父と母を統合する:「人は自分と同じだ」という透明な信念が対立を生む
物心ついた頃から父と母は仲が悪かった。
二人が仲睦まじい姿を見たことがないし、マイペースで酒好きな父に対し、鬱々としながら不平不満を押し黙る母のコントラストが印象的だった。
今でこそ派手な喧嘩はしないが、幼少期から二人の口論はしょっちゅうで、二人の対立は私が大学生の時、母が家を出て別居するまでをピークに続いていった。
アバターのインテグレイテッドコースで、「感情的遮断」をトピックに、「いまだに私に不快な感情を引き起こし、私の注意を固定させる原因となった出来事」を特定した時、真っ先に思い浮かんだのが幼少期の父と母の関係性だった。
小学校4年生くらい時、夕飯を食べ終わって自分の部屋に戻ると、ドア越しのリビングリームで父と母の激しい口論が始まった。
当時の私の憶測では、喧嘩の原因は、共働きで家事も育児も母への負担が大きすぎることへの母の鬱積した不満と、父の母に対する配慮の無さが原因だったのではないかと思う。
いつもより激しい口論の末、父が「なんだと!もういっぺん言ってみろ!」と怒鳴り、バン!と大きな破裂音がした。
その後、一気に場がシーンと静まり返ったので、私は喧嘩が終わったのかと思い、自分の部屋から出て、リビングルームのドアを開けた。
すると、青ざめた顔でうつむいている母の口元に真紅の血が一筋流れていた。
私の気配を察すると、すぐに母は口元を拭い、父は背中を向けたままだった。
この場面が私の注意を固定化しているのは確かだった。
その時の状況を描写し、次に周りにあるものを描写することを交互に繰り返すうちに、私の中でフリーズした感情が徐々にほどけていき、解放されていくプロセスを体験した。
最初は淡々とした状況描写だったが、何より、私にとっては大好きな父と母が毎日いがみ合って対立していることが悲しかったし、辛かった。
当時フリーズしてしまった感情にひびが入り、溶けるように涙が流れた。
そして、大好きな父が大切な母を血を流させたほどの強さで殴った事実もショックだった。
こんな関係性になるくらいなら結婚なんてしない方がマシだ、と幼心に強く誓ったことが私が独身である原因かも知れない、と思うほどに大きなショックを受けた出来事だったのだ。
最初は、母を力でねじ伏せた父に対する怒りが湧いてきた。
しかし、その怒りを感じ尽くすと、母が取った行動も記憶に浮上してきたのだ。
翌日から母の父に対する静かで陰湿な復讐が始まり、毎日家族で囲む夕飯の食卓には、父の分だけ猫や犬にあげるエサのような、ぐちゃぐちゃに盛られた皿が一つ、置かれていた。
父は子供の前では感情的にならなかったので、顔をしかめたものの、無言でそれを食べた。
父に対する愚痴や不平不満も私と兄はシャワーのように浴びせ続けられた。
お互いに意見が合わない時、人は父のように暴力で相手をねじ伏せる。
暴力された側は相手に力では敵わない時、母のように陰口など陰湿なやり方で復讐する。
このお互いが憎み合い、対立したままの平行線のような状態が私に取っての夫婦像だった。
そして、それは実家に帰省した今でも、80を過ぎた父と70を過ぎた母はいまだに、内容は違えど、本質的には同じことをやっていることに愕然としていたのだ。
例えば、母が出かける間際になって車の掃除をし始める父に文句を言う母に対し、「文句ばっかり言うなよ!」と怒鳴る父、黙る母。
なんだ、この二人は、別居もして、散々話し合った挙句、結局、何も変わっていないじゃないか・・・。
出口が見えない真っ暗なトンネルの中にいるような感覚のまま、ひたすら当時のショッキングな状況描写と、周りのものの描写を交互に繰り返す中で、湧き上がってきた感情や気づきをただ表現していく。
その過程でふと、私の中である洞察が湧き上がってきた。
父も母も、「人は自分と同じだ」という透明な信念があるからこそ、対立するのではないだろうか。
「人と自分は違う」という事実を前提に立っていたら、自分とは違う意見を主張する相手に感情的に手をあげたり、力でねじ伏せたり、さもなければ陰口などで間接的に攻撃し、相手を制しようとする欲求など起こるだろうか?
