令和の言葉で読む 夏目漱石『私の個人主義』
この文章は、大正3年11月25日、学習院の輔仁会(生徒の会)で夏目漱石によって講演されたものです。
私は今日、初めてこの学習院という場所の中に入りました。もちろん以前からこの学習院はこんな感じだろうと大体想像はしていましたが、はっきりとは存じていませんでした。中に入ったのは無論、今日が初めてです。
さきほど岡田さんが紹介した通り、この春に何か講演をするようにという注文がありました。しかしその当時は何か差し支えがあって、―岡田さんの方が私自身よりもよくご記憶なさっていて、あなた方にご納得いただけるようにただ今ご説明がありましたが、とにかく一旦はお断りしなければならなくなりました。しかし完全にお断りするのも失礼だと存じましたので、「この次には参ります」という条件を付け加えておきました。その時、念のために「この次はいつごろになりますか」と岡田さんに伺いました。すると「今年の10月だ」というお返事でした。そこで心の中で、春から10月までの日数を大体計算してみて、それだけの期間があれば何とかできるだろうと思ったものですから、「よろしくお願いします」とはっきりお受け合いしたのです。
ところが幸か不幸か、病気にかかってしまい、9月いっぱい床についておりました。その間にお約束の10月が参りました。10月にはもうじっと寝ているわけではありませんでしたが、なんせ体力がだらしなかったので、講演は少し無理でした。しかし約束は約束ですから、自分の中では「いま何か言われるだろう」と思って、ひそかに怖がっていました。
そうするうちに体力も完全に戻りましたが、こちらからは10月の終わりまで何の連絡もなく過ぎてしまいました。私は病気のことを知らせておりませんでしたが、新聞に少し載っていたという話でしたから、あるいはその事情が分かって、誰か代わりに講演をしてくれたのだろうと推測して安心し始めました。ところが突然また岡田さんが見えて、わざわざ長靴を履いて来られました(もっとも雨の日だったからでしょうが)。そうした身なりで、わざわざ早稱田の奥まで来て、講演を11月末まで延期したので約束通りやってもらいたい、とご挨拶がありました。私はもう責任を逃れたと考えていたので、実は少々驚きました。しかしまだ1ヶ月もあったので、その間にできるだろうと思い、「よろしくお願いします」とご返事しました。
以上の次第で、この春から10月に至るまで、10月末からまた11月25日に至るまでの間に、何か纏まったお話をすべき時間はたくさんありました。しかしどうも気分が悪くなり、そのような事を考えるのが面倒でたまりませんでした。そこで「11月25日が来るまでは構わない」という怠け者の考えを起こして、ぼんやりとその日その日を過ごしていました。いよいよ時日が迫った2、3日前になって、何か考えなければと思いましたが、やはり考えるのが不愉快だったので、とうとう絵を描いてごまかしてしまいました。絵を描くと何か立派なものを描けるように聞こえるかもしれませんが、実際は大したことのないものを描いて、それを壁に貼り付けて、一人で2日も3日もぼんやり眺めているだけです。
昨日誰かが来て、「この絵は面白い気分で描いたようですね」と言ってくれました。すると私は「面白くて描いたのではなく、不愉快だったから描いたのだ」と、自分の心の状態を説明しました。世の中には愉快で座っていられないから、その結果として絵や文章を作る人がいる一方で、不愉快だからどうにかして気分を改善したくて、筆を執って絵や文章を作る人もいます。不思議にも、この2つの精神状態が作品に現れた時、よく一致している場合が多いのです。しかしこれは付け足しの話なので、深く立ち入りません。要するに私は変な絵を眺めるだけで、講演の内容は全く準備できずに過ごしてしまったのです。
そうしているうちにいよいよ25日が来てしまい、好むと好まざるとにかかわらずここに顔を出さなければならなくなりました。それで今朝少し考えを纏めてみましたが、準備が不足しているようです。あなた方に満足いただけるようなお話はできそうにありません。そのつもりでご容赦願います。
この会はいつ頃から始まり、今日まで続いているのか存じません。しかしあなた方がよその人を連れてきて講演させるのは、一般の慣例として何ら不都合はないと私も認めています。しかし一方で考えると、あなた方の望むほど面白い講演は、どんな人を呼んでも簡単には聞けそうにありません。あなた方にとってはただ珍しいだけのように私には見えるのです。
私が落語家から聞いた話に、こんな諷刺的なものがあります。
昔、あるお大名が二人で目黒へ鷹狩りに行った。所々を駆け回った末、空腹になってしまい、ありあわせの食べ物もなく、家来とも離れ離れになってしまいました。仕方なく、そこにあった農家に押し入って、「何でもいいから食べ物をくれ」と言いました。する と農家の主人夫婦は気の毒がり、秋刀魚を炙って出してくれました。二人のお大名はその秋刀魚が物凄く美味しく感じ、お腹を満たしました。しかし翌日になっても、口からあの秋刀魚の香りがぷんぷん漂い、その味が忘れられないのです。そこで二人のうち一人が、秋刀魚を出そうとしました。家来たちは戸惑いましたが、命令ですからと料理人に秋刀魚の細い骨を一本一本丁寧に抜かせ、調味料に付けさせ、焼いて出しました。ところが二人は満腹だったこともあり、あの農家の味とは程遠い、舌足らずの秋刀魚にがっかりしてしまった、というのがその話の筋です。
私から見ると、この立派な学習院に通う諸君が、わざわざ私のような者の講演を切望するのは、まるであのお大名がいつもの美味に飽きて、目黒の秋刀魚を求めたのと同じではないでしょうか。
この席にいらっしゃる大森教授は、私と同年代かそれより少し前後して出た方です。その大森さんが、かつて「最近の生徒は自分の講義をよく聴かず、真面目でなくて困る」と嘆いておられました。しかしその評価は、この学習院の生徒についてではなく、どこかの私立校の生徒についてだったと記憶しています。何しろ私は、その時大森さんに対して失礼なことを言ってしまいました。
