<小説>半夏生(はんげしょう)の男 ー前田慶次米沢日記ー
一
「おのれ、そこへなおれ!」
織田信長が抜き身の刀を手に、足音を響かせて大股で近づいてくる。額に青筋を立て、両目には怒りの炎が燃えさかっている。
背後では幽鬼のような顔の武士(もののふ)が、両手を広げて退路をふさいでいる。
「柴田どの」
思わず声が出た。柴田勝家だった。
「よくも儂(わし)をたばかったな」
声がするほうを見ると、前田利家が髪を逆立てて、槍を構えている。
「逃がしはせぬ!」
「又三(またざ)まで……、さほどまでおれが憎いか」
又三とは加賀前田家の祖、前田利家のことである。
信長が刀を大きく上段に振り上げた。白刃がきらめく。
斬られる、と思ったとたんに目が覚めた。
信長のほかに柴田勝家、前田利家まで出てきた。なんとも豪華な夢だ。しかし、会いたくもない相手ばかりである。
「死人に呼ばれる歳になったか」
前田慶次利貞(としさだ)は床の中でつぶやいた。全身にじっとりと汗をかいている。
慶次は苦い笑みを浮かべて首を振った。
庵の中に日が差し込んでいる。すでに昼近い刻限のようだ。
慶次は床を離れると手拭いを肩に掛け、寝巻のまま下駄をつっかけて庵の裏に回った。
堂森(どうもり)善光寺の境内では、紫陽花が青や紫の花を競っている。
月見平に登ると米沢の街並みを見はるかすことができる。
六月下旬、梅雨入りといっても北国出羽ではさほど雨は多くない。薄曇りの空を燕がさかんに飛び、虫をつかまえてはせっせと軒下の巣へはこんでいる。
杉林を抜けていくと小さな泉に出た。吾妻の峰から清冽な水がこんこんと湧き出している。
慶次は手を伸ばして透き通った水をすくい、顔を洗った。水の冷たさが夢見の悪さを洗い流してくれるようだった。
こんな朝は汲み置きの水ではなく、泉まで来て顔を洗うのが習慣になっている。ただしそれが続いているのが気に食わない。
泉の岸辺に白い花が見えた。草丈は二尺ほどだが、白い穂のような花が可憐である。
近づいて慶次は奇妙なことに気づいた。花に加え葉まで白く変色していて、そのせいで花が大きく見えたのだ。はじめは枯れているのかと思ったが、白い葉がみずみずしく広がっている。
この花を一茎手折って庵に戻ると、下女のきえが朝餉の支度をしていた。丸い顔に利発そうなくりっとした目をした娘で、今年十四になる。
「これは何という花だ」
摘んだ花をきえに見せた。
「そりゃ半夏生(はんげしょう)だべ」
「ほう、これがそうか」
名前は知っていたが、実物を見るのは初めてだった。
七十二候のひとつに「半夏生」がある。二十四節季の夏至の終わり頃のことで俳句の季語にもなっている。
だが、そもそもは植物の名が由来である。半夏生はどくだみ科の多年草で、半化粧とも片白草(かたしろぐさ)とも書く。葉が白くなるのは枯れたせいではなく、虫を誘うために白変するのだという。
「んだけど夏にはまた青くなっぺ」
「ほんとうか?」
慶次は目を輝かせて白い葉を改めて見た。無意識に白髪交じりの頭をなでたのは、うらやましかったせいかもしれない。
その様子がよほどおかしかったのか、きえはくすっと笑った。
「おぼこ(子供)みてえな目をしとる」
けらけらと笑うきえの姿に、ふいに京の馴染みの茶屋で会った舞妓の姿が重なった。化粧っ気はまったくないが、きえの屈託のない笑顔はその舞妓によく似ていた。
西国では半夏生のころ、たこを食べる習わしがある。元は田植えを終えた百姓が豊作を祈って神に捧げたことに由来するという。慶次もその茶屋でほんのり甘い酢締めのたこを味わった。
あいにく米沢ではたこを食べる習慣はないようだが、それもやむをえない。食うだけで精一杯の北国の百姓には贅沢な習わしである。
この地に来てまだ日も浅いせいか、慶次にはいまひとつ季節感がつかめない。
「だが、ここは人の気がよい」
北国の高い空を流れる筋雲を見て慶次は思う。
半夏生は農家にとっては田植えや畑仕事を終える大事な節目の暦である。田植えの時期は殺気立っていた村が、田植えが終わりほっとした空気が流れているのがわかる。
常に戦を意識して殺伐とした気分が漂う都に比べれば、貧しくとも長閑である。
慶次は半夏生の一茎を床の間の一輪挿しに活けた。うぐいす色の花器に白い花が調和して美しかった。
二
慶次が上杉家に仕官したのは豊臣秀吉の死後間もない頃で、関ヶ原の戦いの二年ほど前である。
北の関ケ原と呼ばれた長谷堂城の合戦において、最上領に攻め入った上杉軍は関ヶ原で西軍があえなく敗れるとの報せを受け、撤退を余儀なくされた。追撃する最上軍の猛烈な攻撃により、総大将の直江兼続も一時は切腹を覚悟したほどだった。
そのとき慶次は殿軍(しんがり)の将として獅子奮迅の働きを見せた。朱槍を手に最上勢の本陣に斬り込み、敵の武将たちを怯ませた。その勇猛果敢な戦ぶりは、上杉家の正史である『上杉家御年譜 景勝公』においても、
「敵兵ヒシト喰ヒトメテ討テ掛カルヲ 前田慶次利貞槍ヲ取テ敵兵ヲ突崩ス」
