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エルナン・コルテス:アステカ帝国を征服する

 エルナン・コルテスは16世紀スペインの貴族でアステカ帝国の征服者(1485ー1547)。コルテスは500人のスペイン人を率いて、20万人のアステカ帝国の征服に成功した。以下では、なぜこのような征服が可能になったかを説明する。

コルテス(Hernán Cortés)の生涯


 コルテスはエストレマドゥーラで下級貴族の家に生まれた。当時、ヨーロッパでも名門として名高いサラマンカ大学で、法学を学んだ。

 大航海時代のスペイン

 
 この時代、スペイン王権の後ろ盾のもと、コロンブスが1492年にアメリカを「発見」した。コロンブスはその成功のおかげで提督に昇進し、大出世した。その後、スペイン人が立身出世や金銀財宝を求めて、アメリカへ大挙した。
 とはいえ、当初、アメリカ大陸ではなく、キューバなどのカリブ諸島付近が彼らの探検地域だった。いまだ20歳に満たないコルテスもまた、まずはこれらの島々に到来した。
 それらの島々に到来したスペイン人は先住民を奴隷にして強制労働させた。あるいは、スペイン人はヨーロッパの伝染病を持ち込んだ。
 次第に、島々の住民が死滅していった。そのため、スペイン人はさらに探検を加速させ、アメリカの大陸部への進出を加速させる。

 アステカ帝国へ

 1519年、コルテスはそのような遠征隊の一つに隊長として選ばれ、メキシコ方面へ派遣された。同年末、ついにアステカ帝国の攻略を開始する。
 コルテスは自らの兵を500人程度しか連れていなかった。それにたいし、アステカ帝国は数百万の臣下の巨大な帝国だった。首都テノチティトランの人口は20万を越えた。


 だが、当時のメキシコの政情がコルテスに味方した。当時、アステカ帝国は古来から存在する国だったわけではなかった。なにより、周辺国にたいして圧政を敷いていた。それゆえ、アステカにしぶしぶ服従させられている先住民が多数存在した。
 このタイミングで到来したコルテスは、これらの先住民からは解放者とみなされた。よって、彼らはコルテスのアステカ征服では同盟者となった。

 アステカ帝国の征服へ

 当初、コルテスのアステカ征服は順調に思われた。首都テノチティトランに達し、皇帝モクテスマ2世と面会した。コルテスはモクテスマを拿捕した。釈放の身代金として、帝国の金銀財宝が提供されたが、解放しなかった。

 それでも、征服は一辺倒に進んだわけでもなかった。コルテスはアステカの激しい反撃や、スペインの征服者同士の内乱に苦しんだ。
 だが、1521年には再び首都攻略に成功した。そこにスペイン人の都市としてヌエバ・エスパーニャを設立し、その総督になった。かくして、スペインはアメリカの大陸部に主だった植民地を設立するのに成功した。

 征服成功の原因

 なぜコルテスは巨大なアステカ帝国に勝利できたのか。一つには、上述のように、アステカ帝国の対内的不和が挙げられる。
 この点について付け加えるなら、この不和を事前に察知し、利用するためのコルテス自身の準備も挙げられる。たとえば、コルテスは先住民とのやりとりのために、通訳を育成していた。通訳を通してアステカの情報収集を行うことができたのだ。
 ほかの原因としては、鉄製の武器や馬などの軍事技術での優位が挙げられる。さらに、ヨーロッパ由来の伝染病による先住民の被害もあげられる。

 コルテスはこの征服の成功によって、初代オアハカ侯爵に任じられた。

 獲得した地位をめぐって

 しかし、新世界の植民地でのコルテスの地位はすぐに揺らぐことになる。
 その背景として、当時、スペイン王室は植民地のスペイン人の勢力が強大化することを危惧した。彼らが封建貴族のようになって、スペイン王室に対抗できる勢力へと成長することを防ごうとした。
 他方で、アメリカでのスペイン人の植民者たちの思惑も一致していなかった。
 実際に、コルテスはその地位を解かれた。そこで、1528年に帰国して、地位の回復をカルロス1世に求めた。これは一時的に成功した。コルテスは巨大な富を築いた。
 だが、スペイン王室はやはり植民地での征服者たちの封建貴族化を予防する方針をとった。アメリカ植民地に副王制度を導入したのである。
 副王は、植民地での王の代理人である。副王には、本国から派遣された貴族が就任した。
 コルテスはこれに反発し、1540年にスペインに戻った。カルロス1世に訴えるも、今度は失敗した。結局、失意の中で没した。とはいえ、征服によって立身出世に成功したといえる。


 エヌバ・エスパーニャ:メキシコシティ

 アステカ帝国の首都はテノチティトランだった。コルテスがこれを征服し、ヌエバ・エスパーニャという植民都市を建設した。これが現在のメキシコシティとなった。

 コルテスの時代に属する地域は様々ある。まずは、メキシコシティの中心地のソカロ広場が挙げられる。この広大な広場には、かつて、アステカ帝国の様々な神殿などが建設されていた。だが、コルテスらによって徹底的に破壊された。その代わりに、ソカロ広場が建設された。

 ソカロ広場には、コルテスの時代に建設が開始されたメトロポリタン大聖堂がある。これはヌエバ・エスパーニャの主要な大聖堂として機能した。圧巻の建造物である。

 アステカ帝国などの、先住民の在りし日の繁栄を垣間見たいという場合には、国立人類学博物館が適している。膨大な数の展示品があり、一日では見きれないほどだ。

現代のメキシコ・シティ


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※この記事の内容は基本編です。発展編の記事(有料)は以下のページでで読むことができます。発展編では、コルテスとピサロの違いをより詳細に説明しています。さらに、コルテスが現代メキシコで意外な評価をくだされていることを説明しています。ぜひお試しください。


おすすめ参考文献

安村直己『コルテスとピサロ : 遍歴と定住のはざまで生きた征服者 』山川出版社, 2016

コルテス『コルテス報告書簡』伊藤昌輝訳, 法政大学出版局, 2015

Stefan Rinke, Conquistadors and Aztecs : a history of the fall of Tenochtitlan, Oxford University Press, 2023


Donald E. Chipman, Sword of Empire, State House Press, 2021

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