今、繰り返して言うのは恥ずかしい話ですが、私はその時「君のような講義を喜んで聴く生徒がどこにいるものか」と申し上げました。もっとも、私の本当の意味は大森さんには通じていなかったかもしれません。ですから、この機会を利用して誤解を防ぎたいと思います。私どもの学生時代、つまりあなた方と同年代か、もしくはもう少し上の頃は、今のあなた方よりずっと怠け者で、先生の講義はほとんど聴いたことがないくらいでした。もちろん、これは私の周りを基準に言っているので、そうでない人々には当てはまらないかもしれません。しかし、どうしてでしょう、今から振り返ってみると、そんな気がどこかでするように思えてならないのです。事実、私自身はおとなしく見えながらも、決して真面目に講義を聴く性質ではありませんでした。いつも怠けていました。その記憶があるので、今の真面目な学生を見ると、大森さんのように非難する勇気が出ません。そういう意味で、大森さんに対して無作法を言ってしまったのです。今日は大森さんに謝るためにわざわざ来たわけではありませんが、ついでですからみなさんの前で謝罪しておきます。
話がそれてしまいましたので、元に戻して整理しますと、つまりこうなります。
あなた方は立派な学校に入り、立派な先生方から常に指導を受け、専門的あるいは一般的な講義を毎日聴いているにもかかわらず、私のような者をわざわざよそから呼んで講演を聴こうとするのは、まるであのお大名が目黒の秋刀魚を賞でしょうがんしたようなもので、つまり珍しいから一度は食べてみようという考えなのではないか、と私には推測されるのです。実際、私のようなものよりも、あなた方が日頃顔を合わせている先生方のお話を聴いた方が、ずっと有益で面白いはずです。仮にこの学校の教師になっていたとしても、単に新鮮味がないというだけで、これほど人数を集めてまで私の話を聴く熱心さやあなた方の好奇心は起きなかったでしょう。
私がなぜそんな仮定をするかといいますと、この私は実は昔、この学習院の教師になろうとしたことがあったのです。自分から働きかけたわけではありませんが、この学校にいた知人に推薦されたのです。当時の私は卒業するぎりぎりまで、何をして生計を立てていけばいいか分からないほど、無分別な人間でした。しかし世間に出てみると、ただ待っているだけでは下宿料も入って来ないわけです。教育者になれるかどうかはともかく、とにかく何処かに身を籠めなくてはなりません。そこでこの知人の言うとおりに、この学校に向けて動き始めたのです。
ところがその時、私には敵が一人いました。しかし知人は「大丈夫だ」と力強く言うので、私の方でも任命されたような気分になり、「先生はどんな服を着ればいいのか」と聞いてみました。すると男はモーニングコート(正装の上着)を着ないと学校に行けないと言うので、私はまだ内定が決まっていない段階で、モーニングコートを仕立ててしまいました。しかしながら、学習院という学校がどこにあるのかよく分かっていなかったので、大変おかしな状況でした。ようやくモーニングコートが出来上がったら、頼りにしていた学習院の方は不合格となり、内定が決まりませんでした。そして別の男性が英語教師の空き欠員を充たすことになりました。その男の名前は今は忘れてしまいましたが、特に後悔することもありませんでした。米国から帰ってきた人だと聞いていました。――もしその時、その米国帰りの人が採用されずに、たまたま私が学習院の教師になり、今日まで続いていたならば、このような重要なお招きを受けて、高い立場からあなた方にお話しする機会は決して訪れなかったでしょう。私がこの春から11月まで待って聞いてもらおうというのは、まさに私が学習院の教師に落ちたため、あなた方から珍しがられているという証拠ではありませんか。
私はこれから、学習院を落ちてからの私について少し話そうと思います。これは今までの話の順序からというよりも、今日の講演に必要な部分だと思って聞いてください。
私は学習院を落ちましたが、モーニングコートは着ていました。着るべき洋服がそれしかなかったので仕方がありません。そのモーニングを着てどこに行ったと思いますか?当時は今とは違い、就職の道は大変楽でした。どちら方向を向いても十分な口があったように思われます。つまり、人手不足だったからでしょう。私のようなものでも、高等学校と高等師範学校からほとんど同時に声がかかりました。私は高等学校への就職を世話してくれた先輩に半分承諾を与えながら、高等師範の方にも適当な返事をしてしまったので、事態が複雑になってしまいました。もともと私が若かったために手落ちや不行届きが多く、結局自分に祟ってきたと言えば仕方がありません。弱気になってしまったのは事実です。私は高等学校の古参の教授に呼び出され、こちらに来るようなことを言いながら、他のところにも相談していたので、仲介した私が困ると言って叱責されました。私は年若く、いつも気が立つ性格なので、一度両方を断ってしまえばいいと考え、その手続きを始めました。するとある日、当時の高等学校長である、現在は京都の理科大学長をしている久原さんから、学校に来るように通知があり、出向くと、そこには高等師範学校長の嘉納治五郎さんと、私を世話した先輩がいて、相談した結果、高等師範の方に行った方がいいと忠告されました。私は承諾するしかありませんでした。しかし心の中では面倒なことになってしまったと思わざるを得ませんでした。というのも、当時の私は高等師範をそれほど重く見ていなかったのです。嘉納さんに初めて会ったときも、私にはあなたのように学生の模範となる教育者になれる資格はないと逡巡しました。しかし嘉納さんは上手に、正直に断られるとますます私に来てもらいたくなったと言って、私を離しませんでした。このようにして、未熟な私は意図せずに両方の学校を掛け持とうとしていたわけではありませんでしたが、関係者に無用な手数をかけた末、とうとう高等師範に行くことになりました。