〈敵(注・最上)兵が上杉の攻撃を食い止め、逆に討ってかかるところを、前田慶次が槍を取ってその突進を突き崩した〉
と称賛されている。
上杉家が会津百二十万石から三十万石に大きく減封されたのに伴い、慶次も米沢に移った。はじめは兼続の屋敷に仮寓していたが、縁あって堂森善光寺の和尚と親しくなったのをきっかけに、善光寺境内の一隅に庵を編んだ。
米沢城から東へ一里、無苦庵と号したこの庵に住まうようになってからすでに三年が経つ。
庵は簡素な佇まいながら、花鳥風月を愛(め)でるのにまことに具合がよい。掃除や洗濯、風呂焚き、食事の支度など身の回りの世話は老僕の弥助ときえに任せ、中間も置いていない。
慶次がこの地に居を構えると聞いて、はじめ村人たちは恐れた。噂に聞く戦場での鬼神の如き働きぶりから、鬼のような乱暴者が来ると思ったからである。
噂はいつの間にか独り歩きし、槍で三人まとめて串刺しにしたとか、敵の大将首を刎(は)ねたら高く舞い上がって松の枝に載ったとか、尾ひれがついてしまった。
だが現れた慶次は身体こそ逞しいが、品のよい顔の、いつもにこにこ笑っている好々爺だった。
「鬼みてえなお人だと聞いてたから、おら奉公するの、おっがねぐて泣きたかっただ。でも前田さまはいっつも笑ってて、いっつも縁側で眠っとる。まるで猫みてえだ」
縁側で眠るときの慶次は、鳥のさえずりや虫の羽音さえも子守唄にしている。
この日の朝餉は麦の入った飯と小茄子の浅漬けに味噌汁だった。丸い小茄子がぷりぷりしてうまい。夕餉には塩鮭や干物、時には釣ったばかりの岩魚の塩焼きがつく。
「前田さま、これも食ってけろ」
食事が終わると、きえが山桃を籠に入れて持ってきた。甘酸っぱい赤い実が山盛りになっている。
「おしょうしな」
慶次が言うと、きえは目を丸くして、林檎のようなほっぺたが耳の後ろまで真っ赤になった。〈おしょうしな〉は、ありがとうという意味の米沢の方言である。
「やんだあ。しょうしくなる」
「なぜだ。そなたらが使う言葉ではないか」
「けんど、前田さまが言うとなんかおかしいべ」
「そういうものか」
慶次は苦笑した。
〈おしょうしな〉は「ありがとう」という意味だが、〈しょうしい〉は「恥ずかしい」という意味である。「笑止い」が転訛したのであろう。
米沢に来たばかりのころ、慶次はその微妙な違いが分からず戸惑った。だが慣れるにつれ、味があって面白いと思うようになった。
近ごろは積極的に土地の言葉を使うようにしている。
きえはくりっとした目の、はきはきとして心映えのいい娘である。肝煎である太郎兵衛の親戚筋にあたる三人きょうだいの末で、今年十四になる。長兄が百姓の跡継ぎで、次兄が大工見習をしているという。
朝餉が終わると、慶次は自ら茶を点(た)てた。茶菓子はきえが持ってきた山桃である。
ふだんは雑器のような茶碗でも構わず茶を喫(の)む。しかしこの日は夢のこともあり、敢えて白天目にした。
天目茶碗は本来は天目台に載せて供される武家の茶碗である。しかし慶次は畳の上に置いた茶碗をそのまま手に持ち口に運んだ。夢に囚われず、作法にも縛られぬという慶次のささやかな意地である。
米沢に来るにあたって、家財道具のほとんどは処分した。そんな中で茶碗だけはいくつか手放さずに持ってきた。
そのひとつが白い天目茶碗である。京にいたころ、馴染みの茶道具屋が持ってきたもので、茶の素地に乳白色の釉薬がかかった艶のある抹茶茶碗である。てのひらに包んだときの肌ざわりが手に吸い付くようで、まことに心地がよい。
「これは前田さまがお好みなはると思うて、わざわざ取り寄せましたんや」
京・建仁寺に近い東大路に店を構える茶道具屋は、桐箱から押し頂くように取り出して袱紗を開いた。
「織田信長さまが茶会でお使いにならはったもので、天下に二つとあらしまへん」
聞き覚えのある話だった。白天目茶碗は、天正のはじめに織田信長が茶会で用いたのがきっかけで、多くの武将が好んで使いはじめた。
だが信長が本能寺の変で斃(たお)れると、縁起が悪いものとして敬遠されるようになった。
「信長さまから下賜されて、いっとき柴田さまが持ってはったとも聞いとります。それが巡り巡ってうちとこに来たんで、まずは天下一の傾奇者(かぶきもん)であらしゃる前田さまにお見せせなと思いまして」
茶道具屋は皺だらけの手をもみながら、精一杯の笑みを浮かべて言った。油断のならない合図である。
信長に柴田勝家とくれば、ともに非業の死を遂げた武将である。言うなれば不運の二つ重ね、これ以上縁起が悪いものはほかにあるまい。
武士は縁起をかつぎ、戦で勝利するために神仏に祈るのが常だ。だからこんな不吉な茶碗に手を出そうという物好きはまずいない。
むろん慶次が稀代の傾奇者であるだけでなく、風流も愛した数寄者(すきしゃ)であることを見越しての釣り口上である。
「面白い。買った」
たまらず慶次の口から出た――
酸っぱさの中にほんのり甘味がしみる山桃をほおばったあと、慶次は濃茶をたっぷり味わった。端正な白い茶碗に濃茶の緑が映えて、鬱々とした気分が少し晴れた。
