではないか」(宮田前掲)と書いている。

しかし筆者の関心は彼らの憶測にはない。鮎川と最所が、共通の米国雑誌から知識を得ていたことに興味をそそられるのだ。高良留美子は、鮎川には「アジアの民衆への共感の弱さ、自由主義国家の理想化、そして社会主義陣営の全体主義(それはかつての日本の全体主義と重ねあわされている)への嫌悪」があると指摘したことがある(高良前掲)。「自由主義国家の理想化」はアメリカの理想化と言い換えられるが、これらの指摘はそのとおりで、鮎川は、たとえばアメリカと非民主主義的な軍事独裁政権との親密な関係などはほとんど意に介さなかったように思われる。そしてそれは、彼と最所が熱心に読んだアメリカ雑誌の思想的傾向を反映していたのかもしれない。

鮎川信夫は、田村隆一、黒田三郎、北村太郎、三好豊一郎、加島祥造らが集ったグループ「荒地」の中心人物で、戦後詩史を語る上で重要な人物とみなされている。1973-76年に著作集全10巻、歿後の1989-2001年に全集全8巻(実質的には選集)が刊行されている。彼を論じた著作も数多くあるが、不思議なことに、伝記的研究が十分とはいえない。筆者は拙稿「鮎川信夫の父、上村藤若とその友、楠章」(『詩と思想』2025年3月号)で、父親の生涯を詳しく明らかにするが、本稿はその姉妹編である。鮎川信夫の妻であった最所フミ、「この謎の英語学者」(野沢啓)はいかなる人物だったのだろうか。彼女の詳しい生涯は、ほとんど知られていないのである。

本名は最所フミ子という。彼女の父、最所文二は1877(明治10)年佐賀県に生まれた(以下『人事興信録』、官報等に拠る)。日本法律学校(現日本大学)を卒業後、「佐賀県平民最所文二」は文官高等試験に及第し逓信省に入省する。同期には華族も士族もいたが、文二は私学出身にして経理局課長を8年、局長を5年間務めた。ちなみに局長は勅任官(天皇が任命する官吏)である。昇進とともに従五位勲五等、正五位勲四等、正四位勲三等と栄達している、1928(昭和3)年、逓信省航空局所管の日本航空輸送株式会社が設立されると初代常務取締役に就任したが、1939(昭和14)年に食道癌で歿した。66歳だった。余談ながら、鮎川の父藤若は福井県師範学校を経て早大英文を卒業したが、卒業していない日大政治科修学も経歴に書いたのは、同大の社会的評価が高かった証左だろう。

文二の妻ミヨは、1881(明治14)年大阪に生まれ、岡山県平野石造の養女となった。大阪府女子師範学校(現大阪教育大学)を卒業、さらに東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)理科を卒業。長崎県立長崎高等女学校(現長崎県立大学)に5年間、大阪清水谷高等女学校(大阪府立清水谷高等学校)に2年間勤務し、文二と結婚して教職を退いた(『日本婦人の鑑』)。世話をしたのは牧野富太郎に教えを受けた植物学者田代善次郎である(『田代善次郎日記大正篇』)。文二の任地が熊本、仙台、新潟を経て東京になると、東京高等女学校(現東京女子学院中学校・高等学校)でふたたび教壇に立った。

長年官舎住まいだったが、本省勤務になると文二は目黒区上目黒に自邸を構えた。父親もさることながら、母親の赫奕たる経歴には驚かされる。当時の女性として最高の教育を受け、専門職である学校教師として生きた人であることがわかる。1927(昭和4)年には明六社創設者のひとり西村茂樹(1828-1902)の修身団体である日本弘道会会員になっている(『弘道』419号)。同会女子部評議員鏑木乙葉子が紹介者だった。鏑木はミヨが奉職した東京高等女子校の舎監という経歴を持ち、機関誌『弘道』のほか、実業之日本社の雑誌『婦人世界』にも寄稿している。それらを読むと、明治日本の価値観を内面化した威風凛然たる女性だったように思われる。ミヨもまたそういう女性だったのかもしれない。

フミ子が大阪生まれなのは、母親の実家で生まれたからだろう。彼女は長女で、その下に長男顕文、次男淳二、次女三女は早世し四女富子がいる。

顕文は東京府立第一中学校、東京高等学校を経て東京帝国大学文学部支那哲学科に進み、宇野哲人の下で学んだ。卒業後は早稲田中学高校、東京市立第一中学校国漢教諭を経て旧制松江高等学校(現島根大学)教授になっている(『人事興信録』)。英文学者篠田一士(1927-89)のクラス主任だった(篠田『読書の楽しみ』)。英文学者森亮も同校教授だった。戦後は大学教師ではなく東京都立高等学校教諭になっている。

