「透明人間」の生まれる理由(漫画『ヤンキー君と白杖ガール』のすすめ)
ここ数年、機会がある度に人に薦めている漫画がある。うおやまさんの『ヤンキー君と白杖ガール』だ。絵柄はとてもかわいらしいが、内容は「普通」「社会」「仕事」「生き方」など、いつも深く考えさせられる。タイトルにある通り、ヤンキーの男の子が主人公で、白杖を使う弱視の女の子(ユキコ)がヒロインなのだが、登場人物一人一人にスポットが当てられ、みんなが主役であるような作品だ。
最新話「透明」は全盲の男の子がホームから落ちそうになる話なのだが、どちらかといえばそれを目撃した健常者の女性の話だ。(以下ネタバレ)
女性は、落ち込むことがあり駅のホームに座り込んでいた。ホームにはたくさんの人がいるが、誰も自分を気にも留めない。"まるで透明人間のようだ"、"このまま消えてしまってもいいか"と思っていたとき、白杖をつく音を耳にする。知人(ユキコ)を思い出し、顔を上げると、線路に向かって歩いていく白杖の男の子が目に入った。彼はどんどん線路へと向かっているのに、周りは誰も気づかない。女性はなりふり構わずに行動し、なんとか男の子が助かったところで気づく。
"自分はこの子を透明人間にしてしまうところだった"と。
私たちは日々、忙しなく生きていて、基本的に自分のことだけで精一杯だ。自分に直接関係があるのはこの社会の中のほんの一握りだけ。透明人間なのは自分だけではない。自分も日々、周囲の人たちを透明人間にして生きているのだ。
鷲田清一さんの「近代の都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく、そういう過程でもあるのだ。」(『感覚の幽い風景』)という言葉を思い出した。「社会」というものを私たちがはっきりと認識するのは難しい。今まで、それはあまりに大きすぎるからだと思っていた。だが、それだけではなかった。無関心だからだ。
さまざまな縛りから解き放たれ、「個人」になって、知人以外の他者を背景のように見るようになってしまったからだ。確かに、私たちはニュースで見る知らない他者の死を嘆くほどの余裕はないかもしれない。しかし、自分の目の前で救えたかもしれない命が消えていくのを見て、平気でいられるだろうか?透明人間でも、背景でもなく、同じ人間であることに気づくのは失ってからでいいのだろうか?
作中の彼女は、たまたまユキコと知り合ったから、白杖の音に気づき、男の子を死なせずに済んだ。残念ながら、なかなかそのような貴重な出会いをする機会は多くない。だが、私はこの漫画を通してユキコをはじめとするたくさんの人に出会った。あとは自分の心がけ次第で透明人間を減らすことができるかもしれない。
『ヤンキー君と白杖ガール』は今、アニメ化してほしい作品にノミネートしている。先日、最新話を作中の彼女と共に泣きながら読み終えて、アニメ化してほしい作品に投票をした。個人的には、大体においてアニメより原作派なのだけど、多くの人にユキコたちと出会ってほしいから。この作品を読む人が増えれば、社会は誰にとってももう少しやさしいものになるはずだ。
第4回 アニメ化してほしいマンガランキング
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『ヤンキー君と白杖ガール』
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