三
翌朝、慶次は裃(かみしも)に白足袋の正装で、大小を帯びて馬にまたがった。向かった先は上杉家家老、直江兼続の屋敷である。
かつては太閤秀吉も仕官を求めたという、匂うような男ぶりは歳をへてさらに渋みを増してきたようだ。白髪交じりの総髪をきちんと結い、背筋をぴんと伸ばした慶次の凛としたたずまいに、行き交う郷民たちは道を開けて深々と頭を下げる。
慶次は笑みを浮かべながらそれにうなずく。いまでは郷民との交わりも愉しみのひとつとなっている。
慶次は馬に揺られ左右に田んぼが広がる田舎道をのんびり歩いた。稲は隙間なく植えられているが、まだ青々としている。
季節の移ろいは西国に比べればひと月ほど遅く、しばしば凶作に見舞われる。しかし天候に恵まれれば稔り豊かな秋が迎えられる。土の匂いがそのことをうかがわせる。
最上川の支流松川に架かる橋を渡り、職人町を抜けると茶店が数軒並ぶ柳町に出た。この辺りは町人町で、大きな荷物を背負った行商人や職人たちが行き交っている。
この先の大町を抜ければ城はすぐである。
「ふざけるんじゃねえ!」
怒声に振り返ると、四つ辻の向こうに人だかりがしていた。
一軒の店先で尻もちをついた老人が、手をわらわらさせて必死で訴えている。
「しかし、約束の期限はとっくに過ぎております……」
傍らの丁稚は荷を背負ったままぶるぶる震えるばかりだ。
怒声の主は、浴衣に派手な丹前を肩に掛けた巨漢である。大きな身体をいっそう大きく見せるように両足を開いて腹を突き出している。
大男には乾分らしき着物姿の男が二人従っている。一人は小柄だがでっぷりと太り、もう一人は痩せた長身の男で、長い刀を背負っている。横綱の土俵入りというには大袈裟だが、露払いと太刀持ちを気取っているのかもしれない。
「しかし、期限を二度も延ばされては……」
老人のあらがう声に、太った小男が匕首を抜いて老人の首筋に当てた。
「だからもうちょっと待てば、払うって言ってるだろう」
「本当に払っていただけるのでしょうか」
「なんだと」
小男が血走った目で首筋に当てた匕首に力を込めた。老人の皺くちゃの首筋にわずかに血が滲んだ。
その時風を切って何かが飛んだ。
「うっ!」
男の手から匕首が落ち、痛みに苦悶の表情をみせた。男の腕には小柄(こづか)が刺さっていた。慶次がとっさに投げたのである。
慶次は馬から降り、群衆のなかへ分け入った。
「老人相手に無体なことはせぬがよい」
大男がぎろっと慶次を睨んだ。
「お侍さん、余計な口出しすると怪我するぜ」
大男が毒づきながら前に出て肩をいからせた。
「いくら上杉の城下とはいえ、無腰の俺らを斬ったりしていいのかい?」
大男の声に勢いづいた乾分たちも、懐に呑んだ匕首を出して身構えた。
「おとなしく引き下がれば斬りはせぬ」
慶次が首を振った。
「面白れえ。引き下がらなかったらどうするってんだ、この爺い」
勢い込んだ破落戸(ごろつき)が慶次に詰め寄ろうとしたとき、
「役人だ!」
遠くで叫ぶ声がした。
とたんに破落戸どもは顔を見合わせ、その場から足早に逃げていった。
「あーあ、伊達の頃は良かったぜ。芋侍が来てから碌(ろく)なことがねえ」
「まったくで。上杉が貧乏神まで連れてきやがった」
逃げる際にも口汚く罵るのを忘れなかった。
ほどなくして奉行所の役人数名が駆けつけたが、破落戸たちを追いかけはせず、老人から二言三言聞き取りを行っただけだった。
その様子を遠巻きに見ていた町人たちから、失望のため息と舌打ちが漏れた。
「あいつらの言う通り、殿様が代わっても何もいいことがねえな」
「本当だぜ。領地が削られたくせに一人も暇を出さないもんだから、家来衆も貧乏人ばっかりだしよ」
明らかな当てつけにもかかわらず、役人たちは聞こえないふりをして早々に引き上げた。その場に居合わせた上杉家の藩士たちも、ばつが悪そうに早足に立ち去った。
口さがない町人たちの陰口を耳にしながら、慶次は大男がどこから来た者なのか気になった。
出羽国米沢は伊達氏が三代にわたって居住した城下町で、戦国武将として名高い独眼竜政宗が生まれたのもこの地である。
しかし天正十八(一五九〇)年、天下人となった豊臣秀吉の命により、伊達氏は陸奥国岩出山に移封された。世にいう「奥州仕置」である。
代わって米沢に入府したのが蒲生氏で、さらに短い期間に蒲生氏から上杉氏に移った。
伊達家の家臣の多くは主君に従い岩出山に移ったが、土豪のなかには米沢に留まったものも少なくない。大男はその土着した一族の者のようだった。
四
上杉家筆頭家老、直江兼続の屋敷は米沢城の二の丸内に建っている。門構えは立派だが、他の重臣邸と比べても簡素な造りである。
慶次が訪(おとな)いを入れると、すぐに書斎に通された。
兼続は日に焼けた顔で帳簿に目を通していた。日焼けしているのは日々現場に立ち会っている証である。
「昨日まで赤崩(あかくえ)にいた。年のせいか背中が張っていかぬ」
