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岸惠子(14)キャメラがあるからこその茶番劇

岸惠子の最も鋭い批判者は、一人娘のデルフィーヌ・麻衣子・シャンピである。両親が離婚したときに、彼女は一一歳だった。彼女は一七歳の夏休みに「国境なき医師団」のボランティアとしてアフリカに行っている。ピグミー族のハンセン病治療活動に六週間従事したのだ。岸が国連人口基金親善大使だったときには、ヴェトナムに同行し、母親に向かって、ママには見えていない現実があると指摘している。

国連親善大使の岸に同行したデルフィーヌは、自分の世代は戦争をテレビを通してしか知らないので、ヴェトナムに来られて良かったと素直に感謝した。だが、ハノイで岸が無茶をして撮影のために道路を横断しようとした際に自転車の少年とぶつかったときには、「キャメラがあるからこその茶番劇よ」といって母を強くなじった。

アメリカ軍の枯れ葉剤の影響で重度の障害を負った子どもたちを、岸はホーチミン市内の医療施設で見ていたが、娘は地雷や戦闘で腕や脚を失った人が、岸がインタビューしていた市場の人々の周囲にも数人いたのを見ており、そんなことを母親に言った。岸は驚いた。「自分の眼には入ってこなかった」からである。

「親善大使って、結局は公式訪問の政治家みたいにキャメラや政府の要人に囲まれて、見えないものがたくさんあるんだ……。ママンはヴェトナムの表を見、あたしは朝早くから自転車で裏通りにまで踏みこむ時間があったの」。そして映画「ヒロシマ・モナムール」の有名な台詞「君は広島で、何も見なかった」をもじって「君はヴェトナムで何も見なかった」といって母親をからかった。

スーダンにも同行した娘が「キャメラ用の自分を作らない」、「何事につけても擬装し、媚びるということが出来ない」ことに、岸は驚いている。自分はいつでもカメラを意識しているからである。「岸惠子」は、カメラが向けられることによって、映像となることによって、存在する。彼女の著書の多くにも、口絵に肖像写真が載せられている。

日本とフランスという洗練された国に暮らしていると、「去勢されていない生れたままの人間の欲望をいっぱいくっつけて渇えた眼をしたきれいな人間たちに出会いたくなる」というアフリカに対する岸のオリエンタリズムについても娘は批判する。

《ママンはずいぶん単純な都会人ね。牛糞を躯に塗り、牛尿で顔を洗う〝文明〟のかけらも身につけていないアフリカ奥地の原始の人たちは、あなたが思うほど純粋でもないし、善人でもないのよ。彼らは生きるということにかけては、たっぷりとしたたかで、若い女を扱うまだ青年にも達していない男たちの手練手管はたいしたものよ。〔途中省略〕原始的な生活をしているから人間がきれいだと思うママンは都会がつくった小児病患者よ。》(『砂の界へ』)


「またはじまった。またパパの受け売りが」というような台詞は、娘でなければ吐けない言葉であろう。このような娘からの批判を、著書の中に岸が敢えて書き留めているのは、厳しいことを直言してくれる信頼すべき人物が周囲に少なく、彼女の存在を貴重に思っているからなのかもしれない。

デルフィーヌはパリ大学を卒業したあと、パリ東洋語学校で日本語を学んだが、日本語を読み書きをすることはできない。したがって、母親が書いた書物を読むことができない。これは岸には淋しいことだろう。初めての小説『風が見ていた』(二〇〇三年)の装画が愛する娘のものであるのも、故なきことではない。

夫だったシャンピは「乾杯」という日本語しか知らなかった。知ろうとしなかった。その夫の死後、フランスでの生活の一切合切を、たとえばアパルトマンの修繕に関する関係者とのタフな交渉や、数年間かかった裁判を、岸はすべてフランス語でやってのけた。とはいえ、彼女が帰るべき世界は日本であり、日本語の世界だった。自分にあるのは「一張羅の日本語」だけであると彼女は考えていた。(続く)

*次回は「メロドラマへの回帰 『わりなき恋』」

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