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ムリーリョ:スペイン・バロック美術の巨匠

 ムリーリョは17世紀スペインの画家(1618ー1682) 。ベラスケスと同様に、スペイン黄金時代の代表的な画家として知られる。人生の大部分を故郷のセビーリャで過ごしたと思われ、大聖堂などから絵画の制作を依頼された。代表作には、『無原罪の御やどり』や『聖母子』などがある。絵画の画像を交えながら説明しよう。


ムリーリョ(Bartolomé Esteban Murillo)の生涯


 バルトロメ・エステバン・ムリーリョはセビーリャで理容師の家に生まれた。だが、幼くして両親を亡くした。親戚の工房に弟子入りした。

 若い頃には、同じくスペインのバロック時代の画家として知られるスルバランなどの絵画を研究した。フアン・デル・カスティーリョのもとで絵画を学んだ。20代なかばに、ムリーリョはセビーリャのサン・フランシスコ教会にて初期の作品を制作した。


 対抗宗教改革とバロック美術

 ムリーリョはスペイン・バロックの画家として成長していった。バロックの特徴として、当時の対抗宗教改革のプロパガンダとして利用された点が挙げられる。
 ルター以降の宗教改革では、中世カトリック教会の多くの教義が攻撃された。例えば、宗教儀式での図像の使用、聖母マリアなどの聖人の崇拝などである。

 宗教改革の嵐の中で、カトリック教会はトリエント公会議を開催し、これらの教義を守ることを決めた。カトリック教会はこれらを神学者によって神学的著作などによって守らせた。
 さらに、民衆向けには、これらの教義内容を反映した荘厳な絵画などを制作させた。ルーベンスやムリーリョなどがその代表的な画家であった。

 たとえば、1652年、ムリーリョは『無原罪の御宿り』を制作した。これは彼の代表作として知られる。この絵画のモチーフは聖母マリア崇拝の潮流に根ざしたものであり、当時は神学的にも論じられていた。

 ほかの代表作としては、『聖母子』も挙げられる。このモチーフもまた聖母マリア崇拝に属するものであり、中世から定番のものだった。このおなじみのモチーフに、ムリーリョは新たな生命を与えた。ほかにも多くの聖人の絵画を描いた。

 ただし、ムリーリョの宗教画は対抗宗教改革の道具に終始していたわけではないとも評されている。それらの作品によって、1650年代には画家としての名声を確立した。セビーリャの大聖堂などからも絵画の制作を依頼されるようになった。

 マドリードでの学び


 1658年、ムリーリョは40代に入った頃に、マドリードへ移った。その際に、スペイン・バロックの巨匠ベラスケスやスルバランらと知り合った。ムリーリョはベラスケスのもとで絵画を学んだ。ベラスケスはすでに成熟した巨匠として知られており、最晩年にあった。

 たとえば、ムリーリョはベラスケスの支援をえて、王室所蔵の絵画を研究した。17世紀のスペイン王のフェリペ3世やフェリペ4世は芸術のパトロンを自認し、ヨーロッパの優れた絵画や彫刻を収集していた。

 たとえば、イタリア・ルネサンスのラファエロや、ヴェネツィア派のティツィアーノ、ベルギーのバロックのルーベンスなどである。それらはスペイン人の芸術家を育成するために利用されていた。ムリーリョもその恩恵にあずかることができた。

 また、当時のベラスケス自身が吸収していたヴェネツィア派絵画の技術をムリーリョも吸収することになった。その後、セビーリャに戻った。

 晩年

 1660年、ムリーリョはセビーリャで絵画アカデミーを創設した。かくして、後継者の養成にもつとめた。セビーリャの大聖堂などからも絵画の制作を依頼されるようになった。
 宗教画以外にも、風俗画や肖像画も描いた。そこでは、フランドル派絵画の影響が指摘されている。

 1670年には、ムリーリョは国王カルロス2世から宮廷画家になるよう要請されたが、固辞した。1682年に没した。

聖母子

当時のスペインの画家はイベリア半島で有名であっても、ヨーロッパの他の部分ではほぼ無名だった。だが、ムリーリョはこの点で例外的だった。生前中から、他地域でも人気を得て、多くの信奉者をうみだした。

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ムリーリョの肖像画


おすすめ参考文献

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岡田裕成『スペイン美術とカトリックの諸相』上智大学イスパニア研究センター, 1998


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