THE BACK HORN はイキルサイノウを得たのだろうか
簡単な経緯
2024年7月3日、 THE BACK HORN(以下、バクホン)の新曲『修羅場』がリリースされた。
ショート動画としてMVが小出しにされていく中で、嫌な予感はしていたのだ。
「頭大丈夫そ?」という独特なフレーズの抜き出しが、学生の頃から今まで「大丈夫じゃない」生活をしてきた自分に問いかけられているみたいで、脳裏に焼きついて離れなかった。
たしかにわたしは全然まともじゃないし、人生だって大丈夫じゃない。
でも誰にも話せなくたって抱え込んだって大丈夫だった。
そんな時いつだって奮い立たせてくれるバクホンがいたから。
だからきっと今回も大丈夫。
芽生えた不安は一旦、横に置いた。
この前(2024年 3月)のパシフィコのときのVJ(ライブに合わせた映像演出)や、最近のSNSの打ち出しにも違和感があった。
けど、きっと今はチーム一丸となって時代に合う方法を模索しているんだよな…?
「音楽を仕事にして食っていく」ってそういうことだよな、と自分を納得させていた。
嫌な予感は悲しくも的中した。
新曲のテーマは不倫で、それもえげつないほど刺激的な映像のおまけつきだった。
MVではマネキンの男女がベッドに座り、女視点・男視点それぞれからスマホ画面で罵詈雑言を浴びせ合う歌詞、各々の「お楽しみ」の証拠を詳細に暴露する構成でストーリーは進む。
(本当にエグいし色も光も強いので閲覧注意)
本作品のプロモーションとして、バンド公式の Xアカウントでは、#修羅場ってる というタグをつけて修羅場エピソードを集める企画を展開。
ファンの間では「この企画はさすがについていけない」「バンドイメージに関わる」と真剣に不安視する「こんな売り方する運営の頭大丈夫そ?」派と、それに対する「うるせえ黙れってマジで」派とで混迷を極めた。
…とかネタにするしかなくて書いたけど、全然笑えない。
ファンが分断するようなことはこれまで見たことなかったし、わたし個人としてもバクホンには思い入れと信頼がありすぎたのだ。
自己紹介
この記事はあくまでわたし個人の想いを昇華したり、今回のリリースのみならず近年の違和感の正体を探ったりすることが目的なので、前置きとして自己紹介を挟んでおく。
・10歳からバクホンを聞きはじめたファン歴21年目
・親父の不倫・隠し子発覚時代には特に支えてもらうなど、バクホンに強火の思い入れがある銀河遊牧民
・ライブ参戦とリリース曲を漏らさないことがメイン
・メンバー個々人の生活や反応に興味があるわけではない
・楽曲やアートワーク、音楽活動にまつわるエピソードのみ拾ってきた
・楽曲モチーフを刺青にして大事な気持ちを刻んだり、仕事の世界観に反映されるぐらいバクホンが人生哲学になっている
・好きな曲は季節や場面によってあるから聞かれた人にだけ早口で語るね!
過去作品はどうだったか
SNS上の感想を読んでいると、過去作品を引き合いに出したものがいくつかあった。
要約すると、
「初期の作品と変わらない、あえて騒ぐほどじゃない」
「口汚いのは今に始まったことじゃないし、暴力性が高い作品は過去にもあったじゃん」
といった感じだ。
「たしかに~」と思える部分と、「うん、いや、そう…かぁ?」という部分がある気がしたので、引っかかったところを整理してみた。
わたしが今回のリリースに感じた違和感を一言で表すなら、特定層を刺しにいく内容だったことにショックを受けたということだと思う。
まずはわたしの思うバクホンの特徴を提起し、その後に今回の作品への違和感を分析してみる。
彼らは(本人たちの認識としても)生き汚いとも言える泥臭い抗いと、泥中に光る希望を描いてきた。バクホンの唯一無二とも言えるバンド色だと感じていた理由には、以下の二点が大きい。
特徴① 余白で自由度を持たせている
バクホンの歌詞はストーリー的な状況を詩的な言葉で表したものが多い。だからこそ、リスナー個々人の日常を思い起こさせ、胸に眠っていた感情やエピソード(=情景)を自由に呼び起こす力がある。
この「聞き手の回想に任された余白」が残っているところが、彼らの音楽性でなによりも好きな部分だ。ライブで聴きながら今日までの自分を労うことができたのは、この余白のおかげだった。
特徴② 社会正義的な嘲り・断罪が無い
さらに、攻撃性や悲哀が”人の心の中”や”社会の在り方”に広く向くことはあっても、具体的な属性を社会正義的に嘲ったり断罪をしたりしなかったことにも、救われた。
これは、言葉汚かったり暴力を示唆する激しい作風であることと矛盾していない。
たとえばライブ定番のバンド初期曲『ジョーカー』ではこのようなフレーズがあるが、「自分より下のやつら」がなんの属性なのかは明示されていない。