兼続が苦笑を交えて言った。
赤崩は領内を流れる松川(最上川)の河岸である。たびたび氾濫を繰り返す暴れ川の改修工事のため、兼続が陣頭指揮をとって取り組んでいた。城下の整備に加え軍備もいそぎ整えねばならず、国家老は多忙をきわめている。
それでも慶次が訪ねると手ずから茶を煎れてくれる。
「殿は息災か」慶次が訊いた。
「息災だ。伏見で忙しくされておるとのことだ」
関ヶ原の合戦で西軍についた上杉家は、百二十万石の知行を四分の一の三十万石に減らされた。それに伴い、会津から米沢に移封となったが、藩主上杉景勝は江戸や伏見との往復に追われ、米沢に落ち着く暇もない。
特に慶長九年から十年にかけて、上杉家にとって慶弔さまざまな出来事が起きている。
慶長九年二月、伏見屋敷で景勝の正室が逝去した。武田勝頼の妹菊姫である。二人の間に子はなかった。
五月には側室の四辻大納言公達の娘が米沢城で嫡男を産み、玉丸と名付けられた。しかし側室は産後の肥立ちが悪く、治療の甲斐なく八月に逝去した。
側室の葬儀は主君不在のまま、家老の直江兼続が取り仕切った。景勝が米沢に戻ったのは葬儀が終わった後である。
景勝にとっても、大減石を余儀なくされた藩政の立て直しと、身内の度重なる不幸と、嫡男誕生というささやかな希望の狭間に揺れて、心休まるときは少なかったであろう。
兼続の書斎の一隅に膨大な量の本が積まれている。その中には『史記』や『漢書』など貴重な書物が含まれており、慶次は屋敷を訪れるたびにこれらの本を読むのが習いになっていた。
「先ほど、柳町のあたりで浴衣を着た男が狼藉をはたらくのを見た」
書物の山をちらりと見ながら、慶次がぼそりと言った。
「三十がらみの大きな男だ」
兼続がうなずいた。
「知っておる。元は澤ノ岩という四股名の相撲取りだ」
「やはりそうか」
それで露払いや太刀持ち風の乾分を従えていることに納得がいった。
「西国の藩のお抱え力士だったらしいが、素行が悪く馘首(くび)になったと聞いた」
「しかしなぜ米沢の城下に?」
「そやつは元は伊達藩の縁者で、いまは粡町(あらまち)にある米屋で取り立てのようなことをやっておる」
粡町は城の北東に位置する商人町である。くだんの米屋は裏では金貸しもやっていて、藩士の中には高利で借りて返済に苦しんでいる者もいるという。
「十日で倍の利息を取るそうだ」
「それは無体な」
取り立ての際に乗り込んでくるのが澤ノ岩とその乾分たちである。
しかもこの男、どう都合をつけたものか、隣接する最上藩の通行手形を持っているという。ふだんは城下にある家をねぐらにして悪さをはたらき、追手がかかると堂々と口留番所を通って最上領に逃げ込むのである。
国境を越えれば追捕はできない。ことに最上とは長谷堂城の合戦以降も強い緊張関係がつづいており、引き渡しを求めることもはばかられる。
「そのような不逞の輩(やから)、熨斗(のし)をつけて伊達に返せばよい」
「そうしたいのはやまやまだが、伊達藩に親戚筋のことを質してものらりくらりとかわされて、いっこうに話が嚙み合わぬ」
「返してもらっても困るというわけか」
むしろ伊達にとっては、澤ノ岩が上杉領内で暴れてくれるほうが都合がいいのだろう。その意味では、澤ノ岩の存在自体が格好の嫌がらせの種なのである。
その日慶次は、七つ(午後四時)過ぎまで兼続の所蔵する漢籍を読みふけって屋敷を辞去した。
五
兼続の屋敷を訪ねてから数日後の朝、いつも朝餉の支度に来るきえが遅れてきた。珍しいことである。慶次は咎めなかったが、目が泣きはらしたように腫れているのが気になった。
「どうしたのだ」
「……なんでもねえす」
給仕の間も、きえは顔をそむけて答えようとしなかった。
不審に思った慶次は肝煎宅を訪ねた。あいにく肝煎は不在だったが、女房が出てきた。
「きえに何かあったのか」
「それが……」
ふだんはよく喋る女房が口ごもった。
「無理に話さずともよい」
「いえ」
生来が話好きの女房は身を乗り出して一気に喋った。
きえの次兄文次は、城下の地番匠町で大工見習いをしていた。今年十八になるが、筋がよいと棟梁も目をかけていたという。
ところが先日、文次は建築現場近くの商家で喧嘩騒ぎを起こし、左足の腱を切られて二度と現場に立てなくなってしまったという。
いきさつは商家の娘が破落戸たちに乱暴されそうになったところを止めに入ったが、逆に手ひどく痛めつけられた挙句、足の腱を切られたというものだった。
喧嘩の相手というのが他ならぬ澤ノ岩とその一党である。
文次の足は医者の診立てでも治る見込みはなく、大工の道を諦めざるをえなくなった文次は絶望して首をくくった。幸い発見が早かったため一命は取り留めたが、今は家に引きこもっているとのことだった。
慶次はその夜も悪い夢を見た。夢に現れたのは例によって織田信長、柴田勝家、そして前田利家である。利家は慶次を嘲った。
「お前は上杉に就いたことを悔いているのだろう。今さら前田に戻りたいと言っても遅いぞ」
――誰が前田になぞ戻るか!
