無知の喜び
電車の中で身を揺られているとふと考えることがある。現代人の大半はスマホをいじったり、寝ていたり、勉強をする勤勉な者もいるだろう。では、昔の人は電車の中で何をしていたのだろう。外を眺めて物思いにふけっていたのか。それとも読書をしていたのだろうか。現代人と同じように寝ていたのかもしれない。こういった教科書に載らないような日常の疑問というのは時代とともにその答えが失われていくのだろう。この場合、まだその答えを知る術はある。親族でも知らない通行人でも、その時代を生きた人に尋ねればいいだけである。こういう意味のない学びというのはきっと世界を広げてくれるものだろう。昔の人と今の人、その二つを知ることで今と昔の比較をしたり、そしてこの先どうなっていくのかという予想もできる。
しかしながら知るというのは世界を広げると同時に世界を狭める行為でもある。もしこの答えを知ってしまったら、また電車の中を眺めて昔のことを考えたときにその答えがすぐに浮かんできてしまう。そうなったら昔の人がどう過ごしていたのかという想像が遮断されてしまうのだ。知ることは同時に世界を狭めることになる。人がもし熱力学第二法則を知らなければ永久機関という夢を諦めなかっただろう。今や著名な科学者になったいる天才たちがそれを実現しようと模索し、面白いアイデアが沢山生まれていたに違いない。人は未知を求めて知の探求をしてきた。もし人が全てを知り全知となったとき、その世界は広いものなのか、それとも今よりもずっとちっぽけな世界になっているのだろうか。
身近な例で例えよう。学生時代、きっと次なる学び舎に目を光らせていたに違いない。小学校はどんなところなのか。中学校は楽しいのか。高校生はどれほど自由なのか。大学はどんなに楽しいところなのか。次なる未来を想像し、そこに希望を見出すものも少なくなかっただろう。しかし実際はどうだろうか。新しいところに行き、想像よりも楽しかったもの。想像通りだったもの。想像より辛かったものもいるだろう。しかし、そういった確定した未来としての今。つまり知となった学び舎はきっと想像の学び舎と比べどこか物足りないところはなかっただろうか。もっとキラキラしたイメージを抱いていたのに、実際は泥臭い日常だったというのはよくある話なのだ。
人類が未知に遭遇したとき、それは頭を悩ませるとともに絶大な喜びをもたらすはずだ。それは知りたいという欲求の渇望から来るものである。どうしてそれが起きるのか、どういう仕組みなのか、どう解き明かせるのか。さまざまな人々が共に取り組み、今までの発見を活かしていく。人類の叡智とも呼べるものだろう。そうして解き明かされたものがまた叡智として蓄積されていく。いつしかそれは全知となるかもしれない。もしそうなったとき、今まで積み上げてきた叡智は何のために存在するのだろうか。もちろん我々の生活は叡智によって格段に良いものになった。弥生時代の農作から始まったものが、今では人工知能なんていう当時では想像すらできないものまで発展してきた。そうして発展していった世の中の先には何があるのだろうか。空飛ぶ車は実現するのか。UFOは存在するのか。タイムマシーンを作ることはできるか。SF作品の中ですら出てこないものまで作られているかもしれない。
しかし一度全知となれば、こうして未来を"そうぞう"し愉しむことすら危ぶまれてしまうかもしれない。知らないという状態は実際の現実よりも多くのものを創り出すことができる。もちろん叡智を蔑ろにしろというわけではない。叡智というものの便利さと、無知という状態の可能性。どちらも捨てるには惜しいものなのである。
最近は無知な者を馬鹿にする傾向が強まっているようにも思える。無知であるのになんでも知っているかのように話すのは褒められたことではない。だが、無知であるからこその創造力というものも大切なものであろう。なんでもかんでも知っていれば人生は楽しくなるものではない。知らないことがあるからこそ人生は愉しくなるのだ。