これは黒魔術の一部だ 7月上旬 

最近は真昼に通勤することが多いのだが、暑気に直撃して汗だくの到着。
休日は一転、窓も開けずに冷房を掛けている。しかしそれはそれで体がだるい。換気のないせいか陽に当たらないせいかは分からない。原因不明の夏バテがじわじわと忍び寄っているかもしれない。


デザインとしてのタトゥー

 タトゥーの画質について考えている。写真のように写実的なデザインもあるが、人間の身体のシンプルさと対比になってしまうのではないかと危惧している。真っ白な肌にデザインを乗せるとき、そのデザインが主題になるのであればもちろん狙い通りだろう。しかし私はタトゥーをあくまでもトッピングだと考えている。主役である身体をより美しく見せるための幾何学的な意味が大きい。そうなると、ワンポイントやはがき大の高解像度デザインは趣旨と異なってくるだろう。
 もちろんワンポイントがすべて嫌だというわけではない。それらの配置まで含めてデザインしているのであれば美しい。描きたいモチーフが複数あるとき、それらを連結して描くという高難易度の方法もあるが、絵柄を統一したワンポイントをレイアウトするのは比較的容易だろう。
 タトゥーデザインをレイアウトを含めて考えたい。レイアウトというのは全体を俯瞰できてこその概念だ。つまり紙に向かって一枚絵を描く前に、自分の体を正確に再現した3Dモデルを利用した配置を考える必要がある。そこでblenderを使用してモデルを作成し、テクスチャ貼り付けでデザインを考えようと画策中だ。さっそく素材となる写真を撮ってみたのだが、足が短すぎてショックを受けたため作業が捗らない。こうなったらタトゥーによって足長効果を狙うしかない。

駅前留学(駅徒歩40分 家賃4万円)

 今月からは資格勉強もないので英語を勉強してみたいと考えている。就活とか試験とかの間接的な必要性でなく、仕事で英語話者とコミュニケーションをとることが多いのがモチベーションだ。一番ネックなのはリスニングだが、それはさておき面白そうな文法をやりたい。一応中学生から英語の課程はあったのだが、すこぶる劣等生だった私は本当に何も知らない。冠詞や三単現のsも怪しい。というか意味が分からない。日本語で使っていないルールを導入しないでほしい。
 とにかく苦手意識があった英語だが、英語教育から離れてみると逆に根拠のない自信が湧いてきた。今勉強すればすんなり身に付けられるのではないか?当時はほかにも勉強するべき科目とか興味のある事柄が山ほどあったので熱心に英語と対峙することがなかった。しかし今であれば集中して英語を勉強できるし、何より重要なのは日本語の理解が深くなっているということ。母国語の造詣が深くないのに、外国語が納得できるわけがない。幼児ならわからないが、大人になってからの学習では確実にそうだろう。
 とはいえ、新しい言語を習得するときにあらわれる納得のできなさは脅威だ。そこで堀田隆一”英語史で解きほぐす英語の誤解”という本をサブウェポンとして用意した。英語史というメタ的な学問をオアシスとすることで、広漠とした英語の世界で遭難するのを避けたい。

三体2 黒暗森林 下 劉慈欣

 春からずっと読んでいる三体、その2巻にあたる黒暗森林を読み終わった。滅茶苦茶に面白い。2は上から面白いと思っていたのだが、下で確信に変わった。展開が激しい!でも無理は感じない。最高のバランスでSFの世界に没入できる。終盤の心理戦は興奮した。あとがきを見ると、やはり黒暗森林の評価は三部作で最高らしい。ここまで読んでほしい。というか勝手に現代SFだとおもってたけど黒暗森林が出た時点で2008年らしい。16年前でここまで現代っぽい描き方ができるのか、感嘆。というか時代の話をしだしたら、この作品はあまりにもハイレベルな想像力の上に建設されている。マジ尊敬。

ハズビンホテルへようこそ ヴィヴィアン・メドラーノ

 もともと名前だけは知っていたが、見る機会がなかったカートゥーンアニメ。2019年公開らしい。アマプラで見れた。めっちゃ可愛いアニメーションと大人向けのインモラルな雰囲気、キャッチーで没入しやすいストーリーを両立していてかなり良かった。個人的にはエンジェルダストの魅力にメロメロだった。本人が契約で縛られていて自由がないのは悲しいが、アダルトな職業にプライドをもっているのはカッコイイ!クラブに行きたくなるアニメだった。

思考の整理学 外山滋比古

 外山滋比古先生の本では、先月に乱読のセレンディピティを読んだがこちらの方が有名かと思われる。東大生協で一番売れた!みたいな帯で平積みされていたらしい。というか発行年をみると思考の整理学は1983年、セレンディピティは2014年だった。内容はかなり重複していたが、晩年になって書いたセレンディピティは早起きと散歩がいかに重要かを滔々と述べていた。このひとがおじいちゃんになっただけかと思っていたが、先生は1923年生まれらしい。つまり思考の整理学発行の83年時点で60歳!学者の形容に知の巨人というワードがあるが、こりゃ確かに巨人かも。セレンディピティと内容が重複するといったが、徒然なる章立ても似ている。ただ、出版社の違いか時代の違いか、セレンディピティのほうが比較的読みやすい。
 どちらも主題としてはインプット・アウトプット・忘却・ひらめきを扱っていることは同じだ。しかし30年間で科学技術の発展がうかがえて面白い。思考の整理学にも、現代(80年代)と過去の対比が現れるのだが、そこで現代のモノとして登場するのが、コンピュータとテレビなのだ。それが処理・記憶装置としてのコンピュータvs人間、勉強方法としてのテレビvs本といった文脈で登場する。ここでのコンピュータとは専ら記憶能力に優れた計算機であり、AIなどという単語は当然ながら登場しない。先生は人間の記憶能力がコンピュータに圧倒されていることに警鐘を鳴らすのだが、もう数十年でコンピュータが思考しだすという展開は予想だにしていない。
 どちらも随筆チックな章立てであること、自らの生活に根差した知恵であることでリアルな体温を保っている。先生の2作品は濃厚な私小説と同じ読了感であった。



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