慶次は叫んだが、利家ばかりか信長や柴田勝家もそろって嘲笑をやめなかった。
前田利家と慶次とは浅からぬ因縁がある。
慶次は元は滝川一益の一族の生まれで、尾張荒子城主だった前田利久の養子となった。順当にいけば、やがては慶次が荒子城主に就くはずだった。
ところが主君信長の命により、利久は末弟の利家に家督を無理やり譲ることを余儀なくされた。その非情な命令を伝えに来たのが織田家の宿老柴田勝家である。
前田利家は信長亡きあとは豊臣秀吉に仕え、加賀百万石を領する大大名に上り詰めた。
慶次はのちに利家の家臣となったが、勘気を被って前田家を出奔した。その理由が、真冬に利家を家に招き、湯と偽って冷たい水風呂に入れるというひどい悪さをしたのである。おまけに利家の愛馬を奪って逃げたというのだから信じ難い大乱心である。
ただしこの水風呂の一件は、江戸後期の随筆集『翁草』に記された逸話で、信憑性は低いともいわれる。
悪夢から覚めて、慶次は気を鎮めようと寝巻のまま茶を点てた。
茶碗は例によって白天目である。しかし今日の茶は苦みばかりで少しも旨くない。手にした白天目も冷たさばかりが伝わって不快だった。
それに反して身体は内から熱くなってくる。
慶次がぐっと力を込めたとたん、手にした白天目茶碗が二つに割れた。知らず知らずのうちに力を込めすぎたのである。
慶次は茫然とした。金は惜しくはないが、旨い茶が呑めると気に入っていた茶碗だけに喪失感は大きかった。
慶次は身体の中に湧き立つ憤りを鎮めようとした。だが感情を抑えるほどに体中が痒くなり、座っているのも耐え難くなった。
慶次は畳の上でごろっと横になり、庵の柱や天井を見上げた。
そこではたと気がついた。これは我慢すべきものではない性質のものである。
――そもそも、この憤怒を鎮めようとすること自体が間違っていた!
そのことに気づいた慶次は勢いよく上体を起こし、大きく息をついた。
耳が熱くなっている。恥ずかしかったのである。
――おれは忘れていた。こんなときは意地を通すしかないのだ。
意地とは傾奇者としての意地である。己れが正しいと思うことをし、生きたいように生きる。加えて慶次の場合は、弱者を助けるためなら命を賭すことも厭わぬという侠気である。それを失っては傾奇者の名がすたる。
問題は藩や兼続にどう落とし前をつけるかだ。
慶次は文机に向かうと直江兼続に宛てて致仕届(辞職願)をしたためた。書くほどに心が晴れて筆が勢いづくのが分かった。
久しぶりに、身体の内から火が熾(おこ)ってくるような感じを覚えた。このまま北の大地で静かに人生を閉じるのも悪くないと思っていたが、腹に飼っている〈いくさ人〉の虫はまだまだ衰えそうもなかった。
慶次は寺の小僧に小遣いをやり、直江邸まで文を届けるよう頼んだ。
それが済むと、慶次は動きやすいように地味な筒袖の着物と裁付袴に着換え、徒歩で出かけた。菅笠を被り、腰には大脇差を一本差したのみである。
向かったのは澤ノ岩が根城にしている粡町の商家である。
六
粡町の手前の通りを歩いていると、左手の呉服屋の中で何かが壊れるような音がした。
「誰か、お役人を!」
店を飛び出してきた女が叫んだ。
呉服屋の前の通りに反物が何枚も放り投げられ、店先の水たまりに落ちた。女たちの悲鳴が上がる。もはや売り物にはならないからだ。
店から出てきたのは案の定、澤ノ岩と乾分たちである。今日は牢人らしき用心棒もついている。
「明日また来るぜ。そのときまでにみかじめ料を用意しときな」
店の主人は澤ノ岩の脅し文句をただ震えて聞くばかりだ。
「てめえら、見世物じゃねえ!」
小柄で太った乾分が吠えると、見物人の輪が潮がさっと引いた。そのため慶次が自然に前に出る格好になった。
慶次は大脇差に手をかけて仁王立ちになった。相手になるという意思表示である。その姿を認めた牢人が前に進み出た。
「ご老人、怪我をしたくなければ関わりを持たぬことだ」
牢人が押し殺した声で言った。
「年寄り相手の喧嘩に、尻尾を巻いて逃げるつもりか」
慶次が言うと、牢人の顔からさっと血の気が引いた。目に凶暴な光が宿った。これまで何人も人を斬ったことがある目である。
さっと険しい空気が流れ、町人たちはさらに遠巻きになって息を呑んだ。
牢人が柄に手をかけたまま、身を低くしてすり足で間合いを詰めてきた。その間約二間(約三・六メートル)。
「居合か」
牢人の刀は三尺近い大刀、慶次は一尺八寸五分の大脇差である。尋常な立ち合いなら、明らかに慶次が不利だった。
だが慶次は無造作に歩を進め、牢人の間合いに入った。皆がはっと息を呑む刹那、牢人の右手がすばやく動いた。
白刃が煌めき、誰もが慶次が抜き打ちに斬られたと思った。だがそれよりわずかに早く、慶次が大脇差を抜き放っていた。
牢人がうめき声をあげて刀を落とした。右手首から鮮血がほとばしっている。
牢人は血が滴る手首を押さえ、がっくりと膝をついた。思いのほか深傷(ふかで)だった。
慶次が剣を交えるのは長谷堂城の合戦以来である。だが身のこなしは存外錆びついていない。
「この野郎!」
太った乾分が顔を真っ赤にして懐から匕首を出して身構えた。先日慶次が投げた小柄が刺さった腕にはさらしが巻かれている。
もう一人の背が高い男は、背中の長刀を澤ノ岩に渡した。
慶次は安堵した。いくら乱暴狼藉をはたらいているとはいえ、無腰の者を斬り捨てるのは気分が悪い。斬りかかってくれたほうが遠慮なく相手ができる。
