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14代将軍徳川家茂の上洛(1863年)
幕府は追い詰められていた。和宮降嫁の時に約束していた、攘夷の決行を迫られていたからだ。
この時、朝廷を操って攘夷決行の勅命を出させたのは、長州と土佐の藩士達である。特に、土佐勤王党のメンバーは、暗殺という手段によって、朝廷を支配していた。
この攘夷決行の勅命に回答するため、14代将軍である徳川家茂が上洛する。実に、3代将軍徳川家光以来、230年ぶりのことである。
余談だが、幕府は、将軍警護のために隊士を募集、234名が集まった。この隊士の内、24名が、後の新選組のメンバーとなるのである。
京都につくと、徳川家茂は、執拗に攘夷の決行を迫られた。そもそも、一度結んだ条約を簡単に撤回することは無理な話であり、もちろん、ヨーロッパ列強を追い出す力も、今の幕府には無かった。だが、徳川家茂は、攘夷決行の日を5月10日にすると約束させられてしまうのである。
さらに、孝明天皇の加茂神社行幸に随行するように命じられた。天皇の行列の後に、将軍の行列が続くのだが、これは、幕府の権威の凋落を世間に示した。
これら全て、長州と土佐の志士達の策謀であった。尊王攘夷の志士達が日本を動かしていたのだ。彼らの絶頂の時であった。
5月10日が来たが、幕府は攘夷を実行しなかった。もちろん、どの藩も攘夷の実行などは、しなかったが、ただ1藩だけ攘夷を実行した藩があった。その1藩とは、長州藩であった。長州藩は、外国船に対して砲撃したのだ。
尊王攘夷の志士達は、自分たちの力を過信していた。自分たちの思想に酔っていたのかもしれない。彼らが転げ落ちる時が迫っていた。
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