しかし、教育者として偉くなれるような資格は最初から私には欠けていたので、私はとてもこわばり、恐れ入りました。嘉納さんも「あなたは正直過ぎて困る」と言ったくらいですから、もっと世渡り上手でいてもよかったかもしれません。しかしどうしても私には向いていない職場だと思われませんでした。率直に言えば、当時の私は肴屋が菓子屋に手伝いに行ったようなものでした。
1年後、私はついに田舎の中学校に赴任しました。それは愛媛県の松山にある中学校です。松山の中学校と聞いてあなた方は笑うかもしれませんが、おそらく私の書いた「坊っちゃん」を読んだことがあるでしょう。「坊っちゃん」の中に赤シャツという渾名の人物がいますが、あれは誰の事かと当時よく聞かれました。誰の事かというと、当時その中学に文学士は私一人でしたから、もし「坊っちゃん」の人物を実在のものと認めるならば、赤シャツはすなわち私のことになります。――それはなんとありがたい幸せだと言えるでしょう。
松山にはたった1年しかいませんでした。去る時に知事に残るように言われましたが、もう次の内約ができていたので断りました。そして次は熊本の高等学校に移りました。このように中学校から高等学校、高等学校から大学と、私は順々に教えて歩む経験をしてきましたが、ただ小学校と女学校だけは経験がありません。
熊本にはかなり長くいました。文部省から突然英国留学をすすめられたのは、熊本に行ってから何年目だったでしょうか。私はその時、留学を断ろうかと思いました。私のようなものが目的もなく外国に行っても、国のために役立つ訳がないと考えたからです。しかし文部省の意向を伝えてくれた教頭が、それは官側の判断なので、自分で評価する必要はない、とにかく行った方がいいと言うので、私も反抗する理由もないので、命令通り英国へ行きました。しかし結局何もすることがありませんでした。
それを説明するには、それまでの自分を話さなければなりません。その話が、今日の講演の一部を構成することになりますので、そのつもりで聞いてください。
私は大学で英文学を専攻しましたが、3年間勉強してもその本質が理解できませんでした。当時の教師のジクソン先生に詩や文章を読ませられ、書いた作文で冠詞の抜けや発音の間違いを指摘されましたが、試験の問題は作家の生没年や作品の書かれた順番などの知識を問うものばかりでした。若い皆さんでも、これが本当に文学なのかどうか疑問に思えるでしょう。図書館で文学の本を探しても手がかりがなく、自力で文学を究めるのは盲目の壁ごしに覗くようなものでした。
そんな曖昧な態度のまま、世に出て教師になりましたが、常に空虚感がありました。教師という職業にも興味が持てず、いつか本当にやりたいことができる機会を待っていましたが、そのチャンスは訪れませんでした。
何をすべきか分からず、霧の中の孤独な人間のように立ち竦んでいました。一筋の光を探すよりも、自分で探照灯を用いて先が見えるようにしたいと思いましたが、どの方角を見渡しても暗闇でした。嚢(袋)の中に閉じ込められたような気分で、錐(きり)さえあれば突き破れるのにと焦燥(あせり)しましたが、その錐は手に入りませんでした。このままではどうなってしまうのかと不安な日々を過ごしました。
この不安を抱えたまま、大学を卒業し熊本に転居、さらに外国に留学しましたが、外国でも状況は変わりませんでした。本を読んでも嚢から出る方法が分かりません。一人で考え、諦めかけましたが、そのとき、文学とは自分で概念を作り上げるしかないと悟りました。
例えば西洋人がこれは立派な詩だとか、言葉遣いが素晴らしいなどと言っても、それは西洋人の見方であって、私の参考にはならないが、私にもそう思えなければ、とてもそのまま受け入れるわけにはいかない。私は独立した日本人であって、決して英国人の奴隷ではないので、国民の一員としてこれくらいの見識は持っていなければならない。そして、世界に共通する正直という徳目から見ても、私は自分の意見を曲げてはならない。
しかし私は英文学を専攻する。その本場の批評家の言うことと私の考えが矛盾していては、普通は気持ちが引ける。そこでこの矛盾がどこから出るのかを考えなければならなくなる。風俗、人情、習慣、さらに遡ってみれば国民性すべてがこの矛盾の原因となっているのは間違いない。ただし、一般の学者は文学と科学を混同して、ある国民に気に入るものは必ず別の国民の賞賛を得ると誤解している。そこが間違っている。たとえこの矛盾を融和できなくても、それを説明することはできるはずだ。その説明だけでも日本の文壇に一筋の光明を投げかけられる。こう私はその時初めて悟ったのです。大変遅れた気づきで恥ずかしい限りですが、事実なので偽らずに話します。
私はそれから、文芸に対する自分の立場を固めるため、新たに構築するために、文芸とは全く縁のない本を読み始めました。一言で言えば、「自己本位」という言葉を考え、その自己本位を立証するために、科学的な研究や哲学的な思索に耽りました。今なら頭のある人にはよく分かるはずですが、当時は私が幼稚で、世間がそれほど進んでいなかったので、私のやり方はやむを得ませんでした。
私はこの「自己本位」という言葉を手に入れてから、とても強くなりました。誰かれ構わずきっぱり物を言えるようになりました。今までぼんやりしていた私に、ここに立って、この道をこう進まなければならないと示してくれたのは、まさにこの自己本位の言葉なのです。
正直に言えば、私はその言葉から新たに出発したのです。そうして今のように、ただ人に付いて行って大騒ぎするのではなく、西洋人ぶるのもいい加減にして、動かすべきでない理由を彼らの前に堂々と投げ出してみたいと思いました。そうすれば自分も気持ちよくなるだろうし、人も喜ぶだろう。著書などの手段で、それを成し遂げることを人生の仕事としよう、と考えたのです。
その時、私の不安は完全に消えました。私は軽やかな心で陰鬱な倫敦を眺めることができました。比喰えれば、私は長年の懊悩の末、ようやくくちばしを鉱脈に掘り当てたような気分だったのです。繰り返しますが、私はずっと霧の中にいたが、ある角度から、自分が進むべき道が明らかになったのです。