次男淳二は東京商科大学(現一橋大学)を卒業して三菱銀行に入った。海軍に入りミッドウエー海戦では空母蒼龍に乗船していた。同空母は爆撃され沈没したが日本の駆逐艦に救助され生還した(最所「でっちあげられた〈東京ローズ〉」以下「ローズ」と略記)。四女富子は学歴等未詳だが他家に嫁いでいる。兄がおらず、下に弟がふたりいるという生育環境は、加島祥造や鮎川信夫など年下の男性と自然に接するのを容易くさせただろう。

さて、このような家庭環境で育ったフミ子だった。「フミ」は文二の「文」から付けられたものだろう。文子でもよかったが、女性なので漢字を片仮名に開いたものと思われる。フミ子は東京府立第三高等女学校(現東京都立駒場高等学校)を卒業後、女子英学塾(現津田塾大学)に学んだ。

1929(昭和4)年7月10日、米国前華盛頓(セントルイス・ワシントン)大学東洋史講座教授を団長とする男女学生中心の東洋観光団118名が、アフリカ丸で横浜港に入港した。翌日、日米学生英語会聯盟主催「国際演説競技会」が神宮外苑日本青年館で開催され、「最所ふみ子嬢」は、日本側5人の競技者中、明大、日大、立大、法大の男子学生に交じり、ただひとりの女子学生として出場した。一等は「太平洋学生の協力について」という演題のワシントン大学男子学生、二等は「我等相互の道徳上の機会」という演題の法政大学男子学生、そして三等が「今日の日本婦人について」という演題の最所だった。(『教育思潮研究』1930年4月)。この栄誉は彼女を力づけたことだろう。翌年彼女は太平洋を渡ってアメリカに留学する。

最所の米国留学を伝える記事が『時事年鑑・昭和6年版』に掲載されている。女性の留学が記事になる時代だったのだ。1930(昭和5)年、3年間の奨学金を得てミシガン大学に留学した彼女は、3年次に編入する(編入試験を受けたものと思われる)。横浜からサンフランシスコまで10数日間の船旅である。最高の教育を受けようとする向学心は母親譲りと考えられるが、その後の彼女の生き方に照らせば、母親を凌駕しようとする強烈な対抗意識を見ることも可能かもしれない。中世英文学を専攻した彼女は大学院に進み、修士号取得後、当初の計画通り1933(昭和8)年に帰国した。

本当は帰国したくなかった。ミシガン大学での研究がますます面白くなっていたのである。「ちょうど学問に油がのりはじめたころに、両親からのきつい申しつけで仕方なく帰ってきた」(最所「‘30年代赤表紙の『英研』との出会い」以下「赤表紙」と略記)。坂西志保(1896-1976)が1925(大正14)年から翌年にかけミシガン大学大学院で学んでおり、彼女の文章から同大の雰囲気がうかがえる。格式ばった東部と違い、開拓者精神が残っている中西部では人々が親切だった(坂西「ミシガンにも春がきて」)。坂西はミシガン大学で1929(昭和4)年に博士号を取り、ヴァージニア州の大学で助教授になる。最所も博士号を取得したかったものと想像する。

さて、帰国した彼女は、1929(昭和4)年赤坂に開設されたカナダ公使館(現カナダ大使館)に勤務した。「英語文化の延長のような生活を意固地に続けていた」(最所「赤表紙」)のである。実家からは出てアパート暮らしを始めた。このときに「文子」と名前を変え、ハワイ出身の二世を名乗っている。キャナダ・リゲーションには最所ともうひとりホノルル生まれの二世の女性が働いていた(『日系市民の日本留学事情』1935)。

加島祥造は、1952(昭和27)年に自分が米国留学するまで最所と暮らした。彼は最所が米国に10年いたと書き(最所『英語類義語活用辞書』解説)、二世と一度結婚していると語っている(樋口良澄『鮎川信夫 橋上の詩学』所収のインタビュー)。前者はねじめ正一の小説『荒地の恋』でも踏襲されているが、既述のとおり誤りである。後者についてはどうなのか。『桜蔭会史』(1940)の最所ミヨ(みち子名義)の項には「二男四女(二名死)あり長男は中学校教諭、次男は東京商大在学、女子は嫁す」とあるのだが。

『英語研究』1935(昭和10)年10月号を見ると、二世が順番に執筆する連載記事「第二世の気焔」に、「Michigan大学出身、駐日加奈陀公使館勤務」の「最所文子」が Nancy F. Saisho という名前で ”To Snap Out of Self-Consciousness”(「自意識を脱却する」)という英文記事を書いている。大意は以下のとおりである。