一部 歌詞の人物像には具体性があれど、現実とは少し遠い作品の中のこととして承知できるものでしかなかったようにも思う。
また、歌詞からつらいエピソードを連想することはあったかもしれないが、歌詞そのものに直接傷つけられることはなかった。
違和感を得てもスルーしていく人間社会に疑問や恐怖を感じて独り絶望していく人間の仄昏さ、そんな不安に抗いきれず誰かを攻撃してしまう弱さや流されていく葛藤などを否定せず、彼らは人間のあるがままを音楽に昇華してきた。
その世界観を通して息づいているのは、不器用な優しさであると言っていいだろう。
だからこそ、新曲『修羅場』には世界観から離れたような違和感があった。
違和感を語るキーワードに浮かんだのは「露悪的」だ。
歌詞、MVの内容、キャンペーンすべてが合わさったことで、バンドの持つ世界観が薄れてしまい、後味悪い刺激だけが残ったのだろうと感じている。
違和感① 社会規範で殴ってくる感じ
まず歌詞だが、今までのような具体性を詩的にぼかした表現は消え、不倫の状況を描写し尽くしていた。
この時点で、他の楽曲のようなリスナー個々人の解釈を広げていく余地は無くなっていると言える。
浮気や不倫は楽曲だけでなくドラマや小説などでもよく取り上げられ、かつ刺激的な娯楽として消費されがちだ。
詳細に描けば描くほど、自分に無関係であってもフィクションであっても我がことのように怒り憎しみ、その感情をぶつけることに躊躇が無くなる。倫理の旗のもとに憂さ晴らしをするお墨付きをくれるのが不倫テーマの恐ろしいところだと感じてきた。
実際、『修羅場』リリース後には曲の感想に交えて過激に「不倫するやつ全員しね」などのコメントも散見された。わたし自身としては、その人のコメントよりも、バクホンの曲が誰かを攻撃する犬笛となった現実に打ちのめされている。
このフレーズにも苦しさを感じている。
ここでは妻側の視点から、”一般的に望ましくない”男性像・女性像が同時に表現されている。
男たるもの弱音を吐かず労働に耐え(⇔ストレスに弱い暗いメンヘラ)、女たるもの貞淑にすべし(⇔キッショイ名刺=水商売)という社会観念が、最後の二行に凝縮されている。
当然のことながら、バクホンが男女についてそう思っていると指摘したいのではない。
そうではなくて、今までは思考停止した一般常識と規範なんてクソくらえ・その上でどのように生きていこうかという曲たちに励まされてきたのに、ここへきて急に現実と規範の焼き直しの提示→葛藤や内面の揺れ動きを回収する展開も無く終わる新曲は今までとは180°違って見えて、戸惑いを覚えているのだ。
違和感② 刺激てんこ盛りのMV
不倫という、今まで扱ってきたよりもずっと卑近で具体的なテーマのこの曲を一層 露悪的に感じさせたのは、MVの表現方法も強く関係しているだろう。
LINE画面でのやり取りで歌詞が進行していくMVの構成は、過去のMVにあるような作品としての芸術性よりも現実味に溢れており、あまりにも生々しく諍いの様子を突きつけてくる。
(確認したい方は『修羅場』MVを参照されたし)
新曲の話とは少しズレるのだが、25周年記念ライブのパシフィコ横浜で投影された一部の楽曲のVJにも同じような違和感を得ていた。
先に書いたような楽曲の解釈の余地(=余白)を潰していく誘導や、視覚的な刺激を強調するものだったと記憶している。
過去のMVには物語性があったり、
バンドメンバーや音のテイストに着目した作品がほとんどで、わたしはその硬派さに痺れてきた。
抽象的に作品テーマを表した芸術性の高いMVも、彼らの世界観を表現するのに一役買ってきたと感じている。
生命の息吹と人生の速度を表したような『生命線』のMVは特に好きで、YouTube にアップされてからは幾度となく見た。
刺激の強さだけで比較するなら、メンバーに見立てたマネキンをメンバー達自身でぶっ壊していく『アカイヤミ』も恐怖を感じるものがあるかもしれない。
これは「本人達に見立てて」というのが重要な線を引いているように思う。
攻撃性が他者に向いているわけではないから、破壊や暴力に注目させた一作品として見ていられるのかもしれない。
今後、『修羅場』やパシフィコのVJに現れたような「リアルに即した表現」を強く出したものを作っていきたいというのが、26年目からのバンドの方針なのだろうか。
現時点ではよくわからないし、今回の「光と闇」をテーマにしたリリースはあと3曲残っているので、様子を見ていたいとは思っている。
(7/28 夕焼け目撃者 参戦前時点)
違和感③ 後手に回ってるファンダム戦略
近年の音楽アーティストの活動では、ファンコミュニティと公式が密接な関係性を構築していることも珍しくない。
