岸惠子(12)正統派ユダヤ教徒たち イスラエル
三年後、テレビ朝日で岸はふたたびイスラエルの取材をしている。なぜパレスチナ問題やクルド人、パリのアラブ人などにこだわるのかと自問した岸は、日仏の間で宙づりにされた自分のアイデンティティに思い当たる。
《二つの国籍を持ち、立派なパスポートや身分証明書を持つ身の私が、国を追われ、家もなく、食物もない難民の恐怖や苦痛に胸をつまらせるのはいい気なものだと言われるかも知れない。比較が突飛で顰蹙をかうかも知れないが、誤解や屈辱や差別(人種的にではなく、私の場合生き方や考え方の問題で)や、耐え難いアンコミュニカビリティ(意思不疎通性)にさらされてきた、魂の在りかが遠い原点で彼らとつながっているように私はかんじるのである。》(『ベラルーシの林檎』以下同)
「フランス人、とか日本人という盤石で、立派なセキュリティの上に私はもう立っていないように感じるのである」と岸はいう。別の文章のなかで、パリと横浜の暮らしに「ひび割れるような痛さを伴った亀裂を感じる」と書いたこともある。ここでわたしは、自分にははかりしれない内的世界が岸惠子という人にあることを、朧気に感じ取るのである。
イスラエルを再訪した岸は、前回の取材では反対されできなかったエルサレムのメアシャリーム地区に入った。ここはユダヤ教正統派たちが暮らす一角である。「彼らには絶対に話しかけないで」と現地スタッフのラウルから岸は言い含められていた。ある黒服の一群を見た岸らは、車を降りた。一人の立派な風体の人物が見えた。スタッフは信号の向こう側にいた。岸はラウルとの約束を破り、思い切ってその男性に近寄った。すると突然、大勢の人々が現れ、スタッフたちに襲いかかった。岸にも襲いかかってくる。
《パレスチナ人であった運転手は当然のことながら事態を察していち早く逃げていた。空のタクシーに飛び込んで私はただ顫えていた。後ろの席でキャメラマンが、乗り込んできた二、三人の黒装束に腕を捩じあげられ、耳が裂けるような悲鳴をあげている。車の屋根にも、ボンネットにも黒ずくめの人々が這い上がり、狂気の宿った眼で怒りをむき出しにして車を叩き、私はゆらゆら揺られながらヒッチコックの『鳥』を思い浮かべていた。〔中略〕横浜一斉空襲の朝、轟音を立てて炸裂する焼夷弾の中を逃げたときも、イランの殉教者墓地をキャメラを首から下げて歩いていただけで、革命防衛隊から自動小銃を突きつけられ手錠を嵌められそうになったときも、ガザの坂道で挟みうちにされたときも、これほどの恐怖感はなかった。》
一人の若いラビが、英語で岸に話しかけた。「連中は、あなたが故意に大道士に近寄ってそれを撮影したと怒っているんですが、ほんとうですか」。岸は嘘をつくことができず、「仰言る通りです。でも、どうぞこの人たちに説明して下さい……」と応えた。しかしそのラビは周囲の人々によって、その場から引き離されてしまった。幸い、煉瓦色のシャツを着たひとりの青年がそこに現れ、窮地を救ってくれた。正統派の人々に向かってヘブライ語で大声で怒鳴り、岸を乗せた車を強引に発車したのである。「連中のターゲットは、そんな服装で道士に近づいたあなたと、それを撮影したキャメラマンに絞られています」。「袖なしとミニ・キュロットの女性が、人望のある道士と並んで交差点を渡るところを撮影すれば、こうなることは当然です」と彼は言った。
《服装のことは全く知らなかったが、ジャーナリズムの気負い立った傲りは、たしかに不愉快である。(勝負ッ)と念じたときの私に、「成せば成る」という高ぶりがなかったとはいえない。不遜であった。もっとこの地区について確かな情報を得るべきであった。》
岸と日本人スタッフの無知には驚くばかりで、読んでいて苛立ちを覚えずにはいられない。しかも彼らは、この事件の責任を、コーディネーターのラウルに帰しているのである。この記述を読んで、読者はユダヤ教正統派の人々に対する驚きを覚えるよりも、岸らのあまりに無謀なふるまいに驚きを覚えるのではないだろうか。この出来事は、イスラエルでヘッドライン・ニュースになり、外電で世界に発信されたという。
事件のあと、岸はシャミール首相に三年ぶりにフランス語でインタビューした。岸はアラファト議長との交渉をなぜ拒絶するのか、ソ連からの大量の入植者はパレスチナ人を脅かすことになるのではないか、日本との国交についてどう考えているのか、といった質問をしている。シャロンの回答は、当然のことながら、イスラエル政府の公式見解をなぞるものでしかなかった。(続く)
*次回は「国連親善大使と母の死」
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