《他人にコメントを求めることは自意識過剰の兆候です。自分自身が何者かを確信していたならば、外部からのコメントは不要だからです。自分にとっては日本も米国も大切で、日本の国体や国策を批判する者があれば、私は進んで弁駁します。しかし盲目的な愛では何も得られません。友の幸福を願うなら正直になることです。これが、以下のコメントを私がする理由です。日本では精神的な封建主義が蔓延しています。日本の若者たちの大多数は抑圧されています。そこから逃げ出したいと思っても、彼らには自信がありません。なぜかというと、家長以外は独立して行動する自信を蓄えることが誰にも許されないからです。日本の若者に何より必要なものは自分自身への自信です。アメリカの最悪の大学生のように自信過剰になることはありませんが、尊厳と信念に基づいて行動してほしいものです。》

旺盛な自律への意気込みが行間から伝わってくる。帰国の年、彼女は25歳である。一人で帰国したのだろうか。最所自身が語らなかったことなので、筆者は追跡をここまでとするが、この記事は自分の両親に宛てた手紙のようにも読める。自由を求める彼女にとって、世間的には立派な両親が、「精神的な封建主義」に囚われた人に感じられていたのではないか。それから「ナンシー」は、米国でアジア人が使うイングリッシュ・ネームで、彼女は留学時代には周囲からそう呼ばれていたのかもしれない。

1934(昭和9)年、最所は日本放送協会に入社する。当時は港区愛宕山に本局舎があった。1935(昭和10)年から海外向け短波放送・ラジオ東京がスタートする。「私の仕事は、午後2時から7時までで、カレント・トピックスと称する5分間放送の英語ニュースをまとめて、外人のアナウンサーに渡し、放送を見とどけることだった」(最所「赤表紙」)。「筆者は当時、海外局の英語班のメンバーで、海外向け英語放送原稿の作成係だった。ここで作成された英文原稿は、他の外国語班――ドイツ語、フランス語、ロシア語、スペイン語、中国語、アラビア語などの放送者に配布され、それぞれの国語に翻訳されて、“Radio Tokyo”からのコメンタリーとして放送されている。つまり、英語班は海外局の中心的存在だった」(最所「ローズ」)。『NHK戦時海外放送』にはスタッフの集合写真があり最所も写っている。

『いのち』1937(昭和12)年5月号の「海外放送のこと」という取材記事では、海外放送について「全然営業的なものでなく、国際親善の意味での海外奉仕放送」で「現時の最悪な国際関係にあたって(中略)世界中の人々に喜ばれてゐる」と説明されている。挿絵に「英訳放送者最所文子さん」が描かれている。あまり似ていないが首飾りをしている。当時はまだ文子の名前で働いていたのである。この記事によれば最所はアナウンサーの仕事もしている。前掲エッセイで最所自身も「おっかなびっくりで自分の原稿を読み上げたこともある」と記している。

なお、並河亮『もうひとつの太平洋戦争』は、最所が詳しく語らなかった戦時中の放送局の内部事情を当事者が詳細に記した記録として貴重である。「海外向けの電波は、ラジオによる日本政府の唯一の宣伝機関である日本放送協会の海外局以外の場所から出たはずはない」。それゆえそれは、アメリカ側から見れば敵対放送、謀略放送というのは一理ある。このように最所は語気を強め、心外だと言わんばかりである。しかし並河の証言を読めば、海外放送は軍との二人三脚による「もうひとつの太平洋戦争」であり、アナウンサーは「声の弾丸」を撃つ兵士だった。その最前線に彼女がいたことは事実である。

敗戦までNHKで働いた。千代田区内幸町にある東京放送会館(1938年竣工)から放送された、1945(昭和20)年8月15日正午の録音盤による玉音放送は、他の職員たちとともに同会館大会議室で聴いた。海外放送関係の大量の記録は占領軍が来る前に関係者ですべて焼却した(並河前掲)。

その東京放送会館内に、同年9月、米国情報教育局(CIE)のインフォメーションセンター図書館が開設された。『サンデー・イブニング・ポスト』『ニューヨーカー』『リーダーズ・ダイジェスト』、さらに『ライフ』『タイム』『ヴォーグ』『マドモアゼル』などの最新号が置かれた(越智博美『モダニズムの南部的瞬間』)。米国の文化占領政策、日本人再教育の一環である。英語が読めなくとも、婦人雑誌の広告などを見ればアメリカ人の生活の豊かさが一目瞭然だった。

同月、最所は朝日新聞社に入社する。出版局には渉外課、雑誌編輯部、図書編輯部、刊行部等があったが、彼女は渉外課に所属した(『朝日新聞出版局史』)。また外務省渉外部(リエゾン・オフィス)嘱託として、日本語のGHQへの陳情文書英訳などに携わった(最所「ローズ」)。

