
坂本龍一展で考えた徒然
備忘録。坂本龍一展を見た感想というよりは、坂本龍一展で考えたことの記録。

この大画面の前に、30分はいたと思う。
見ながら、諸行無常を感じた。森の映像で、風に戦ぐ葉っぱの映像が、動きが止まって写真になり、ビットの海に消えて行く様子に鳥肌がたった。物事は永遠に見えるけれど、いつかふと消えてなくなることを目の当たりにした気がする。
そして寝そうになりながら愛について考えた。こんなに雑音なく何かを純粋に熟考したのは久しぶりだ。この時間をとらせてくれただけで、この大画面の前に座った意味は大いにあった。

私が恋愛にくよくよ悩み苦しむのは
①愛の定義を知らないから。(よって間違った方向に五里霧中で走る&軌道修正が素早くない、失敗のまま苦しむ)
②愛ではないと知った時に、次の愛に向けて前の愛を捨てる行為(=別れ)が苦しいから。
この別れが苦しい理由は、
1.愛ではないにしても大好きだった存在を手放さなければならないから
2. 一瞬、希望の存在としての恋人という生き物が、いなくなるから。
2. について、私は手に入らないものを手に入れるために頑張る道のり自体が生きがいだったりエネルギーソースだったりする。それがふと消えると、宙に放り出された感じがして不安になる。この不安が苦しいんだと思う。
でも必要な苦しみだ。この別れを経てこそ次の建設的な愛の候補に取り組むことができる。うまくいかなければまた別れて取り組み直す。スクラップアンドビルドだ。

話はあまり覚えていないけれど
柄本佑か時生かが「スクラップアンドビルドだ」
って唱えてる。怖いくらいの頻度で。
そこだけやたら覚えている。という余談。
ボクシングジムでも「スクラップアンドビルドだ」
坂を登っている時も「スクラップアンドビルドだ」
まず愛しているか判断するためには大前提として愛の定義を知らなきゃいけない。愛という言葉が生み出された以上定義はあるはずなので、それをまず学ぶ必要がある。人によって定義は違いそうだが、ひとまず愛の名付けの由来から辿ってみようと思う。
次に、夢について考えた。覚えている夢の情景と、覚えていない自分の過去。どちらが自分にとって影響力があるだろうか。前者だ。
覚えていない記憶なんて、自分にとってはなかったに等しい。(写真や思い出の品など物理的遺跡が残ることは夢とは大きな違いであるが。)
覚えていない過去よりも、覚えている夢の出来事の方が、今この瞬間の自分にとっては実態がある。

そうなると、生ってなんだ。記憶ってなんだ。覚えていないことは起こっていないに等しいなんて恐ろしいので、できるだけ多くのことを覚えていたい。生を忘れたくない。
友達は、仮結論として
「今意識のある自分は生きているという設定で、その仮世界の中ではこうあるべきだから、それにむけて仮生を受けている自分はこう行動したい。結論死ぬし、死んだら実態は無くなるし、この世界なんて虚無だったのかもしれないし夢かもしれないけれど、今この瞬間に意識のある自分はいるので、この仮世界のなかで仮結論を元に生きて最大限手応えもって生きよう」
ということに決めているそうだ。一歩先まで結論が進んでいてさすがである。
坂本龍一展に話を戻す。アピチャッポン監督とコラボした、寝ている人をオムニバスにとらえた映像作品がある。
この作品にはなんだかメタ認知させられた。
人間は所詮ある程度活動したら毎日数時間休息を取らないといけない「生き物」なのであり、動物だと感じた。小難しく社会生活や複雑な社会システムを構築しているが、所詮毎日数時間、何もしないでただ目を瞑って休息を取る時間の必要な「動物」だ。眠っている時の人間は無防備で純粋で自然だった。
人の寝顔って、良い。安心する。人間は個人としても集合体としても人やモノを傷つける。怖いのだ。だけど寝ている時の人間は存在が矮小化されていて、見ている時の恐怖感が薄れる。安心する。イーロンマスクだって寝ないと生きていけない点ではハムスターと一緒の動物なんだよな。
最後、坂本龍一の日記コーナー。
機会と生きて、うつ病は増えた。まるでSFだ。
というようなことが書いてあった。

人間は豊かになったようで、病んでいる。自力で生きていく能力も失った。電気が突如なくなったら都市機能は麻痺、サバイバル能力のない都会人はすぐどうしようもなくなると思う。
私は都市機能不全になった終末世界でも生きていける人間でありたいという意識がある。これは覚悟と呼べるほど強くもない、単なる空想のような「意識」だけれど。
そんなわけで農業や木工やものづくりを少しづつでも学びたいという話を友達にしていたら、彼女もそう考えていたようで笑った。変な人を見るような目や戸惑いを向けてこず、受け取ってくれる人、そしてわかる、って言ってくれる人の尊さを味わう20代、冬。

あと、坂本龍一が生きてるみたいでした。一緒に行った友達がMIDIについて解説してくれた。たまげたし、これは本当に目が離せなかった。技術に対して久しぶりに純粋な感銘を受けた。
日常を便利にする道具としての技術には、私の中の邪な何かが入り込む気がしている。でもこのテクノロジーに対しては純粋な感服と感謝が湧き上がった。鳥肌立ったな。坂本龍一のリサイタルに来たみたいな気分を味わえた。
メディアアート、ありがとう。