澤ノ岩は長い刀を鞘から抜いたが、とてもすらりとは言い難く途中でつっかえた。刃長は優に三尺二寸はある。
「爺い、くたばりやがれ!」
怒声とともにすさまじい太刀風が起こった。澤ノ岩が横を向いたまま不意討ちに刀を振り回したのである。慶次はすばやく屈んで刃をかわした。
続けて突きが襲ったが、慶次はわずかに左足を引いてやり過ごした。完全に見切っている。
だが澤ノ岩は力任せに刀を振り回すだけのように見えて、連続した攻撃はなかなか鋭い。並の武士なら長い腕と長刀のせいで、間合いを詰めることも難しい筈だ。侮っているとなかなか手ごわい相手である。
澤ノ岩が上段にふりかぶって真っ向から斬り下ろすと、きんと鋭い音が響いた。慶次が左手に持った扇で受け止めたのである。
ただの扇ではない。薄い鋼を幾重にも重ねた鉄扇である。なまじの剣なら歯こぼれがするほどの硬さと粘りを兼ね備えている。とはいえ全力で振り下ろされた刀を片手で受け止めたのだから、膂力によほど自信がなければ出来る芸当ではない。
慶次の顔に思わず笑みがこぼれた。力がいささかも衰えていないことに満足したのである。
「この野郎、ふざけた真似を」
澤ノ岩の目が怒りでさらに吊り上がった。
怒りに任せて澤ノ岩がふたたび刀を振り下ろそうとしたとき、慶次は右足を軸にくるりと身を反転させ懐に入った。
慌てた澤ノ岩が切先を返そうとした。
だが慶次にはその動きがはっきりと見えた。左手に持った鉄扇で澤ノ岩の刀の棟を押さえると、隙だらけになった首筋を右手の大脇差で逆袈裟に斬り上げた。
次の瞬間、澤ノ岩の胴から首が飛んだ。首の付け根から血が噴き出し、主を失った胴がつんのめって真後ろに倒れた。
あまりの早業に、二人の乾分は何が起きたかわからない様子だった。
「野郎!」
それでも気を取り直すと、震える手で懸命に匕首を向けてくる。
ぎろりと睨んだ慶次の目には、火を噴くような殺気が漲っていた。
「首のない男に今さら果たす義理などあるまい。命を粗末にしたくなければ去れ」
我にかえった乾分どもは刀を放り投げて一目散に逃げ出した。手首を斬られた牢人もいつの間にか消えていた。
一部始終を見ていた町人に頼み、奉行所まで走ってもらった。
駆け付けた若い同心は慶次の顔を見て驚愕した。
「こ、これは前田様……」
慶次には見覚えがないが、前田慶次利貞の名は藩内に轟いている。
「長谷堂城の戦いの折に最上軍の追撃をみごと退けなさったというご武勇は、我らも繰り返し伺っております」
若い同心は頬を紅潮させながら感激の面持ちで言った。同心は島貫甚三郎と名乗った。
「申し訳ございませぬが、奉行所までご同行お願いつかまつります」
島貫同心は頭をこすりつけんばかりに平身低頭した。役目に誠意をもってあたる若者を慶次は好もしく思った。
七
奉行所は米沢城の大御門脇にある。
初老の与力には見覚えがあった。兼続配下の与板組村越五郎衛門である。
「なるほど、相撲取りが先に刀を抜いたので、やむなく成敗されたということですな」
村越が深くうなずきながら繰り返した。奉行所に入ってからも慶次は丁重な扱いを受けていた。
「届け出た町人もそう申しておりました」
うなずく前に島貫同心が助け舟を出したのには慶次も苦笑した。
「凄いのなんのって、お侍さんの刀が稲妻みてえにぴかっと光ったと思ったら、相撲取りの首がぴゅーっと空を飛んで、十間先まで転がってったんでさ。ええ、あんなの初めて見ましたぜ」
その場に居合わせた若い行商人は興奮冷めやらず、江戸弁で一気にまくしたてたという。
悪党とはいえ、人一人を斬ってしまった慶次としてはなんとも面映ゆいが、行商人はこれから訪れる先々で、今日見た光景を話の種にしていく筈である。
取り調べは半刻(一時間)ほどで終わり、島貫同心は門の外まで慶次を送った。
そこで待っていたのは、直江山城守兼続である。
「こ、これはご家老」
同心ばかりか門卒たちも驚いた。
兼続は険しい顔で慶次に詰め寄った。
「これは真(まこと)か」
兼続が懐から出したのは慶次が届けさせた致仕届である。
「致仕したのはこのためか」
「いや、城勤めにはもう飽きたのだ」
慶次はきまり悪そうに頭をかきながら言った。半分は本音である。
「千石も貰って何もせぬでは居心地が悪い」
「米沢を去るつもりか?」
兼続の一言に同心たちはぎょっとなった。
長谷堂城の戦いに限らず、慶次の武勇は天下にあまねく知れ渡っている。慶次が上杉家を去ったと聞けば、高禄で取り立てようとする藩はひとつや二つではないはずだ。
もっとも兼続にとっては、そんなことより真の友に去られることのほうがはるかに辛かった。
「いや、せっかく庵まで建てたのだ。朽ち果てるまで住み続けたいと思っておる」
慶次の言葉に、兼続は心底ほっとした顔を見せた。
前田慶次が藩主上杉景勝の許しを得て正式に引退したのは、澤ノ岩の一件が落着したのちである。ただし致仕届には念を入れて澤ノ岩を斬った前日の日付をしたためてあった。万一伊達家から何か言ってきても、上杉家とはもはや縁の切れた者としてつっぱねることができる筈だ。
慶次なりの藩への心配りである。
「あの……」
きえがおずおずと聞いた。澤ノ岩を斬ってから数日後のことである。
「前田さまが仇をうってくんなさったんですか」
慶次が澤ノ岩を斬った話は城下に広がり、この里にも伝わったようだ。
「仇というわけではない。藩にとって不埒な者を成敗しただけだ」