1946(昭和21)年7月から翌年初めまでは、オーストラリアのシドニーに行った。「「ゼロ・アワー」原案者で、アイバ・トグリ[いわゆる東京ローズのひとり]をアナウンサーに起用して演出を一手に引き受けていた、捕虜のチャールズ・H・カズンス少佐が反逆罪で裁判に問われることになり、放送部門の技術者たちと、現場証人として立ち会うためだった」(最所「ローズ」)。カズンスへの命令書は彼女が英訳した(池田徳真『駿河台分室物語』)。最所は1943(昭和18)年から放送された対敵放送「ゼロ・アワー」に自らは直接かかわっていないと記している。同番組の担当アナウンサーは6人いたとされる(「ラジオが伝えた戦争第3回」)。

「東京ローズ」こと、アイバ・戸栗郁子のことを最所はよく知っていた。彼女はいつもスカートをはいていたと最所は書いている。自分はそうではなかったのだろう。男性職員は国民服だった。8歳年下の戸栗はカリフォルニア大学大学院で学んだ女性だが、「東京ローズ」をめぐる米メディアへの対応については、最所には思慮深さに欠ける人物に見えていたようだ。NHK関係者にとっては、この事件はメディアによって捏造された馬鹿騒ぎにしか見えなかった。「東京ローズ」と呼ばれるアナウンサーなど、戦時中はどこにもいなかったからである。

1947年、シドニーから帰ると、最所はリーダーズ・ダイジェスト日本支局編集部に入った。戦時中の粗末な印刷物しか知らなかった日本人にとって、同誌日本版は「その輝くような紙質や真新しいインクのにおいからいって、戦いに勝ったアメリカそのものであった」(宮田前掲)。米国から持ち込まれた紙だった。同社は、いわば日本の中のアメリカであり、最所は水を得た魚のようだったろう。当時はすべての記事が英語版からの翻訳で独自記事はなかった。最所の業務は訳文修正である。同社はひとつのスペルミスも許さない正確さへの執念があり、本社編集部でリサーチャーの女性編集者の権威は絶大だった(塩谷紘『リーダイの死』)。その企業文化は日本支社でも同じだったと思われる。

ところが松田銑は1967(昭和42)年に同誌編集長になり、創刊以来のバックナンバーに目を通して不自然な訳が気になった。そもそも彼が途中入社して編集長に就任したのは、同誌翻訳記事への彼の批判が広告部員から首脳部に伝わったからだった(宮田前掲)。朝日新聞出身の初代編集長鈴木文史朗が「翻訳の文章はあんまり日本語になり切らない方がいい。多少いわゆる翻訳調を残しとくことだよ」と言っていたと最所から聞き、そういうことかと疑問は解けた(松田『二つのジャーナリズムの谷間から』)。

同誌は「明らかにキャンペーンの主観的意図を持って、継続的にある線に沿った記事を載せることはする。そのもっとも顕著な例の一つは反共で、もう一つは反煙である」と松田は記している。『リーダーズ・ダイジェスト』は国際的なメディアとして米政府からの独立は堅持したが、反共政策の支援はしていたというのである。創始者デヴィット・ウォーレスの「反共、キリスト教、プラグマティズムに根ざした保守的なアメリカニズム」は宮田昇も指摘するところである。

ちなみに鮎川は同誌1983(昭和58)年1月号の「リーダイズ・ダイジェストと私」欄に寄稿し、米国では「雑誌だけでも一万種以上あって、とても読みきれるものではない。どこかで整理しないと、アメリカの全体像が見えなくなってしまうだろう。アメリカの雑誌文化の全体を整理してコンパクトにしたのが、この雑誌である」「少しでも文化の普遍性を信じるなら、ダイジェストを読んで、ずいぶん学ぶことがあるはずである」と述べている。そして最後に、レフチェンコ事件(ソ連国家保安委員会による日本国内諜報活動の暴露事件)で正確な情報を迅速に伝えたと同誌を評価している。

鮎川がいう「文化の普遍性」がアメリカン・デモクラシーの「普遍性」を指していることは明白だ。石川好は、「世界認識なんて、少なくとも今の時代に、そういう言葉を使うとしたらさ、アメリカ認識ってことじゃあないのかな、僕が世界という言葉を使う時は、“アメリカ”を前提にしているんだ」(石川「深夜の長電話」)と鮎川が語ったと証言している。彼は、鮎川が「骨のずいまで[アメリカン]デモクラシーの信奉者ではなかったか」と続けている。