さらに記憶が蘇り、別居した母の気持ちを代弁しようと、親戚も含めて父と膝を割って話し、母の気持ちを父に理解してもらおうと散々骨を折ったことも思い出した。
何度、父に話しても、父には馬耳東風、左から右に抜けているのがわかる。
知的理解にとどまり、腹の底から理解していないことがわかるのだ。
「人は自分と同じだ」という信念がある限り、自分とは違う人の意見は聞いても入らないのは当然だ。
「お父さんは、人の話を聞かない」
と母が何度も嘆いていたのはこのことだったのか、と愕然としながら腑に落ちた。
かく言う私自身も父の写し鏡のようなもので、「人の話を聞かない、全く聞いていない。」と友人に嘆かれたことがある。
当時はピンとこなかった、と言うより、不可解でしかなかったのだ。
「なんで、こんなに一生懸命に聞いているのに、話を聞いていないって言われるなんて、どういうこと?」
あの時の友人の気持ちが今は手に取るようにわかる。
私も当時、「人は自分と同じだ」と言う透明な信念を持ちながら聞いていたので、自分とは違う人のアドバイスは入ってこなかったのだ。
いくら聞こう、聞こう、と努力して耳を傾けても、物理的に何時間かけても、入ってこないものはどうしようもないのだ。
父も、母を理解しようとどれだけ努力しただろうか、と気が遠くなるような想像をした。
当時、何度となく、「お父さんは何度話をしてもわからない」と父を批判したことか。
それを聞いた父は、「わかりたくてもわからない」というジレンマに陥り、自己卑下していたのかも知れない。
でも、それもただ単に、「自分と人は同じだ」という透明な信念が作用していただけだったとしたら?
その透明な信念の外に出た瞬間、あるがままありのままの事実が見える。
自分と同じ人なんてこの世に一人としていないこと。
私が「人は自分と同じだ」と言う信念の外に出た瞬間に見えたのは、「人は自分とは違う」という事実だった。
そして、「人は自分と同じだ」という信念に立脚していた時の私は、いかに自分中心で傲慢だったかを思い知り、相手に対して申し訳ない気持ちが心の底から自然と湧いてきた。
「人は自分とは違う」という教えは、古くからあるようだ。
父が好きな詩人、金子みすずの詩に「みんな違ってみんないい」というフレーズがある。
でも、もしかしたら父の理解は、知的理解にとどまっていたのかも知れない、と思う。
本当に腹の底から理解していたら、相手との違いを目の当たりにする局面に立った時、口論や対立ではない在り方が自ずと見えてくるのではないだろうか。
それは単なる慈しみの眼差しかもしれないし、相手との違いを受け入れた上での第三の選択肢をお互いに模索するプロセスかも知れない。
「人殺しは罪だよ」という言葉が知的理解にとどまっていたら、殺人者は何度でも同じ罪を犯すと言う。
体感を伴う心の底からの謝罪が生まれた時、それは2度と起こらないのだ。
父と母の関係性から得た気づきは、私の中と外で常に起こっている対立や葛藤、争いの象徴だった。
私自身が、「自分と人は同じだ」と言う信念を使って、人と違う自分自身を、そして、自分と違う人を否定し、批判、攻撃していた。
常に、「自分と人は同じだ」と言う信念を使って、自分自身と人と対立していたのだ。
この気づきは深遠で、後から後から堰が切れたように涙が溢れては出て、止まらなかった。
私がアバターを学んだのも、これに気づきたかったからだと確信した。
ひとしきり泣いた後、まるで生まれ変わったような新鮮な気持ちで、私は新しいプライマリーを立てた。
「私は、人との違いを許し、受け入れ、慈しみ、味わい愛で、統合します。」
「私は、父と母を統合します。」
それまでの私からは想像できない、全く新しいプライマリーだった。
気づきを得て、新しいプライマリーを立てた瞬間、私の中で魂の課題をクリアした達成感があった。
ハイヤーセルフが頭上で虹色の祝福の光を燦々と降り注いでくれているのがわかった。
「よく気づきましたね。ここまでよくやりましたね。」
私は泣きじゃくりながら自分で自分の頭を撫でながら、自分自身に声をかけた。
「本当によく気づいた。本当によくやった。」
8月に始まった9日間のアバターコース、その1週間後の10日間のアバターマスターコース、その1週間後の6日間のインテグレイテッドコースと、トータルで1ヶ月弱もの間、集中して名古屋のホテルに缶詰になり、朝から晩まで自分と向き合い続けた夏が終わろうとしていた。
その2日後は秋分だった。
私は脱力感と達成感と解放感が入り混じった不思議な感覚のまま、なかば混乱した状態で秋分を迎えた。
これを書き終えた今、ようやく気持ちの整理がついて、ひと段落したような気がする。
アバターコース中は初めての長期ホテル滞在生活で睡眠不足だったし、普段とは違う食生活に戸惑うことも多かった。
でも、気付きをnoteに書き残すと決めたことは本当に良かった。
書くことで自分自身の気づきと学びを一過性のものにしてしまうことなく、定着させて腑に落とすことができるからだ。
アバターコースで得た学びと気づきを糧に、残された休職期間、いや、かけがえのない今この瞬間を精一杯さらに充実させて過ごそうと決意した。
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