いわゆる「推し活」の文脈が、アイドルのみならずバンドにも波及してきている。
熱狂的なファンを獲得すればするほど、バンドとしての活動が安定するのは想像に難くない。
そもそも、アーティストにとってライブ興業の収入はほとんど無くて物販の売上が全てという話も聞く。
そういう背景は押さえた上でなお、
「見たいのはバンドの生み出す言葉と世界であって、ファンダムではない」
「バクホンという一番煎じの表現の、美味しいところだけ飲んでいたい。」
「ファンが二番煎じした言葉をファンが飲み込む必要性が「わたしには」感じられない」
と思ってしまう。
わたし個人にとって、「バクホンに双方向性は不要だった」という話も含まれているのだが、この辺の話は別の記事で既に書いたことがあるので割愛する。
そもそも、バクホンがファンを巻き込んだ活動形態に舵を切ったタイミングはかなり遅かったように思う。
FC会員限定イベントや、お祭り感の強いライブでメルマガ経由の事前アンケート参加があるのがせいぜいで、
「25周年記念公演にキャッチフレーズをつけよう」とか、今回の 「あなたの修羅場教えて」キャンペーンのようなSNSの活用は、この2年くらいに始まったことじゃなかっただろうか。
ファンと公式があんまり干渉し合わない姿勢でやっているバンドだと思っていたからこそ、26年の下地を無視して今更ファンダムを作ろうと後手に回っているように見えるPR方法にはダサささえ感じている。
何も変わらねえよ、全て変わってゆく
とはいえ、「時代の流れを無視して硬派に貫き通すことも難しい」というのは、痛いほどわかるのだ。
昨今のSNSを中心としたファンへのPR戦線は苛烈さを極めており、新規ファンの獲得には既存ファンの盛り上がりが応援になるのは間違いない。
炎上しようがなんだろうが、とにかく話題に上ることこそが人の目を惹き、これまでの活動の再評価が促され、ひいては売上になる。
その重要度は職業柄、身をもって知ってもいる。
キャリア四半世紀を超えたベテランのバンドが拡大路線を今から目指すことには疑問が残るところだが、バンドメンバーよりも担当者が気を揉んでしまうことだってあるだろう。
プロとして音楽で食っていくってそういうことだろうな、といううっすらとした想像くらいはできる。
この21年間、わたしはバクホンを心の中でこれ以上ないほど、大事にしてきた。
でもそれをどれだけ、本人たちに見えるところで伝えてきただろう。
いちファンの意見で何かが変わるわけないとは、冒頭に書いたように今も思ってる。
ファン発信よりも先に運営やメンバー自身がもっと早く時代の流れに気づいて、ファンを先導しなかったから突然の変化に戸惑うことになったんだ、とも思ってる。
でも、こんなことになってから、自分の応援の仕方を振り返って初めて後悔した。
音楽文(現在はサイト閉鎖済み)を投稿したり、SNSにライブの感想を投稿したりもしてきた。
でも、もっとファンレターとかも送ればよかったのかなとか、レーベルの人にも伝わるぐらい、大声で言えばよかったかなとか、そうしたらこの未来は違ったんだろうか、とか。
たらればを今更並べたってしかたないのだが、売り手にも聞き手にも、わかりやすく意図を示したものが必要とされていく流れは明らかだったのに、ここまで来たらバクホンの姿勢はこの先も変わらないだろうって、わたしはどこかであぐらをかいていたのだと思う。
30年弱もやっていりゃ、世間に必要とされるものは変わる。
その変化に合わせて生きてけるのが、イキルサイノウなんだろう。
バクホンはわたしにとって、美しい傷痕だ。
笑う才能、生きる才能、それらに欠けてたって生きるさ、また生きて会おうぜ、って約束してくれたから、頑張ってこられた。
新曲のリリースによってバクホンとわたしの間にあった世界は一変した。
人間の全てが赦されるように思えていたライブ空間は、一部の人を追い込む可能性を得てしまった。
赦しを貰えたバンドは社会規範を盾に人を殴るお墨付きを付与したような格好になってしまったし、在り方に異論を唱えれば「ファンならネガティブなことを言うな」とSNSは荒れた。
『修羅場』のYouTube コメント欄では運営が肯定的なコメント全てに♡を付けて回っている。
多様性という言葉を使わずに多様さを表せていたバンドの25年間が、たった一曲とPRによってあっさり崩れ去ってしまったように感じている。
でもまだあと少しだけ、信じていたい。
だから自分のモヤつきを整理してから夕焼け目撃者(2024.7.28)に参戦したくて、最後は駆け足になってでも今この投稿を出した。
もし同じような気持ちの人がほんの少しでもいたら、わたしも救われるところが増える。
残りのリリースも待ってみようと思っている。
間違っている でも構わない。
信じている 続く世界を。