1970(昭和45)年に最所は『リーダーズ・ダイジェスト』を退社する。給料は並外れて高額だったはずだが、東京にあったアジア編集局がなくなり、そのスタッフが本誌編集部に吸収され、社内の人間関係が険悪になるなどしていた。創刊号発売以来、日本人読者に圧倒的な人気を誇った『リーダーズ・ダイジェスト』だったが、ベトナム戦争の影響でアメリカ神話とともに同誌の輝きも急速に衰えつつあった(塩谷前掲)。そろそろ潮時だと考えたのかもしれない。もっとも、最所自身は「学校では英文学を志したのですが、その後は英語の語法の変遷といったテーマに絞られた形で仕事をしておりますため、保守的なダイジェスト社では異分子に近かったのです」と牟礼慶子に語っている(牟礼前掲)。20年以上在職するなかで、徐々にそうなっていったのではないだろうか。

ちなみに、1967(昭和42)年に村松剛(1929-94)がアジア編集局長を打診されているが、固辞し編集顧問になっている。村松は三島由紀夫と親しかった反共の評論家だが、1963(昭和38)年にアジア財団の招きでアジア諸国を歴訪、1964(昭和39)年からは(死後に明らかにされたことだが)内閣調査室の防衛問題懇談会メンバーであり、1965(昭和40)年にはアルジェリア戦争を取材、また同年ニューヨーク・ジャパン・ソサイティの招きでアメリカとヨーロッパを訪問している。(拙著『村松剛』参照)。こうした経歴が『リーダーズ・ダイジェスト』アジア編集局長に相応しいと目されたのだろう。

『リーダーズ・ダイジェスト』編集部時代、最所は『英語青年』『書評』などの雑誌で海外新刊書籍の紹介をしているが、ジャパン・タイムズでも1948(昭和23)年から1974(昭和49)年まで26年間、Foumy Saishoの名前で映画コラムを連載している。fumiを米国人が発音するとfoumyとなるのだろう。映画の英文コラムはそれ以前は同紙になく、「私の映画コラムは誰もみんなネイティヴが書いたと思ってるようよ。ジャパニーズが書いていると思う人は誰もいない」と彼女は加島に語った(『英語類義語活用辞典』解説)。強い自負がうかがわれる挿話だが、彼女の英語にかける熱情には過剰で強迫的なものが感じられる。本物そっくりであること。白人エリート男性のようにアメリカ英語を操ることが名誉であり威信となる時代があったのだ。

言語はそれ自体が文化なので、日本人の感性や見方がレビューに反映したらネイティヴは違和感を抱くはずだ。それゆえ語学的自然さのみならず、着想や捉え方といった側面も米国人のようでなければならない。最所はアメリカ人になり切って映画レビューを書いたのだ。映画というメディアが文化工作に使われる装置であることも想起すべきである。最所が26年間、とりわけ検閲があった米国占領期の7年間に取り上げた映画のタイトルとレビューは分析する価値がある。

さて、最所が加島祥造と知り合ったのは1948、49年頃である。1950(昭和25)年に共訳したジェイムス・アルマン『白い塔』の印税で、目蒲線大岡山駅のそばの丘の上に、二部屋の洋室がある木造平屋の家を建て、1952(昭和27)年に加島が米国留学するまで一緒に暮らした。アメリカ流に、室内でも靴のままというスタイルだったらしい(河原晉也『幽霊船長』)。

最所は『白い塔』と同年に、ニナ・カサリン・ラン『新しい女性美―肉体的魅力とあなたのホルモン』という訳書も出している。版元の改造社は、大正期の婦人解放運動を受け1922(大正11)年から23(大正13)年にかけて25冊刊行した雑誌『女性改造』を、1946(昭和21)年に復刊していた(樽見博「戦後版『女性改造』の休刊について」)。戦後の女性解放という時代的文脈のなかにこの訳書もあったわけだ。NHK海外放送時代の同僚である並河亮が、やはり1950(昭和25)年にドス・パソス『U.S.A』を改造社から刊行開始しているので、その繋がりからもしれない。

訳者まえがきが4頁あるが、そのなかに次のようなくだりがある。「美しく魅力的な女性は、すべての人々から愛されます。(中略)しかしあらゆる女性がすべて、素晴らしく美しい容貌を与えられるというわけにはゆきません。(中略)けれども、お互に相手を満足させようとする意志を持ち、独特の個性的魅力を獲るように努力するならば、かならずあなたの人生の前途は、喜びに満ちたものとなるでしょう」。これまで女性の美といえば、もっぱら美容術や服装、ファッション面に偏っていたが、本書はホルモンが女性の一生にどのように働くかを科学的に説いた画期的な書物であるという全体の文脈に埋め込まれた文章だが、最所フミが理想とした女性像と男女関係を語っているように読めないこともない。障害や加齢で容姿が衰えても、溌剌とした若さを維持し続けることは不可能ではないと、40代を迎えた最所は書いている。彼女は目立つことを好まず、自己を語る文章を残していない。それゆえ、僅かな手がかりから彼女の肉声を聞き取らねばならない。

