憂鬱な歴史学徒
文化大革命の経緯を自分なりにまとめていきます
「自由」が、まだ眩い光を放っていた時代のお話。
「時代錯誤」の凶行 去る7月14日未明(日本時間)に起きたトランプ元大統領暗殺未遂事件は世界を震撼させた。15日付の東京新聞朝刊は、この事件を一面で「民主主義脅かす凶行」と報じた。僕はといえば、2年前に安倍元総理が凶弾に斃れた記憶を生々しく思い起こすと同時に、幸いにもトランプ氏が一命をとりとめたことに、ほっと胸をなでおろす思いでいる。 「民主主義の現代において、いまさら暗殺沙汰にふけるようなことがあっては時代錯誤も甚だしいと言わねばならぬ」とは、元外交官の加瀬俊一が著作の
私は滅多に歴史上の人物を尊敬しない。 興味を掻き立てられる人物なら洋の東西問わず大勢いるが、「尊敬に値する」と思える人物はあまり存在しない。 それというのも、私が大学で歴史学を専攻したからだ。 学問として歴史を研究する以上は、どんな偉人であっても、微に入り細に穿って、その行状を検討しなければならない。 すると嫌でも目にしたくもないものを目の当たりにすることになるのである。 *** 江戸期の政治家に、松平定信という人がいる。 かつては民衆思いの為政者として
建国 1949年、国民党との激しい内戦の末に勝利を収めた中国共産党は、同じく国民党に反対していた民主派諸勢力と連合し、中華人民共和国を成立せしめた。 意外なようだが、この時点ではまだ共産党による一党独裁体制は確立しておらず、党派の垣根を越えて新政府の枢要に集った人々は、まず中国を普通の近代国家に改造するという目的のもとに結束していた。 共産党の悲願である社会主義体制の構築は、その後で段階的に進めて行けば良いとされていたのである。 しかし、国家主席の座に就いたばか
1840年のアヘン戦争以来、中国はおよそ1世紀もの間、様々な内憂外患に苦しめられてきた。もともと中国はヨーロッパ諸国と比べても遜色ないほど文化的に優れた国だったが、近代化が遅れたせいで、帝国主義政策を採る国々の侵略を甘受しなければならなくなった。 各国は争って中国の利権を貪り、後には明治維新を経て近代化に成功した日本もそれに加わった。もちろん、全ての日本人が中国侵略に賛同していた訳ではない。欧米列強のアジア進出を食い止めるためには、日中間の協力が不可欠だと主張した人々も
YouTubeで『開国大典』という映画を見た。 中華人民共和国建国40周年を祝って製作された映画だという。 どうやら一昨年、「建国72周年」を祝して、公式からの無料配信がスタートしたらしい(中国語がまったくできないので、概要欄を見てもよくわからなかった・・・ごめんなさい)。 中国共産党のいわゆるプロパガンダ映画であることは明白だが、まず、恥ずかしながら、この映画のあるシーンを見て涙を流したことを白状したい。 それは映画の終盤で、古月(毛沢東のソックリさん俳優と
プーシキンやレールモントフがペンによって専制と闘っていたのと時を同じくして、フランスでも自由を求める人民たちの闘いが転換点を迎えていた。 1830年の7月革命でブルボン復古王政が崩壊すると、一時は自由な社会が到来したかに見えた。だがやがて、その「自由」は、金持ちだけのための「自由」であることがはっきりしてきた。 金持ちたちが存分に、金を儲ける自由、他人を蹴落とす自由、弱者を見下す自由を行使する一方、パリの貧民は、相変わらず1789年以前と同じように、爪で火をともすよ
文化は社会を映す鏡であるという。 ロマン主義時代のそれも例外ではなかった。 ショパンの華麗なエチュードも、溢れんばかりの情熱をたたえたバイロンの詩文も、燃えるような筆致で描かれたドラクロワの絵画も皆、根底に秘めていたものは、矛盾に満ちた社会への反発と、身を焦がさんばかりの怒りであった。 ことに、プーシキンの頌詩「自由」は、やや雅味には欠けるが、それらを最も率直に表現している。 この詩は専制政治に反対する人々の愛唱するところとなり、ために詩人は数年間の流刑生活を余
ナポレオン没落後の数十年間を、文化史の世界では「ロマン主義時代」と呼んでいる。 この時期に出現した天才には不思議と夭折した者が多い。 それはなぜだろうか。 例えば、当時はまだ「決闘」という野蛮な風習が、血気にはやる青年たちの間で、大いにもてはやされていた。 私の知る限り、そのために夭折した天才は三人ほど存在する。 ロシア文学の旗手プーシキン、その後継者レールモントフ、そして数学の革命児ガロアである。 人はその早すぎる死を惜しんでこう言う。 「もし彼らが決
『明日カノ』の登場人物の一人である優愛は、窮屈な地元を嫌っていた。 彼女は言う。 なぜ彼女の目には、東京人が「自由」に生きているように映ったのか。 網野善彦は書いている。もし、「自由」に近い言葉を中世の日本語の中から探し出すとしたら、それは「無縁」ではないかと。 東京人は、古臭い地縁や血縁から「無縁」であるがゆえに「自由」なのだ。 網野が、『無縁・公界・楽』で描き出した職人や芸能民のように、おのれの努力と才能だけでうまく世渡りができる人にとっては、「自由
「革命以前を生きたものでなければ、人生の甘美さは分からぬ」とは、ナポレオン政権の外務大臣を長く勤め、欧州屈指の外交官として名をはせたタレーラン公爵の言葉だが、実際、ブーヴェやフラゴナールの絵画を見てもわかるとおり、フランス革命前夜の社会には、享楽的な雰囲気が横溢していた。 もっとも、その恩恵を享受できたのは、タレーランのような特権身分に属する人々だけだったことが、民衆を怒らせ、革命の勃発を早めたとも言えるのだが……。 ともかく、そんな「良き時代」が、あと2年ほどで終わ
(就活に苦労していた学生時代、僕の中には行き場のないモヤモヤした感情が渦巻いていました。そのころ、僕より一足先に「シューカツ」戦線を戦い抜いた知人・友人たちは、感受性が強すぎたのか、一様にメンタルを病み、「死にたい」ような気持ちに苛まれていた人も、少なからず存在していました。この文章ではその辺の事情はかなり誇張して書いていますが、若者が思わず死にたくなるような社会なんて間違っている、という怒りに駆られて書いたのが、この「若者はみな哀しい」です。数年前に書いたものなので、文章
例えばあなたが若者で、体験したことのない「高度経済成長期」とか「バブル期」をうらやみ、その時代に青年期を過ごしてみたかった、と口にしたとする。すると必ず小うるさい人が現れてこう言うだろう。いやいや、そのころにも公害や貧困などの社会問題はあった。令和の今の世のほうがよっぽどいい。浅薄な知識だけで、生まれてもいない時代のことをうらやむのはやめろ…と。 なるほど、これらの主張は確かに筋が通っている。だが、真に問題とすべきは、若者に「生まれてもいない時代」を羨望せしめるほど、現
鷲の子(レグロン) ローマ王ことライヒシュタット公フランツが生を享けたのは、ナポレオン帝国が絶頂を迎えた1811年のことだった。 ナポレオンと、その二番目の皇妃で、オーストリア帝室より嫁いできたマリー・ルイーゼとの間に生まれた彼は、この時までは、世界一の幸運児といっても良かった。誰もが、この天使のような赤子が将来、父の後を享けて、二代目のフランス皇帝としてヨーロッパに君臨することを信じて疑わなかった。 我が子を抱いたナポレオンの感慨はいかばかりであったろう。