このように私が啓発されたのは、留学してから1年以上経過した後のことでした。そのため、外国では私の仕事を仕上げる訳にはいかず、できる限り材料を集めて、本国に帰った後でしっかりと仕上げようと思いました。つまり、外国に行った時よりも帰ってきた時の方が、偶然にも何かを得たということです。
ところが帰国するやいなや、私には食べるための仕事をしなければならない義務が待っていました。私は高等学校にも大学にも出ました。最後は金がなくて私立学校でも教えました。さらに神経衰弱にもかかりました。最後は下手な創作を雑誌に載せざるを得なくなりました。いろいろな事情で、私は構想した仕事を途中で中止してしまいました。私が書いた文学論は記念になるどころか、失敗の亡骸、いや畸形児の亡骸に過ぎません。あるいは立派に建設される前に地震で倒された未完成の都市の廃墟のようなものです。
しかしながら、その時得た「自己本位」という考え方は今も変わらず続いています。むしろ年を重ねるごとにますます強くなっています。著作による事業は失敗に終わりましたが、その時確信した「自分が主人公で、他人は脇役」という信念は、今日の私に非常な自信と安心を与えてくれました。私はそのおかげで今日も生きていけるのだと思います。実は、このように高い壇の上であなた方に講演をするのも、やはりその力のおかげかもしれません。
以上は私の経験を簡単に話しただけですが、これをお話ししたのは、あなた方の参考になればという気持ちからです。あなた方はこれから学校を出て社会に出ていく。まだ時間がかかる人もいれば、すぐ社会に出る人もいるでしょう。しかし、いずれもおそらく私が経験したような煩悩(種類は違ってもそうかもしれません)を繰り返すことになるでしょう。私のように何かを突き抜けたくてもできず、何かを掴もうとしてもすべり落ちて焦れるようになるかもしれません。もしあなた方の中にすでに自力で切り開いた道を持っている人がいれば例外ですし、他人に従ってそれで満足する人も構いません(自信を持っているなら)。しかし、そうでないのなら、どうしても自分で掘り当てるところまで進まなければなりません。「いけない」というのは、もし自分の道を掘り当てることができなかったならば、その人は一生不愉快で、いつまでも中腰になって世の中をぼんやり歩き回らなければならないからです。私がこの点を力説するのは全くそのためであって、決して私を手本にしなさいという意味ではありません。私のようなつまらない者でさえ、自分で自分の道を切り開いて進めたという自覚があれば、あなた方から見てその道がどんなに卑しくてもかまいません。それはあなた方が批評し観察することで、私には少しも損失はないのです。私自身はそれで満足するつもりです。しかし、私自身がそれで自信と安心を持っているからといって、決して同じ道があなた方の手本になると思ってはいけません。誤解してはいけません。
それはそれとして、私が経験したような煩悶があなた方の場合にもしばしば起こるに違いないと私は推測していますが、どうでしょうか。もしそうだとすれば、何かに行き当たるまで進むということは、学問をする者や教育を受ける者が、一生の仕事あるいは10年20年の仕事としても必要ではないでしょうか。「ああ、ここに私の進むべき道があった!ようやく掘り当てた!」と心の底から叫び出される時、あなた方は初めて心を安んずることができるでしょう。簡単には打ち壊されない自信が、その叫び声とともにみなぎり上がってくるはずです。すでにその境地に達している方も多数いるかもしれませんが、もし途中で霧や靄のために悩んでいる方がいるならば、どんな犠牲を払ってでも、「ああ、ここだ」と道を掘り当てるところまで行った方がよいと思います。それは必ずしも国家のためだけではありません。またあなた方のご家族のためだけでもありません。あなた自身の幸福のために、それが絶対に必要だと思うから申し上げているのです。もし私の通った道を通り過ぎた後なら仕方がありませんが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏み潰すまで進まなければなりません。ただし進んだってどう進めばいいか分からないので、何かにぶつかるところまで行くよりほかに仕方がありません。私は強いるつもりはまったくありませんが、それがあなた方の将来の幸福につながるかもしれないと思うと、黙っていられなくなります。腹の中の煮えきらない、徹底しない、ああでもありこうでもあるような海鼠のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないかと思うからです。不愉快でないとおっしゃれば、それまでです。また、そんな不愉快は通り越したとおっしゃれば、それは結構です。願わくば通り越してあることを私は祈ります。しかし私は、学校を出て30歳を過ぎるまで通り越せませんでした。その苦痛は鈍かったですが、年々感じる痛みは変わりありませんでした。ですから、もし私のような病気に罹った人がここにいれば、どうか勇猛に進んでほしいと願わずにはいられません。そこまで行けば、「ここに私の居場所があった」ということがわかり、一生の安心と自信を得ることができると思うからです。
今まで申し上げたことは、この講演の第一編に相当するものです。しかし、私はこれから第二編に移るつもりです。学習院は、社会的地位の高い人が通学する学校として一般に見なされていると思います。そしてそれが事実だとしたら、貧しい人々はここに来ず、主に上流階級の子どもたちが集まっているのだとします。それが事実だとすれば、あなたたちが社会に出た時に持つものの中で、最初に考えなければならないのは権力です。別の言葉で言うと、あなたたちは社会に出た時に、貧しい人が立場を確立するよりも、より多くの権力を行使できるということです。私が以前述べた、仕事をして進むことは、あなたたちの幸せと安心のために異なりありませんが、それがなぜ幸福と安心をもたらすのかというと、あなたたちが生まれながらに持っている個性が、そこで初めて本領を発揮するからです。そしてそこにしっかりと座って、徐々に前進すれば、その個性がさらに発展します。あなたたちの仕事と個性がうまく調和した時に、「これが私の安住の地だ」と自信を持って言えるでしょう。