当時の最所は、品川区御殿山で山月荘という二間のアパート暮らしだった。加島が初めて招かれたときは、その場にもうひとり女性がいた。加島はこのアパートで最所と同居することになる。1952(昭和27)年に早川書房に入る宮田昇(1928-2019)はここを訪ねた。宮田はいう、「最所が改造社より翻訳を頼まれ、その下訳というより翻訳を加島に代わってするよう頼み、面倒見のよい加島が、北村太郎と福島正実と私[宮田昇]を仲間に加えてくれたからである。最所は文章を書くのがいたって苦手な人だったが、その英語を読む、喋る力は抜群で学ぶことが多いと、加島ほど英語のできる人間が率直にいっていた。それが彼が同居人になっていた真の理由だったかもしれない」(宮田前掲)。

最後のくだりは酷薄だが、そう思わせるところが加島にはあったのかもしれない。考えてみれば、加島がふだん最所と英語で話していたのは、自分の英語会話能力を、より洗練させたかったからだろう。それはともかく、最所は一回り年下の男たちに翻訳の経験を積ませ、報酬を与え、女性の心身に関する科学的知識も与えたのだった。最所と加島は翌年にもう一冊、ラルフ・マーティン『ネブラスカから来た男』を共訳している。

ついでながら「最所は文章を書くのがいたって苦手な人だった」という加島の述懐は、英語では敵わないことから吐いた負け惜しみではないか。彼女が当時書いていた海外新刊紹介記事などは、簡にして要を得た見事な文章だし、そもそも母国語以上に外国語を巧みに操ることは不可能だからだ。

ねじめ正一の小説『荒地の恋』では、加島と親しかったこの時期に「荒地」同人との交流もあったように描かれている。しかし、「荒地」の中心人物だった鮎川との出会いについて、「私の方が一目惚れでした」(牟礼慶子『鮎川信夫 路上のたましい』)と最所自身は語っているので、辻褄が合わない気がする。

加島の留学照会の手紙は最所が書いた。戦争中は病院船として使われた貨客船氷川丸で渡米する加島を横浜埠頭で見送ったのは、詩人関係は、最所が声をかけた北村太郎(1922-92)だけだった。1954(昭和29)年に加島は帰国するが、別の女性との間に長男が生まれたことから最所のもとを去る(『AERA』2003年12月1日号インタビュー他)。ねじめ正一は『荒地の恋』で、北村の家に遊びに来た加島が、留学先での恋愛を、北村の妻には理解できないよう英語で喋るのに反感を抱き、「お前さん、英語はペラペラになったか知れんが女を見る目は曇ったんじゃねえか、と心の中で悪態をついたりもした」と書いている。リアルな描写なので根拠があるのだろう。加島は日本にいる最所と手紙のやりとりをしながら、アメリカでは新しい恋愛をしていたのだ。

留学前、加島は最所の実家に行って家族と面会したことがあった。父親は死去していたから、母親に結婚予定の男性(加島の認識では再婚相手)として紹介されたのだろう。「高級官僚の家で、家は豪壮なものだった。(中略)上流階級のある種のとりすました冷たさというものがある。もしかしたら最所家にとって最所フミは隠しておきたい存在だったのかもしれない。彼女はそうした実家の扱いをアメリカ流に受け止めて、あたしはあたしで生活していくからいっさいかまわないで、という態度だったんだ」(樋口前掲)。加島は東京神田の呉服商の家に生まれた。11人中9番目の子供だった。加島が最所の実家に感じた印象は、彼が育った下町的な気取りのない生育環境が反映しているのではなかろうか。だがいくばくかは最所フミが実家に対して抱いていた感情を代弁しているようでもある。

鮎川と最所がふたりで役所に婚姻届を出した1958(昭和33)年は、1951(昭和26)年から出ていた年間詩集『荒地詩集』が最後に刊行された年である。北村太郎は当時を回想して次のように語っている。「「荒地」的な終戦直後の精神状況と、世の中、社会の存在のありようが違ってきて、「荒地」のグループとして存在理由があやうくなってきた」。そしてその象徴的な出来事として、田村隆一、黒田三郎、三好豊一郎が相次いで草野心平の「歴程」同人になったことを挙げている。「「荒地」というグループそのものが弛みはじめて、当然終わるべきときに終わった」(北村『センチメンタルジャーニー』)。