「んだけど、そのせいで前田さまが死罪になるかもしんねえと……」
「誰がそのようなことを」
慶次は苦笑した。
「寺の和尚さまが」
堂森善光寺の住持が話したようだ。
「心配せずともよい。そのようなことにはならぬ」
そう言った慶次だが、伊達藩の出方次第では腹を切ることも覚悟していた。そうでなくては無闇に斬ってはならぬ相手である。
「そったらことになったら、やんだす」
きえは首を振りながらうっすらと涙を浮かべた。
白露の候を迎えた。現在の九月七日頃で、朝夕はめっきり涼しくなった。
田んぼでは黄金色に色づいた稲穂が重たそうに頭を垂れている。間もなく稲刈りが始まる。
それが終われば、ひと雨ごとに周囲の山々が赤や黄色に彩られてくる。米沢の冬の訪れは間もなくである。
過日、慶次は兼続から呼び出しを受けた。
「伊達家は咎め立てをする気はないとのことだ。良かったよ」
「それは重畳」
本来なら喜ぶべき筈の兼続の知らせにも、慶次は飄々としていた。
「なんだか期待を裏切られたような口ぶりだな」
兼続が思わず苦笑した。
「切腹せずに済むならそれに越したことはない」
そう言いながら笑みを浮かべる慶次の顔は若々しく見えた。
澤ノ岩を斬ったあとしばらくして、伊達家から上杉家に使者が遣わされた。
それから数日の後、兼続と伊達家重臣、片倉小十郎景綱が密かに会談を持った。
場所は米沢藩と仙台藩の国境、二井宿(にいじゅく)峠である。「北の関ケ原」の戦いの折、この峠をはさんで上杉軍と伊達軍が死闘を繰り広げてからまだ五年しか経っていないにもかかわらず、あたりは不思議なほど静寂に包まれている。
季節は八月の終わり。里では暑さが残るが、標高五百五十メートル余の峠は昼でもひんやりと涼しかった。
「米沢の暮らしはいかがでござる?」
開口一番、片倉小十郎が尋ねた。
「なかなかよき土地柄でござる。人気(じんき)もよい。これも伊達様が善政を敷かれたお陰でござろう」
兼続が答えると、小十郎は満足気にうなずいた。
「そうそう、過日殿とともに成島八幡に参りました。宮司殿もご健在でおられた」
「それは真にかたじけない」
片倉小十郎は「かたじけない」を繰り返し、幾度も頭を下げた。成島八幡宮は小十郎の実家であり、神職は実の兄が務めている。
米沢藩主となった上杉景勝が自ら参拝してくれたことに勝る栄誉はなかった。
だが上杉と伊達の間でふたたび戦火を交えるようなことになれば、迫害される惧れもある。片倉小十郎にとって実家は、敵地に残された人質のようなものである。
「さて、澤ノ岩のことでござるが」
小十郎が切り出すと、兼続はすっと背筋を伸ばした。澤ノ岩を斬ったことで厳しい言葉を浴びる覚悟はあった。
だが伊達家重臣の口から出た言葉は意外なものだった。
「当家の縁者をかたる力士崩れの者が、貴藩の領内で乱暴狼藉をはたらいた旨、深くお詫び申し上げる。彼の者を成敗なさったことについては、当藩から何も申し上げることはござらぬ」
聞けば澤ノ岩は伊達家家臣の縁者だが、素行の悪さに激怒した藩主伊達政宗が、澤ノ岩が岩出山に移ることを許さなかったという。
澤ノ岩はそのまま米沢に留まり、伊達家の後に入府した蒲生家の時代から乱暴狼藉を繰り返していたようだ。
蒲生家は伊達家への遠慮もあって澤ノ岩を厳しく処断できずにきてしまった。その蒲生家も去り、上杉家にも負債が引き継がれてしまったということである。
「聞けば相撲取りを斬ったのは、あの前田慶次殿とのこと」
「さよう。よくご存知で」
「なに、もともとは我らが父祖の地。どなたがいつ、何をされたかぐらいは自然と耳に入り申す」
小十郎はにやりとして言ってのけた。これは米沢で起きた出来事については細々したことまで承知しているという牽制であろう。さすがに油断のならない相手である。
「ともかく、澤ノ岩も稀代の武将に斬られたならば、迷わず成仏したであろう。我が藩にとっても不幸中の幸いでござる」
澤ノ岩は伊達家にとっても禍根の種だったのだろう。それを慶次がいとも簡単に成敗してしまったのだから、伊達家にとっても渡りに船といったところだろう。
慶次が堂森の庵に戻ってきえに裁可を伝えると心から喜んだ。
「よかったなす。よかったなす」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、何度も繰り返した。
夜には肝煎からも城下の造り酒屋の酒が届けられ、ささやかに祝った。
八
翌朝の食膳には里芋の煮つけが添えられていた。初物である。
「これは旨い」
慶次が言うと、きえの顔がほっと赤くなった。
朝餉を終え、慶次郎がごろりと横になったところへ来客があった。直江兼続である。供を連れず、単身馬を駆ってきたのだ。
「今朝届いたので、せっかくなら早く届けようと思ってな」
背中に背負った風呂敷包みを上がり框にそっと置いた。
開いてみると見覚えのある茶碗である。慶次が割ってしまった白天目がみごとに修復されていた。割れた部分を結合させているのは金継ぎである。
「ほう、よい景色だ」
継ぎ目がよい趣を醸して、風雅なたたずまいである。
「それをこしらえたのは、先だって足を痛めた大工の見習いだ」
「なんと」
慶次の両目が大きく見開かれた。きえの次兄文次のことである。
聞けば兼続自らが鍛冶町の漆職人に頼んで弟子にしてもらったのだという。鍛冶町は近江から来た職人が開いた町である。
