
「生きてるって言ってみろ」(友川カズキ)考察
生きてるって言ってみろ(歌詞)
ビッショリ汚れた手拭いを
腰にゆわえてトボトボと
死人でもあるまいによ
自分の家の前で立ち止まり
覚悟を決めてドアを押す
地獄でもあるまいによ
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ
淋しさ優しさ苦しさは
この世の切ないメロドラマ
屠殺場でもあるまいによ
ヒッピー フーテン 乞食の子
なげきの喜びいじくってよ
廃人でもあるまいによ
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ
夢と現実ぶらさげて
涙と孤独を相棒に
こけしでもあるまいによ
長髪 マンネリ いさぎ良さ
根っ子の太さはどこへやら
墓石でもあるまいによ
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ
衣装をこらして街をいく
ベタベタ化粧は誰のため
文化財でもあるまいによ
ほお杖 うつ伏せ 千鳥足
泣きっ面 うしろ向き 馬鹿騒ぎ
すずめでもあるまいによ
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ
〈心理カウンセラーとしての考察〉
友川さんのことは、この歳になって初めて知り、ちあきなみさんの「夜へ急ぐ人」に続いて、作品としては二度目の遭遇
先日阿久悠さんの「懺悔の値打ちもない」を、心理カウンセラーの視点で考察してみたが、この歌詞も、心理カウンセラーとして、大変興味深い楽曲と感じる
びっしょり汚れた手拭いを
腰にゆわえてトボトボと
死人でもあるまいしよ
のっけから強烈な言霊が放たれる
汚れた手拭いと言う表現は、まさに友川さんがこの楽曲を作られた時代に、あちこちで見られた風景だったのだろう
おそらく、ここまでなら、次の展開で男の生き様的なたくましい楽曲へと移行することも考えられただろうが、続くのがトボトボや死人と言う表現
自分の家の前で立ち止まり
覚悟を決めてドアを押す
地獄でもあるまいによ
自分の家に入るのに、覚悟がいる?
ボロボロになるまで必死に働いて手にした自分の家
その家の中には、覚悟を決めないと入れない
あんた、そんなの地獄じゃねぇかよ
あんたの人生、ホントにそれでいいのかよ
生きてるって言ってみろ!
それ、あんた、お天道様に向かって叫ぶことが出来るかい?
世の中の常識に縛られ、家族への責任に縛られ、必死に生きて、心がやせ細っている世の中の男たちが、友川さんの目には、なんとも表現し難く映っていたのだろうと思う
今では、汚れた手拭いを腰に下げて歩く人たちは、ごく一部にしか見られないが、満員電車に揺られる企業戦士たちにも、深く突き刺さる歌詞だろうと思う
淋しさ優しさ苦しさは
この世の切ないメロドラマ
この部分には、テレビの中にあるメロドラマにいつの間にか人の感情が乗っ取られてしまってる、つまりテレビと言う箱に、あんた自身が洗脳されてしまっているとの訴えを感じる
屠殺場でもあるまいによ
「屠殺場」と言う表現に思わずゾッとしたが、いったいここでなぜ「屠殺場」が出てくるのか?
おそらく「屠殺」の前には「養殖」があるわけで、例えば養豚は養殖場で生まれ育ち、自分が人に食べられるためにエサなど生きる環境を用意されているなど知りもしないまま生涯を過ごし、逝き方も自分では決められない
あんたはそんな風になっちゃいないか?
洗脳されてないか?養殖されてないか?屠殺されようとしていないか?
ヒッピー フーテン 乞食の子
なげきの喜びいじくってよ
この一節は、まさに心理カウンセラーを唸らせる
今では差別用語として使ってはならない言葉の連続
友川さんは、彼らを社会的弱者の象徴として登場させたのだろう
社会的に弱い立場に追い込まれた人たちを見て、自分はまだマシと安心している人たちは確実にいる
自分の心の脆弱さが根源となって、自分の不安を覆い隠すために、安心材料を無意識に求めて、見つけた瞬間に、喜びを感じてしまう現象だ
養殖されていることを無意識には自覚しつつ、その本質を意識的には認められていないからこそ、理由は分からないが、いつか殺されてしまうんじゃないか?といった類の恐怖心を常に住まわせている人たちとも言えるだろう
友川さんは無意識に養殖場で生きてしまっている人たちに警鐘を鳴らしているのではないだろうか?
生きてるって叫んでみろよ!
養殖場から脱走できるかもしんねぇぞ!
と。
このあと「こけし」「墓石」「すずめ」などのキーワードが出てくるが、にわかには、なにを示しているのかがわからない
どなたかご教授いただけると、本当に有り難い。