鮎川に話を戻すが、彼が抱いていた父親像は歪んでいた。それが言いすぎならば、父親に対するアンビバレントな愛憎感情から彼は生涯自由になれなかった。父親から嫌われている、憎まれていると鮎川は信じ込んでいた(鮎川『一人のオフィス』他)。「私の考え方、感じ方は、少年の頃からほとんどこの父に抵抗するようなかたちで育っていった。それゆえ、大学の予科に入る頃にはファシズムに対する嫌悪などは、ほとんど生理的なもの、といっていいほどになっていた。その意味では、父の影響は絶大だったと思っている」(鮎川「戦中手記」後記)。

詳細は拙稿「「鮎川信夫の父、上村藤若とその友、楠章」を参照願いたいが、父藤若が大正時代に中野正剛と『同志』という雑誌を出していたという鮎川の記述は事実ではない。また、苦学して学士になった藤若には、華族制度や部落差別に対する嫌悪があり、大正デモクラシーの自由主義的な空気を知っている人だった。大正生まれの鮎川が思春期になった時代、とりわけ満州事変以後の政局の変化とともに、彼はナショナリストへと変貌していったのである。

高等小学校への進学さえ親に反対された藤若は、代用教員、師範学校、早大師範部を経て早大英文科を卒業した。長男の鮎川を早稲田中学に入学させたのは、早大進学が有利になると考えたからだろう。中央線沿線で家庭を構えたのは山の手の生活を子どもにさせるためだったはずだ。陸軍軍人山口一太郎とのささやかな接点から2・26事件後に怯えたのは家族への影響を心配したからで、鮎川の陸軍入隊時に「嘲りともあきらめともつかぬ薄笑いを浮かべただけで、何も言わなかった」(鮎川「凌霜の人」)のは、学校教練に出なかったばかりに大学は中退し、そのために幹部候補資格も喪失、二等兵として軍隊に行く恩知らずの息子を、心底不憫に思ったからではないだろうか。親の心、子知らず。実際、鮎川は大学中退のため、戦後の再就職に苦労するのである。

藤若の戦後日記と雑記帳を遺族の好意で閲覧した河原晉也が伝えるところでは、藤若は鮎川の麻雀三昧の生活ぶりに胸を痛めている。「横暴な独裁者だったみたいに云われているが、ここいら辺は認識を改めていただきたいと思う」と河原は記している(河原前掲)。もっとも、鮎川の目に映じていた父親が「ファシズムの共鳴者」として実際以上に大写しにされていたことはたしかである。

鮎川は父親とよく似た顔立ちをしていたが、口髭は蓄えず、眼鏡はセルフレームを好んだ。ある時期からは、髪も整髪料で撫でつけず長く伸ばした。すべて父親の反対である。既述のとおり、父が苦労して卒業した早大英文を鮎川は中退した。父は帝国日本や国策団体と自らを一体化しようとしたが、鮎川はそれに反撥し、集団に所属することを嫌悪して日本現代詩人会にすら入らなかった。そして一匹狼のコラムニストとして生きた。父は10歳近く年下の妻と家庭を築き子どもを儲けたが、鮎川は10歳以上年上の女性と結婚し子どもを儲けなかった。

「父の行き方とは、すべてにおいて反対の方向に自己形成していったようである」(鮎川「詩的自伝として」)と自ら記すように、父親との根深い確執から彼は「単独者」の人生を歩んだのである。「鮎川は独身の青年のスタイルを捨てられなかったんだよ。それは鮎川が一番好きなスタイルだった」(樋口前掲)という加島祥造の見方は表面的に思える。これは自分を語っているだけなのではないか。

最所フミもまた、大日本帝国の高級官僚夫人として6人の子どもを産んだ母親とは反対の生き方をした。子を産まず、コラムニストとして生きた。母親の職業である教師にはならなかった(官報1938年11月15日には、高等学校高等科教員英語免許状授与者に名前がある。自ら進んでではなく、親に取らされたのかもしれない)。「単独者」として彼女が生きたのも、母親の生き方から逃れることだった。

フミは家事が不得手な人だった(河原前掲)。高等女学校の教育課程には、男子中学校にはない家事・縫裁が必修科目としてあったので、良妻賢母という押し付けられた生き方を、彼女はある時期に捨てたのだろう。しかし鮎川との生活では、パンと野菜、ゆで卵、そして粉末スープという簡単な朝食は彼女が用意した。彼女自身は酢味噌で和えた膾が好きだった。実家で覚えた味だったのだろう。それを近所の店で買ってくるのは鮎川だった(河原前掲)。藤若ならやらないことだ。男尊女卑の「封建主義」的な夫婦関係がなかった。