文次が漆職人として再出発することになったという話は、きえからも聞いていた。だが壊れた茶碗を修復したという話は初耳だった。
「きえ」
慶次はすぐに水場にいたきえを呼び、茶碗を見せた。
「まだまだ拙いが、親方は見込みがあると言っていた」
兼続の言葉を茫然と聞きながら、きえの目からみるみる間に涙があふれた。
「おしょうしな。おしょうしな」
きえは茶碗を押しいただいて、畳にこすりつけるように頭を下げた。
兼続がこほんと咳ばらいをした。
「ところで、いささか喉が渇いた。ついては茶を一服所望したいのだが」
兼続がちらっと白天目を見て少し恥じらうように言った。この茶碗で喫してみたいということだろう。
「喜んで」
慶次は満面の笑みを浮かべると勢いよく立ち上がった。
「支度をするので少し待っていてくれ」
きえに湯を沸かすよう命じた慶次は、そのまま隣の書斎に行き、戻ってきたときには掛け軸を手にしていた。
点前に用いた茶碗は、むろん金継ぎされた白天目である。
「旨い」
慶次が点てた濃茶をひとくち喫んで、兼続は深く息をついた。
「ところで、あれは何の花かな?」
兼続が目を向けたのは床の間の掛け軸である。先ほど慶次が掛けたものだが、一茎の草花が着色で描かれている。白い小さな花が総状(ふさじょう)に付いているが、周りの葉も白いのが目につく。お世辞にも上手いとはいえないが不思議な味がある。どうやら慶次の筆になるもののようだ。
「あれは半夏生という草だ」
慶次は得たりとばかりに身を乗り出して語り出した。
「半夏生とは七二候のひとつで、夏至の終わり頃のことだ。この草はちょうどその頃に白い花をつけるのだが、葉っぱも何枚か白くなる。これを見て、やや、枯れたのかと思うが、しばらくすると不思議にもまたつやつやした緑に戻るのだ」
子供がとっておきの秘密を打ち明けるような勢いで一気に喋った。
「ほう」
うなずきながら兼続は、慶次がわざわざこれを掛けたのも、この話がしたかったからだと気づいて微笑んだ。
「おれは毎年この草を見るたびに、若返ったような気持ちになる」
慶次が言うと、襖の向こうできえがくすりと笑うのが聞こえた。
兼続は知る由もないが、三月ほど前にきえから聞いた話の受け売りである。それをまるで昔から知っていたように話すところが、よほどおかしかったのだろう。
ただし茶道の季節感としては、秋風が立つこの時季に半夏生はそぐわない。だが慶次にはそんな堅苦しい決まり事は無縁のようで、いかにも慶次らしかった。
「よい話を聞かせてもらった」
兼続はいたく感じ入ったようにうなずいた。武将としての勇猛さに加え、治世においても優れた手腕を発揮した兼続は、すぐれた人格者でもあった。
「ところで、これは返しておく」
兼続が懐から取り出したのは、慶次の致仕届である。
しかし慶次は首を縦に振らなかった。
「一度出したものは受け取れぬ」
「では、あくまでも隠居すると」
「さよう」
「繰り返すが、米沢を去るつもりはないのだな?」
「ああ。おれはこの雪深い田舎が気に入った」
兼続は心底安堵した。
「ならばよい。だが何が不満なのだ、遠慮なく言ってくれ」
「不満は、することがないことだ。退屈でしようがない」
「それはかねてより言っておるだろう。おぬしが我が家中にいてくれるだけで、どれほど多くの藩士が心強く思うことか」
「それがこそばゆいのだ」
慶次は叔父の前田利家に仕えるまで浪々の暮らしをしてきた。だが慶次にとっては、その日暮らしの寒々しさもまた好もしかった。
前田家を出奔したのも、宮仕えの窮屈さに耐えられなかったからだ。その点は禄を食むことに汲々としている多くの藩士にはうかがい知れぬことである。
しばらく考えていた兼続が口を開いた。
「ならば気が向いたときでよい、藩内を見廻ってもらえぬか」
慶次が不審げに眉根を寄せた。
「見廻りなら伏嗅組(ふしかぎぐみ)がおるではないか」
伏嗅組は兼続が新たに設置した米沢藩の諜報組織で、家中でも特に武功に優れた者を集めた隠密集団である。領内の見廻りおよび治安維持を受け持ち、のちに犯罪者の捕縛にもあたった。
「おぬしは組とはかかわりなく、好きに動いてもらってよい。領内はいまだ落ち着かず、目の届かぬことも多い。逆に藩士が領民を苛むことがあれば、遠慮なく処断してよい」
「なんと」
慶次は目を大きく見開いた。傾奇者として名高い男が驚くほどの決断である。
「これは働かされそうだな」
そう言いながら、慶次の目はらんらんと輝いていた。半夏生の白い葉が青く戻るように、慶次もまた若返ったようである。
「そうだ、最上も伊達もまだまだ油断がならぬ」
兼続はにこりともせず返した。
関ヶ原の戦いが終わった後も、北の地ではいまだ戦いの埋み火が燻っている。
長谷堂城の戦いの翌月には、伊達政宗が二万の兵を率いて上杉領に攻め入った。上杉軍はこれを撃退したが、伊達氏の侵攻は翌年五月まで数度にわたって続いた。伊達政宗の生まれ故郷米沢に対する執着がいかに強かったかを思わせる戦いである。
「その役、謹んでお引き受けいたす」
慶次は居住まいを正し、兼続に深々と一礼した。
庵の小窓から見上げる北国の空は、晴れ晴れとしてどこまでも澄みわたっていた。
金継ぎの施された白天目茶碗は、慶次のお気に入りとなった。
不思議なことに、あれから信長の夢はぱったり見なくなった。
(了)
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