このような意味で、私が先ほど述べた権力について詳しく考察してみると、権力は、自分の個性を他人の上に無理やり押し付ける道具だと言えます。はっきりと言えば、それは権力を使うための道具です。
権力に続くものは、資金力です。これも、あなたたちは貧しい人々よりも多く持っているでしょう。この資金力を同じくその意味で見ると、これは個性を拡大するために、他人に誘惑の道具として使用することができる非常に有益なものです。
したがって、権力と資金力は、貧しい人よりも、他人の上に自分の個性を押し付ける、または他人をその方向に誘引するという点で、非常に便利な道具だと言わざるを得ません。このような力があると、まるで偉そうですが、実は非常に危険です。先ほど言ったように、個性は主に学問や文芸、趣味などで自分が落ち着くべき所に到達して初めて発展するようにお話しましたが、その応用は非常に広いもので、学問や文芸に限定されません。私が知っている兄弟では、弟は家にいて本を読むことが好きで、一方で兄は釣りに夢中になっています。兄は弟が家に閉じこもっていることを非常に悪いことだと考え、釣りをしないから世の中を嫌っているのだと理解し、無理やり弟を釣りに連れ出そうとします。弟はそれを不快に感じていますが、兄が強引に釣り竿を持たせたり、魚を持って帰るように命じたりするので、渋々付き合って、不快な感じで魚を釣ります。兄の計画通りに弟の性格が変わるかというと、そうではありません。弟はますます釣り、そして兄に反抗的になります。つまり、兄には釣りが適していて、弟には全く関係がないのです。これは金力の例ではありませんが、権力が他人に圧力をかける例です。兄は自分の個性を弟に押し付け、弟に無理やり魚を釣らせています。もちろん、特定の場合、たとえば授業を受ける時や、兵役についた時、または寮での生活を軍隊のように行う時など、このような強制的な方法を避けることはできないでしょう。しかし、私が話しているのは、あなたたちが自立して社会に出た時のことなので、そのつもりで聞いてください。
前述のように、自分が良いと思うこと、好きなこと、性に合うことに出会い、その中で自分の個性を発展させていく中で、他者の区別を忘れて、他者も自分の仲間に引き込もうとする気持ちになります。その時に権力があれば、前述の兄弟のような奇妙な関係が生まれ、また資金力があればそれを振りまいて、他者を自分と同じようにしようとするでしょう。すなわち、お金を誘惑の道具として、その力で他者を自分の気に入るように変えようとするのです。どちらにしても非常な危険があります。
そこで私は常々こう考えています。まず、あなた方は自分の個性を発展できるような場所に身を置くべく、自分にぴったりと合った仕事を見つけるまで努力しなければ一生不幸だと。しかし、もし社会から自分の個性を尊重することを許されるなら、他人に対してもその個性を認め、彼らの傾向を尊重するのが当然のことになってくるでしょう。それが必要で正しいことだと私には思えます。自分は生まれつき右を向いているから、あの人が左を向いているのはおかしいというのは不合理だと思うのです。もっとも、善悪や邪正といった複雑な問題になると、少し込み入った分析が必要で何とも言えませんが、そうした問題が関係しない場合や、関係してもさほど面倒ではない場合には、自分が他人から自由を享受している限り、他人にも同程度の自由を与えて、平等に扱わなければならないと信じるしかないのです。
最近、自我や自覚といった言葉を使って、自分の好きなようにしても構わないというサインとして使っているようですが、その中にはとても怪しいものがたくさんあります。彼らは自分の自我を徹底的に尊重するようなことを言いながら、他人の自我については全く認めていないのです。少しでも公平な目を持ち、正義の観念を持っている以上、自分の幸福のために自分の個性を発展させると同時に、その自由を他人にも与えなければいけないと私は確信しています。私たちは、他人が自分の幸福のために、自分の個性を自由に発展させることを、正当な理由なしに妨げてはいけないのです。私がここで「妨害」という言葉を使うのは、あなた方の多くが将来、正しく妨害し得る立場に立つからです。あなた方の中には権力を行使できる人もいれば、金銭的な力を行使できる人も大勢いるからです。
そもそも、義務の伴わない権力など、この世に存在するはずがないのです。私がこうして高い壇上からあなた方を見下ろし、1時間なり2時間なりの間、私の言うことを静かに聞いていただく権利を保持する以上、私の方でもあなた方を静かにさせるだけの話をしなければなりません。たとえ平凡な講演をするにしても、私の態度や様子が、あなた方に礼儀を正させるだけの立派さを持っていなければならないはずです。ただ私はお客様で、あなた方は主人だから大人しくしなければならない、と言おうとすれば言えなくもないでしょうが、それは表面的な礼儀にとどまることで、精神とは何の関係もない、いわば因習のようなものですから、議論の対象にはならないのです。別の例を挙げると、あなた方は教室で時々先生に叱られることがあるでしょう。しかし、もし叱るだけの先生が世の中にいるとすれば、その先生は授業をする資格のない人です。叱る代わりに、一生懸命教えてくれるはずです。叱る権利を持つ先生は、同時に教える義務も持っているはずですから。先生は規律を正し、秩序を保つために与えられた権利を十分に使うでしょう。その代わり、その権利と切り離せない義務も果たさなければ、教師の職務を全うできないでしょう。