鮎川は、日本の道路事情には不似合いな、排気量があるアメリカ製の大型自動車を運転していた。「ハイカラでピカピカ」だった(荒川洋治「ホームズの車」)。メーカー未詳だが、フォード社製なら、同社の財団は日本文化フォーラムなど反共知識人集団を支援していたから、少々できすぎた話になる。環境問題が世間の話題になった時期も、「排気ガスの公害っていうのは、あんまり信用していない。マスコミが騒ぐほどにはね」と谷川俊太郎(1931-2024)に語っている(対談「“書く”ということ」)。

鮎川信夫と最所フミを結び付けたもののひとつは英語だった。それは西側自由世界の盟主アメリカの言語だった。無批判に米国を支持したわけではないが、軍国主義時代の日本を知っている彼らは、アメリカ合衆国が掲げるデモクラシーの理念に眩惑されたように思われる。彼らはしかし、戦後日本の権力や政治には決して近づかなかった。利用しようとする人々もいたと思われるが、ふたりは戦時中に人的資源として軍隊や放送に動員された二の舞を演じたくなかったのだろう。鮎川は国民健康保険と国民年金にも入っていなかったと伝えられる(座談会「偉大な〈中心〉の喪失」での芹沢俊介の証言)。単独者の真面目というべきであろうか。

結婚を公にしなかったのは、周囲が妻帯を知らなかった磯田光一の個人主義とも通じる信条をうかがわせる。しかし、田村隆一、北村太郎、それから加島祥造が演じた、通俗ドラマになるような「荒地の恋」とは一線を画した、慎ましい人生を好ましく思っていたのではないだろうか。互いを信頼しあう平安な暮らしを愛したのだ。

ふたりに子どもはいなかったが、晩年の鮎川はノンフィクション作家宮本美智子(1945-97)を娘のように感じていたようだ。旭川第7師団に入隊して関東軍の騎兵として大陸にいた彼女の父親はアメリカを嫌っていたが、彼女は1968(昭和43)年アメリカに留学し、1986(昭和61)年に帰国するまで17年間をほぼニューヨークで暮らした。彼女の著作からは教えられることが多いと、鮎川にしては意外にも思える発言をしている(鮎川「ニューヨーカー、宮本美智子」)。宮本の『アメリカが嫌いだった父へ』文庫版(1985)には解説を書いた。子どものころ、家事を手伝おうとしない彼女を「女のくせに」と怒鳴った父親は、彼女の高校卒業直後に急逝した。自己主張の強い、戦後生まれのお転婆娘がアメリカで奮闘する姿に、鮎川は若き日の最所フミが果たせなかった人生を重ね合わせていたのかもしれない。心を許した彼女にだけは、「誰にも言っちゃいけませんよ」と前置きをして最所の存在を打ち明けていた(宮本「鮎川信夫の愛と死」)。

1986(昭和61)年10月17日、鮎川信夫は成城の親戚宅で倒れ、搬送された三鷹の大学病院で息を引き取った。通夜葬儀は故人の遺志で行わなかったが、出棺の場にいた北村太郎は、棺にかがみこんで「ひとりの婦人が激情をこらえながらお別れをしている」のを見て思わず息をのみ、そしてすべてを理解した(北村前掲)。

北村から話を聞いて加島祥造は驚いた。英文学者としての名声は高かったが、彼には苦しみもあった。女性との愛において、同じ失敗を繰り返す自分だったからである。英訳書で老子の思想と出会うのは数年先であり、当時はサイエントロジーに接近していた。

鮎川が死んだ年に、日本から『リーダーズ・ダイジェスト』が撤退しているが、この年に出した『アメリカ英語を読む辞典』が最所の最後の仕事になった。戦前のアメリカ留学についても、戦中の海外放送についても、戦後のリーダーズ・ダイジェスト社についても、最所フミは歴史的証言を残さなかった。自分以外に書き残す人がいると考えたのだろう。「鮎川さんがこの世に遺したことを英語で書いておきたいと思いますが、詩がよくわからなくて、書き上げられますかどうですか」と牟礼には語っていた(牟礼前掲。「鮎川さん」という部分に牟礼は脇点を振っている)。結局それも果たさなかったのは、自分しか知らない鮎川の記憶だけは、心のなかの宝石箱にそっと仕舞っておきたかったからかもしれない。 

1989(平成元)年、ベルリンの壁が崩壊し、米国とソ連の大統領がマルタ島で冷戦終結を宣言した。その翌年の1990(平成2)年12月28日、最所フミ子は静かにこの世を去った。ソビエト連邦が解体し、超大国アメリカの覇権が揺るぎないものとなるのはその翌年のことである。

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