【小説】追手吹く風 秀吉〈其四〉墨俣一夜城
「うう、寒い寒い」
物見櫓の上で藤吉郎はゴザ一枚を頭から被り震えていた。季節は冬、それも時刻はとうに丑三をまわっている。
「お主は相変わらずひ弱いなあ」
「当たり前じゃ。真冬の櫓は寒いに決まっておる。小六、お前は面の皮が厚いから寒さもわからんのじゃ。」
「はは、口は凍っておらんな」
小六は、悪態をつかれても藤吉郎のことがとても好きだった。自分に対する愛着と信頼が暖かく伝わっていくるからだ。人は愛情を受けるとその相手を好きになる。それにそれだけではない。槍も待てなさそうな小男の、その小さな背中からいつも嵐のような強い風を感じる。この男となら飽きることはない、そう思わせるからだ。
小六は震える藤吉郎と違い、胴丸一つで仁王立ち、遠く北東を睨んでいる。
蜂須賀小六正勝は川並衆で、木曽川沿いを古くから抑えている地方豪族である。あえて身分を言えば藤吉郎よりも上である。しかし藤吉郎は小六を友として扱い、また小六もそれを良しとしていた。
2人の出会いもまた藤吉郎らしかった。ある日
「寧々、家臣を連れてきたぞ」
と、撒き散らしながら家に戻ってきた。
「儂はお主の家臣ではないわ」
その後から丸い顔を振るわせて、笑いながら戸をくぐってきたのが小六であった。
二人の賑やかな声は勿論隣にも聞こえる。すぐに
「客か?」
と、前田又左衛門が入ってきた。当然その手には酒がなみなみと入った瓢箪が握られている。
「ほう、小六殿は川並衆か。では先月の雨は難儀したじゃろう」
「ああ、難儀したわ。木曽川が暴れに暴れたので全て流された」
「やはり。信長様もそれに心を痛めておられた」
「おお、信長様が」
「そうじゃ、又左の言う通りじゃ。信長様はあの後すぐに儂を使いに出されてな」
「そうか、それでお主が儂のところへ来たのか」
「ああそうじゃ。見舞ってこい、と仰せられた」
「で、来てそうそう、儂と喧嘩か」
そう言って小六は笑い出した。
又左衛門の言った先月、季節外れの豪雨により木曽川が壊れ付近の村や畑、多くの人が流された。その調査を藤吉郎は信長に命じられ川並衆の頭領である蜂須賀家を訪ねた。しかし藤吉郎は見舞いではなく小六と面会するなり早々に
「織田家の家臣にならんか」
と、切り出した。小六からすると領内が水で砕かれ、それどころではない。
「なんだお前は、こんな時に何をしに来た。それに家臣になれとはなんという言い草じゃ」
今にも切り捨てる勢いで小六は藤吉郎を追い返した。しかしまた次の日、藤吉郎はひょこひょことやってきた。そして今度は小六には会わず、領内あちこちで行われている復興作業に無断で参加し始めた。この頃の蜂須賀家は独立国家で、織田でも美濃斉藤でもない。敵か味方かも計り知れないところへ藤吉郎は鍬一本抱えて毎日出勤してくるのである。
最初は怪訝な顔をしていた蜂須賀家の家臣や領民たちも、毎日毎日勝手に来ては大声で働き倒す藤吉郎が好きになっていった。子どもたちも
「今日は藤さん、まだ来ないの?」
と、大人たちに聞くようになっていた。小六は家臣に
「明日、あの小男が来たら儂のもとへ連れてこい」
と、とうとう折れた。
「やあ、小六殿。いよいよ織田家の家臣になってくれるか」
広間に腰を下ろすやいなや藤吉郎はもう、結論を口に出していた。相変わらずの物言いに小六はもう笑ってしまった。
「木下、とか言ったな。なぜお前は儂を織田家の家臣にしたいんだ?」
「ああ、そりゃあお前さんは力がある。戦にも強い。それに家臣も大勢おる。そして何より木曽川の水運で銭もある。しかし、残念だが頭は悪い。そんなお主を美濃に取られたくないんでな。なので儂が取る」
「はは、褒めているのかけなしているのか。確かに儂は力も金もある、そしてそれなりに頭も良いつもりじゃが、なぜ頭が悪いと決めつける」
「そりゃあ簡単じゃ。儂がもしお主なら、さっさと美濃を取っておる」
「なんじゃと、美濃を」
「ああ。北は美濃、南は尾張にすぐ手が届くというのに、ただただコソコソ生きておる。儂ならすぐに美濃を取って、天下に号令をかけておるわ」
「言うのう。お主は侍ではなくホラ吹きが仕事か」
「ホラなど吹いておらん。ホラだと決めつけてしまうところが、頭が悪いといっておるんじゃ」
「なんだとッ」
流石に小六も腹が立ってきた。
「まあ、まて。今日儂はお主と喧嘩をしに来たのではない」
「…それはそのまま儂の言葉じゃ」
これにまた小六は笑ってしまった。人を思いっきりけなしておいて喧嘩はする気がないと。なんとも可笑しみのある男だろうか。
「では、聞こう。お主はいったいどうやって美濃を取る気じゃ。
「山で木を切る」
「山?どういうことじゃ」
「山じゃ。ほれ、お主の川の上流に山があるじゃろ。その山はお主にとっては庭じゃ、気儘に木を切れるじゃろ。そして川並衆は川の民じゃ川を操れる。その切った木を川へドボンっドボンっと投げ込んで、思った場所まで流せるじゃろ」