金銭的な力についても同じことが言えます。私の考えでは、責任を理解しない金持ちは、この世にあってはならないものなのです。その理由を簡単に説明すると、こうなります。お金というのは非常に便利なもので、何にでも自由自在に融通が利きます。例えば、今私がここで株で100万円儲けたとすると、その100万円で家を建てることもできるし、書籍を買うこともできるし、花柳界で遊ぶこともできます。つまり、どんな形にでも変えることができるのです。その中でも、人間の精神を買う手段に使えるのだから恐ろしいではありませんか。つまり、それをばらまいて人間の道徳心を買い占め、その人の魂を堕落させる道具にするのです。株で儲けたお金が、道徳的・倫理的に大きな力を持って働くとすれば、それは間違いなく不適切な使い方だと思われます。実際にそのようにお金が動いている以上、仕方がないのですが、ただお金を持っている人が相応の道徳心を持ち、それを倫理に反しないように使いこなすしかないのです。それで私は、金銭的な力には必ず責任が伴わなければならないと言いたくなります。自分は今これだけの財産を持っているが、それをこういう方面にこう使えばこういう結果になり、ああいう社会にああ使えばああいう影響があると理解するだけの見識を養うだけでなく、その見識に応じて責任を持って自分の財産を管理しなければ、世間に申し訳が立たないのです。いや、自分自身にも申し訳が立たないのです。
今までの論旨をまとめると、第一に、自己の個性の発展を遂げようと思うなら、同時に他人の個性も尊重しなければならないということ。第二に、自分の持っている権力を使おうと思うなら、それに付随する義務を心得なければならないということ。第三に、自分の金銭的な力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重く受け止めなければならないということ。つまり、この3つに帰着するのです。
これを別の言葉で言い換えると、ある程度の倫理的な修養を積んだ人でなければ、個性を発展させる価値もなく、権力を使う価値もなく、金銭的な力を使う価値もないということになります。それをもう一度言い換えると、この3つのものを自由に享受するためには、その3つの背後にあるべき人格の支配を受ける必要があるということです。もし人格のない者がむやみに個性を発展させようとすれば他人を妨害し、権力を用いようとすれば濫用に流れ、金銭的な力を使おうとすれば社会の腐敗をもたらします。かなり危険な現象を呈するに至るのです。そしてこの3つのものは、あなた方が将来最も接しやすいものだから、あなた方はどうしても人格のある立派な人間にならなければいけないと思います。
話が少し脱線しますが、ご存知の通りイギリスという国は非常に自由を尊ぶ国です。それほど自由を愛する国でありながら、またイギリスほど秩序の整った国はありません。実を言うと私はイギリスが好きではありません。嫌いではありますが、事実だから仕方なく申し上げます。あれほど自由で、そしてあれほど秩序が行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などはとうてい比べものになりません。しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛すると同時に、他人の自由を尊重するように子供の頃から社会的教育をしっかり受けているのです。だから彼らの自由の背後には必ず義務という観念が伴っています。 "England expects every man to do his duty" というネルソンの有名な言葉は、決してその場限りの意味ではありません。彼らの自由と表裏一体で発達してきた深い根底を持った思想に違いないのです。
彼らは不満があるとよくデモをします。しかし政府は決して干渉するようなことをしません。黙って放っておくのです。その代わりデモをする側もちゃんと心得ていて、むやみに政府の迷惑になるような乱暴なことはしないのです。最近、女性の権利拡張を主張する人たちがむやみに狼藉を働いているという新聞報道がありますが、あれはまあ例外です。例外にしては数が多すぎると言われればそれまでですが、どうも例外と見るしかないようです。結婚できないとか、仕事が見つからないとか、あるいは昔から培われてきた女性を尊重するという気風につけ込むのか、とにかくあれはイギリス人の普段の態度ではないようです。名画を破る、刑務所で断食してガードを困らせる、議会の議席に体を縛りつけて、わざわざ騒々しく叫び立てる。これは意外な現象ですが、ひょっとすると女性は何をしても男性が遠慮するから構わないという意味でやっているのかもしれません。しかし、どんな理由にしても異常だと感じます。一般的なイギリス人気質というのは、今お話ししたように、義務の観念を離れない程度において自由を愛しているようです。
私は別にイギリスを手本にするという意味ではありませんが、要するに義務感を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。なぜなら、そうした勝手気ままな自由は決して社会に存在し得ないからです。たとえ存在したとしても、すぐに他から排斥され、踏みつぶされるに決まっているからです。私はあなた方が自由であることを切望しています。同時にあなた方が義務というものを理解することを願ってやみません。こういう意味において、私は個人主義者だと公言することを躊躇しないつもりです。
この個人主義という意味を誤解してはいけません。特にあなた方のような若い人に誤解を吹き込んでは私が困りますから、その点はよくご注意ください。時間が迫っているのでできるだけ簡単に説明しますが、個人の自由は先ほどお話しした個性の発展上、非常に必要なものであり、その個性の発展があなた方の幸福に大きな影響を及ぼすのだから、どうしても他に影響のない限り、私は左を向き、あなたは右を向いても構わないくらいの自由は、自分でも持ち、他人にも与えなければならないと考えられます。それがまさに私の言う個人主義なのです。金銭的な力や権力の点でもそうで、あいつは気に入らないから潰してしまえとか、気に食わない奴だからやっつけてしまえとか、悪いことをしていないのに、ただそれらを乱用したらどうでしょう。人間の個性はそれで完全に破壊されると同時に、人間の不幸もそこから生まれるに違いありません。例えば、私が何も問題を起こしていないのに、単に政府の気に入らないからという理由で、警視総監が警官に私の家を取り囲ませたらどうでしょう。警視総監にそれだけの権力はあるかもしれませんが、道徳はそのような権力の使用を彼に許さないのです。あるいは三井や岩崎といった大企業が、私を嫌うというだけの理由で、私の家の使用人を買収して、あらゆる面で私に反抗させたら、これまたどうでしょう。もし彼らの金銭的な力の背後に人格というものが少しでもあるなら、彼らは決してそんな無法なことをする気にはなれないはずです。
