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岸惠子(13)国連親善大使と母の死

一九九六年、岸は国連人口基金親善大使に就任した。そしてヴェトナムに行き、二年後はセネガルに行った。

世間名のある人物が国連関係の親善大使を務めることは、日本に限らずしばしばあることである。岸と同世代の黒柳徹子は、国際連合児童基金親善大使として、一九八四年に就任し、アフリカやアジアの諸国を、二〇一七年に至るまで訪問している。岸より三歳年上のオードリー・ヘプバーンもまた、一九八九年に国際連合児童基金親善大使となり、一九九三年に亡くなるまで、アフリカや中米などを訪れている。彼女はナチス時代にオランダで少女時代を送っており、親善大使という役職に対する強い意欲があったといわれる。

岸がこの仕事を引き受けたことにも、彼女なりの思いがあったことは確かなことと思われる。しかし、引き受けたこの仕事について、最初のミッションであるヴェトナム訪問で彼女はかすかな疑問が胸に兆すのを覚えた。

ハノイを訪れたのは三月だった。それから二週間、岸はハノイとホーチミンで過密な日程をこなした。飛行場でのセレモニーで、岸は居心地の悪さを感じていた。「援助される側のヴェトナムの人たちのほうに、人間的な幅やゆとりを感じた」からである。そしてそれは帰国するまで、どこに行っても感じた思いだった。

《表敬訪問や報告会、地元の女性ヴォランティア(なぜか女性が多かった)が人口基金の援助金を元手に活動しているさまざまな施設の視察や、夜昼おかずの食事会とそれにつづく討論会がびっしりと詰まっている。それにはいかにも公式訪問というかたちを整えた、双方の誠実と、儀礼的微笑と、熱のこもったスピーチが間断なく交錯し、フラッシュが焚かれ、ニュース・キャメラが廻り、私の中で潮が引くように、急速に冷めてきた眼が焦点を失って宙に浮いた。〔原文改行〕ちがうっと私は思ったのだった。私はこういう類のセレモニーがてんから苦手だった。熱心に推奨され、うかうかと闇雲にお受けした「親善大使」という栄誉あるお役目は、到底私の柄ではなく、気分にもそぐわず早々に返上しなければ……とこの時点では思った。》(『30年の物語』)


撮影隊とともに、電気もガスも水道もない農村など各地を訪れたあと、ハノイでの最終日、岸は信号機のない繁華街の四つ角で、多くの自転車が行き交う中を、一人で横断したくなった。「あとから思えば消え入りたくなるほど恥ずかしい気紛れ」だったと記しているが、その姿を取材班が撮影する算段だった。ところが、岸は少年が二人乗りする自転車と正面からぶつかり擦り傷を負ってしまった。少年たちはすまなさそうな泣き顔をした。

セネガル共和国は、岸にとって思い入れのある国だった。結婚してしばらくして、夫シャンピがアンドレ・マルロー文化大臣とともにセネガルに強い関心を持ち、「自由一番街」という映画を撮影したのだった。ネグリチュードの詩人としても名高い大統領サンゴールの娘が主演をし、「群れなす巨大な神木バオバブ、その祠に棲む魔人への恐れや迷信、呪詛や奇術を倒して,オーリス・ロネフンする土木技師が道路を作る」というストーリーだったという。

要するにフランスの植民地支配から独立した新興国家の近代化推進をテーマにしたフィルムだったようである。そのセネガルを、岸は四〇年近くぶりに再訪したのだった。目的は、医療具を運ぶためである。募金であつめた浄財を、現金で政府に渡したのでは、どこかで消えてしまわないとも限らないとの危惧があり、物に替えて自分で届けようと考えたのだ。それは国連側の意向とも合致していた。岸はダカールからジープに乗って村々に医療具を届けて回った。

「うかうかと闇雲にお受けした」、「到底私の柄ではなく、気分にもそぐわず早々に返上しなければ」と思ったこの仕事を、岸は一期でやめた。セネガルに行っていたときに、日本で独り暮らししていた九〇歳の母親が亡くなり、死に目に会うことができなかったことが、彼女を完全に打ちのめしたからである。

セネガルに医薬品を届ける仕事は、自分でなくともできる。しかし、母には自分しかいない。取り返しがつかないことをしてしまったという後悔が、親善大使を継続する意欲を岸から完全に奪い取ってしまったのだった。(続く)

*次回は「キャメラがあるからの茶番劇」


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