小六は藤吉郎が何を言っているのかが分からなかった。そんな小六の疑問に、藤吉郎は少しずつ答えていく。木を切り川へ流し、着いた先で砦を組む。それを足がかりに美濃を取る、という計画だそうだ。藤吉郎は答えながら、小六の心を少しづつ手掴みで自分の懐に入れていった。
「小六殿。儂はこれから本気で美濃を取る。美濃を取るにはどうしてもお主の力が必要なんじゃ。どうか、どうか儂の家臣になってくれ」
そういって藤吉郎は床板に頭を擦り付けた。小六は藤吉郎のその急な態度に思わず「わかった、わかった。頭をあげてくれ。お主と喋っていると調子が狂う」
そして藤吉郎は小六を伴い小牧に戻り、家に連れ帰ったのである。
この後藤吉郎は小六と川並衆の力を借り、見事に中洲に砦を築いた。その速さは尋常ではなく、異変に気がついた美濃勢も稲葉山から駆けつけた時にはすでに遅かった。堀を穿ち柵を巡らせた堅固な砦が完成し槍の数も揃っていた。美濃勢は手も足も出せずそのまま稲葉山城へ引き上げていった。これが伝説となって今も語り継がれる墨俣一夜城である。
「小六、お前、本当は寒いんじゃろ。やせ我慢するな」
「は、この程度の寒さで音を上げるぐらいなら侍などせんわ」
「儂は侍にはなったが、寒いのは無理じゃ」
震える藤吉郎の元へ、兄者、酒じゃ、と小一郎が梯子を軋ませながら上がってきた。
「おお、救いじゃ。酒でも呑まんとやっとれん」
「燗じゃ。下で温めてきた」
「さすが小一郎じゃ。小六、小六、一緒に呑もう」
「おお、これはかたじけない」
小一郎は二人に酒を渡しながら闇の向こうを眺めた。
「結局、今夜も動かんかのう」
「動かんじゃろうな。ふう、生き返る」
藤吉郎は、あちち、と口をすぼめながら酒を口に含み、小一郎が見ている同じ闇を見た。夜の空に黒く巨大な塊が天をついてそびえたっている。稲葉山、と呼ばれる天剣の山だ。その頂上に本丸を構えるのが不落の居城と呼ばれた美濃斎藤家の稲葉山城である。
かつて斎藤道三はこの城を拠点に美濃を統一し、信長の岳父にもなった。しかし息子義龍に不意をつかれ殺された。その義龍ももう世には無く、今は道三の孫に当たる龍興が頂上本丸にうずくまっている。
「しかし兄者、本当に十日でこの砦を築けたのは、小六殿のおかけじゃな」
「ああ、小六のおかけじゃ。実は儂も策は練ったが実際にやれるかどうかはわからんかった。小六が手を貸してくれんかったら今頃儂の首は信長様の長谷部でへし切られておったじゃろうな」
「ほうほう、それも見ものじゃな。まあ感謝しろよ藤吉」
小六の手を借り砦を築いた藤吉郎は信長から
「藤吉、よくやった。お前はそのまま砦に入れ」
と、城守に正式に任命された。小さな砦だがこれはただの足軽大将ではなく、一隊の将への昇進である。藤吉郎は歓喜した。
「小一郎、小六、お前たちのお陰で一気に出世したぞ」
藤吉郎たちはそのまま墨俣の砦に入り、目と鼻の先に迫る稲葉山城を監視するため毎晩こうして櫓で寝泊まりをしていたのである。
「しかし、昼間はあんなに穏やかな長良川も、夜の闇では轟音のみが聞こえて恐ろしいのう」
小一郎は櫓から下を眺めて心底震えた。そばで小六が静かに応える。
「川というのは絶えず変わる。季節だけでなく昼と夜でも全く顔が違う。我ら川の民はその川の変化にただ合わせながら生きておるんじゃ」
それを聞いて藤吉郎は、今まではそうじゃったがこれからは違うぞ、と
「小六、これからこの藤吉郎と共にあれば変われるぞ。確かに儂ら人間はこの大河に比べれば小さい。しかし小さいが、ただ流されるだけではなく抗うことも出来る。川は海へ流れるだけじゃが、儂らは登っていくことも出来る。小一郎、小六、儂は登るぞ、登って登って登り切るぞ」
そう威勢の良い事を言いながら藤吉郎は
「しかし、もう今夜はだめだ、寒い。寒すぎる。小一郎、下に降りて火へ行こう、火に」
と、梯子を降りていってしまった。
「な、何を兄者。見張りは良いのか?」
「ああ、よいよい。見ればわかる。今日は動かん」
「呆れた奴じゃなあ。登る登ると言いながら降りていきよったわ」
そう笑いながら小六も梯子を降りていってしまった。
「こ、小六殿まで」
「大丈夫じゃ小一郎」
と、下から藤吉郎が声をかける。大きな動きがあれば火が揺れるという。
「大人数が移動すれば火も動く。静かに隠しながらやったとしてもどうしても火は揺らぐ」
確かに、遠くに見える稲葉山城の火は揺れてはいない。
「だから今夜は動かん」
と、藤吉郎は言うのである。
三人は小六の家臣を数人柵際で見張りをさせ、火に当たりながら眠った。
翌朝、まだ朝日が上る前の稲葉山城は雲海に沈んでいた。長良川から立ち上る蒸気が雲となり城を小舟のように浮かべている。藤吉郎は物見櫓に登り、北東にそびえる稲葉山城を眺めた。
「小舟が大海に揺られておる。どの岸にもたどり着けん、か。この様子じゃ今日も動かんな。誰か、見張りを変わってくれ」
藤吉郎は朝飯を食べに小屋へ戻っていった。
つづく。
★皆さま、ぜひ「スキ♡」ボタンを押してから元の時代へ帰ってくださいね!ではまた次回も戦国時代でお会いしましょう!