こうした弊害はみな道義上の個人主義を理解できないから起こるので、自分だけを、権力や金銭的な力で、一般に推し広めようとする身勝手さに他なりません。だから個人主義、私がここで述べる個人主義というのは、決して一般の人が考えているように国家に危険をもたらすものでも何でもなく、他の存在を尊重すると同時に自分の存在を尊重するというのが私の解釈なのですから、立派な主義だと私は考えているのです。
もっとわかりやすく言えば、党派心がなくて理非がある主義なのです。グループを結成し、団体を作って、権力や金銭的な力のために盲目的に行動しないということなのです。だからその裏面には人に知られない寂しさも潜んでいるのです。すでに党派ではない以上、自分は自分の行くべき道を勝手に行くだけで、そしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが寂しいのです。私がかつて朝日新聞の文芸欄を担当していた頃、誰だったか、三宅雪嶺さんの悪口を書いたことがありました。もちろん人身攻撃ではなく、ただ批評に過ぎないのです。しかもそれがたった二、三行だったのです。掲載されたのはいつ頃でしたか、私は担当者だったけれども病気をしたから、あるいはその病気中かもしれず、または病気中ではなくて、私が掲載してよいと判断したのかもしれません。とにかくその批評が朝日の文芸欄に載ったのです。すると「日本及び日本人」の連中が怒りました。私のところへ直接には掛け合わなかったけれども、当時私の助手をしていた男に取り消しを申し込んできました。それが本人からではないのです。雪嶺さんの子分――子分というと何だかギャンブラーみたいでおかしいが、――まあ仲間といったようなものでしょう、どうしても取り消せというのです。それが事実の問題ならもっともですけれども、批評なんだから仕方がないじゃありませんか。私の方ではこちらの自由だというよりほかに方法はないのです。しかもそうした取り消しを申し込んだ「日本及び日本人」の一部では毎号私の悪口を書いている人がいるのだからなおのこと人を驚かせるのです。私は直接話し合いはしませんでしたけれども、その話を間接的に聞いた時、変な気持ちがしました。というのは、私の方は個人主義でやっているのに対して、向こうは党派主義で活動しているらしく思われたからです。当時私は私の作品を悪く評したものさえ、自分が担当している文芸欄に載せたくらいですから、彼らのいわゆる仲間なるものが、一度に雪嶺さんに対する評語が気に入らないと言って怒ったのを、驚きもしたし、また変にも感じました。失礼ながら時代遅れだとも思いました。封建時代の人間の集団のようにも考えました。しかしそう考えた私はついに一種の寂しさを脱却することができなかったのです。私は意見の相違はどんなに親しい間柄でもどうすることもできないと思っていましたから、私の家に出入りする若い人たちにアドバイスはしても、その人々の意見の表明を抑圧するようなことは、他に重大な理由のない限り、決してやったことがないのです。私は他人の存在をそれほどに認めている、すなわち他にそれだけの自由を与えているのです。だから向こうの気が進まないのに、いくら私が侮辱を感じるようなことがあっても、決して助けを頼めないのです。そこが個人主義の寂しさです。個人主義は人を目標として賛成か反対かを決める前に、まず理非を明らかにして、去就を定めるのだから、ある場合にはたった一人ぼっちになって、寂しい気持ちになるのです。それは当然です。雑木でも束になっていれば心強いですから。
それからもう一つ誤解を防ぐために一言しておきたいのですが、何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように受け取られますが、そんな道理の通らない漠然としたものではないのです。そもそも何々主義ということは私のあまり好まないところで、人間がそう一つの主義に片付けられるものではないとは思いますが、説明のためですから、ここではやむを得ず、主義という言葉の下にいろいろなことを申し上げます。ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないように言いふらし、またそう考えています。しかも個人主義なるものを踏みにじらなければ国家が滅びるようなことを唱える者も少なくはありません。けれどもそんなばかげたはずは決してあり得ないのです。事実、私たちは国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのです。
個人の幸福の基礎となるべき個人主義は、個人の自由がその内容になっているのは間違いありませんが、各人が享受するその自由というものは、国家の安全に応じて、寒暖計のように上下するのです。これは理論というよりもむしろ事実から導き出される理論と言った方がいいかもしれません。つまり、自然の状態がそうなってくるのです。国家が危険になれば個人の自由が狭められ、国家が平和な時には個人の自由が膨らんでくる、それが当然のことです。少しでも人格のある人なら、それを踏み外して、国家が滅びるか滅びないかという状況で、勘違いをしてただむやみに個性の発展ばかりを目指している人はいないはずです。私の言う個人主義の中には、火事が終わっても火事頭巾がまだ必要だと言って、用もないのに窮屈な思いをする人への忠告も含まれていると考えてください。また例になりますが、昔、私が高等学校にいた頃、ある会を創設したことがありました。その名前も主旨も詳しいことは忘れてしまいましたが、とにかくそれは国家主義を掲げた騒々しい会でした。もちろん悪い会ではありません。当時の校長の木下広次さんなどは大いに支援していたようでした。その会員はみんな胸にメダルを下げていました。私はメダルだけは免除してもらいましたが、それでも会員にはされたのです。もちろん発起人ではないので、かなり異論もあったのですが、まあ入っても差し支えないだろうという主旨で入会しました。ところがその発会式が広い講堂で行われた時に、何かのきっかけでしたろう、一人の会員が壇上に立って演説めいたことをやりました。しかし会員ではあったけれども私の意見にはかなり反対するところもあったので、私はその前からずいぶんその会の主旨を攻撃していたように記憶しています。しかるにいよいよ発会式となって、今申した男の演説を聞いてみると、全く私の説への反論に過ぎないのです。故意なのか偶然なのかわかりませんが、私はそれに対して答弁の必要が出てきました。私はやむを得ず、その人の後から演壇に上りました。当時の私の態度や振る舞いははなはだ見苦しいものだったと思いますが、それでも簡潔に言うべきことだけは言って退きました。ではその時何と言ったかとお尋ねになるかもしれませんが、それは非常に簡単なのです。私はこう言いました。――国家は大切かもしれないが、そう朝から晩まで国家国家と言って、まるで国家に取りつかれたようなふりをするのは、とてもじゃないが私たちにはできない。常に国家のことばかりを考えていなければならないという人はいるかもしれないが、そう途切れなく一つのことを考えている人は実際にはありえない。豆腐屋が豆腐を売り歩くのは、決して国家のために売り歩くのではない。根本的な目的は自分の衣食の資を得るためである。しかし本人がどうあろうとも、その結果は社会に必要なものを供給するという点で、間接的に国家の利益になっているかもしれない。これと同じことで、今日の昼に私はご飯を3杯食べ、晩にはそれを4杯に増やしたというのも、必ずしも国家のために増減したのではない。正直に言えば、胃の調子で決めたのである。しかしこれらも間接の更に間接と言えば、国に影響しないとは限らない。いや、見方によっては世界の大勢にいくらか関係していないとも限らない。しかしながら肝心の本人がそんなことを考えて、国家のためにご飯を食べさせられたり、国家のために顔を洗わされたり、また国家のためにトイレに行かされたりしては大変である。国家主義を奨励するのはいくらしても構わないが、実際にはできないことをあたかも国家のためにするかのように装うのは偽りである。――私の答弁はざっとこんなものでした。
そもそも国家というものが危なくなれば、誰だって国家の安否を考えないものは一人もいません。国が強く、戦争の心配が少なく、そして他国から侵略される恐れがないほど、国家的な意識は少なくなって当然で、そのすき間を埋めるために個人主義が入ってくるのは道理にかなったことと言うしかないのです。今の日本はそれほど安泰ではないでしょう。貧しい上に、国土が狭い。したがって、いつどんなことが起こるかもわかりません。そういう意味から見て、私たちは国家のことを考えていなければならないのです。けれども、その日本が今すぐ崩壊するとか、滅亡の危機に瀕するとかいう状況ではない以上、そこまで国家国家と騒ぎ立てる必要はないはずです。火事が起きていないのに、火事装束を着て窮屈な思いをしながら、町中を駆け回るようなものです。要するに、こういうことは実際には程度の問題で、いざ戦争が起きた時とか、存亡の危機に直面した時などになれば、考えられる頭脳の持ち主、――考えざるを得ない人格の修養を積んだ人は、自然とそちらに向かっていくので、個人の自由を束縛し、個人の活動を制限しても、国家のために尽くすようになるのは、天性のことと言っていいくらいです。だからこの二つの主義はいつも矛盾し、いつも殺し合うなどというような厄介なものではまったくないと私は信じているのです。この点についてももっと詳しく申し上げたいのですが、時間がないのでこのあたりで切り上げておきます。ただもう一つ注意しておきたいのは、国家的道徳というものは、個人的道徳に比べるとずっと低いレベルのものに見えることです。そもそも国と国とは、外交辞令はいくら華美でも、道徳心はそれほどありません。詐欺をやる、ごまかしをやる、だまし討ちをする、めちゃくちゃなものです。だから国家を基準とする以上、国家を一つの集団と見る以上、かなり低級な道徳に甘んじて平然としていなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それがとても高尚になってくるのですから注意しなければなりません。だから国家が平穏な時には、道徳心の高い個人主義により重きを置く方が、私にはどうしても当然のように思われます。その辺は時間がないので、今日はそれ以上申し上げることはできません。
私はせっかくのご招待ですから今日参上して、できる限り個人の生涯を送るべきあなた方に個人主義の必要性を説きました。これはあなた方が社会に出られた後、多少なりともご参考になるだろうと思うからです。果たして私の言うことが、あなた方に伝わったかどうか、私にはわかりませんが、もし私の意味がわかりにくいところがあるとすれば、それは私の言い方が不十分か、あるいは悪いのだろうと思います。そこで、私の言うところに、もしあいまいな点があるなら、適当に判断せずに、私の家までおいでください。できる限りはいつでも説明するつもりですから。またそんな手間をかけなくても、私の本意が十分にご理解いただけたなら、私の満足はこれに勝るものはありません。あまり時間が長くなりますから、これでご失礼します。
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