良い音でレコードを作るために
マスタリングエンジニアとしてSaidera Mastering、レコードのカッティングエンジニアとしてWolfpack Mastercut Studiosに所属するタグチと申します。
この記事は「良い音でレコードを作るためのマスタリング」についての解説です。残念ながらどんな音源もレコードにすれば「なんか良い感じの音」になるというわけではありません。デジタルのマスタリングとは別の脳ミソが必要で、レコードにとって不適切な音源の場合、本来の音楽性が失われ、待っているのは妥協と劣化になりかねません。
レコードはカッティングという音楽をレコードの溝に落とし込む作業で音質が概ね決まります。カッティングされたマスター盤をもとに型を作って生産(プレス)するのですが、カッティングは工場のスタジオか、独立系のスタジオで行われ、後者の場合はマスター盤を案件ごとに別々の工場に送り、その後レコードのプレスが進みます。
新譜を買ったけど音質がイマイチ…という気持ちにもうなりたくない!という事で、"今の音楽"を良い音でレコードにするために必要なマスタリングについて、カッティングエンジニアとしての知見も交えて説明させてください。
(レコードのマスタリングやカッティング、その他レコードの製造に関するアドバイスなど何でもお気軽にご相談ください。力になれると思います。)
・良い音とは?レコードの音の方向性
そもそもレコード制作における"良い音"とは、方向性はざっくり「レコードというフォーマットを活かした音」と「配信用マスタリングのバランスを忠実にレコードで再現」の2つに分けられる(2024年現在)と思います。
なぜそうなるかは各項目で説明するレコードの仕組みから読み取っていただけると嬉しいです。この記事は基本的に前者についての内容なので、後者については目次よりDMMカッティングの項目に飛んでください。
・ボリュームや低音は希望通りに入るわけではない
届いたレコードの仕上がりに不満がある人のほとんどが「収録ボリュームが小さく迫力のない音でもう少しどうにかならないのか?」という理由です。
収録ボリュームの低下の理由として、まず溝ピッチと収録時間の制約があります。無音の溝は真っ直ぐカットされますが、低音(≒ボリューム)の量が増えるほど溝は左右に大きく蛇行し1本の溝が占める範囲が広くなるのです。
レコードはサイズごとに溝をカット出来る範囲が決まっている(12inch > 10inch > 7inch)ため、収録時間がそれぞれのサイズの推奨される収録時間より長い場合は、ボリュームや低音の量を抑えなければ物理的に範囲内に収められません!
わかりやすく説明するために例を挙げると、様々な音楽ジャンルの中で最も低音の量が求められるのはダブステップですが、ジャンルを代表するレーベルdmzのレコードは、12inchで45 rpm、片面5分程度(!!)と短いです。ラウドなボリュームと低音が求められる音楽は1本の溝が占める範囲も広くなるので、収録可能な時間は短くなるというわけです。
カッティングシュミレーションのプラグインTDR SimuLathe REFの左下のメーターのWidthでは、「帯域ごとに溝ピッチを消費する量」を見ることが出来ます。超低域は溝幅を過剰に消費するのでハイパスフィルター(HPF)が重要になります。
HPFは必要に応じてカッティングスタジオで行われますが、データ時点でコントロールすることでより理想的な音質を目指せます!※DCオフセットの除去も重要です。
加えて、急な低域のボリュームの変化は溝同士の衝突を招きます。カッティングの工程では「カットする音源と同じ音源を先送りすることで溝同士がぶつからないように自動制御するシステム」を使用するのですが、機種ごとの精度の差もあり、Lock-aheadみたいに調整は出来ないので、事前にケアが必要になります。
問題箇所のせいでカッティング時にボリュームや低音を下げざるをえないという事にならないで済むように、「事前に処理しておく」ことがとても重要です。特に立ち上がりの早いパーカッシブな音には要注意!ですが、抑えに早いコンプを使用するのであれば歪みに十分気をつけてください。※歪みはレコードの敵
低音をレコードでいかに綺麗に表現するか。ジャンルによって考え方は異なりますが、共通するのは、位相を整え、濁りを取り除き、超低域に依存しないクリアで伸びの良いパワフルなバランス!というのが自分の考え方です。
O.B.F & Mr. Williamz - Mandelaは「超」ベースが伸びるレコードです。7inchでもレゲエならこれくらい綺麗にベースを自分は出したいですね。これは2000年代に作られたレコードとして自慢出来ます!
・ボリュームとS/N比
よく誤解されているのですが、ブリックウォールリミッターで音圧を上げれば大きいボリュームのレコードに仕上げられる(むしろ逆!!)訳ではありません。カッティングのボリュームはアナログ信号(dBu or dBV)で最終的に決定するので、デジタルフルスケール上で音量を稼いでも意味が無いのです。
適切にマスタリングされていれば、歪みの手前までスムーズにボリュームをあげてカッティングする事ができます。ラウドネスノーマライゼーションありきのマスタリングの考え方にも近いですが、必要以上にピークを潰して平坦な音にする必要はありません。
まるで演奏者が目の前にいるような、音が飛び出てくるような、レコードで表現可能な立体感をせっかくなら目指すべきです!(ドラムマシンやシンセでも同様)
自分は配信用マスタリングのエンジニアでもあるのでブリックウォールリミッターを使用しつつ立体感のある音作りを積極的に目指す事に全く否定的ではありません。
しかし、過度に圧縮された音源はレコードにとって不適切な周波数特性になりがちで、低域と高域が大きすぎるためEQで調整(妥協的な意味)を行わざるをえなくなります。レコードの溝が許容出来る低域と高域の量はデジタルより少なく、歪みの原因にもなります。
完全に余談ですがMAGIXのYoutubeチャンネルでマスタリングプロセスが紹介されていた、Kendrick LamarやLil Durkらも手掛けるエンジニアのNicolas de Porcelによる(硬いけど)立体的な(配信用の)マスタリング。勿論ブリックウォールリミッターが使われているはずです!
話を戻しますが、ダイナミックレンジが広ければ広いほど良いわけでもありません。レコードはS/N比(信号/ノイズ比)が悪いです。カッティングボリュームが低ければより悪くなります。そのため、音の輪郭を太くする事、小さな音を持ち上げる事も重要です。ピークを殺さずに目的を達成するためにパラレルコンプレッションやアップワードコンプレッサーは有効な手段です。
・低域のステレオイメージの制約
低域の広いステレオイメージ(逆相成分)は放置すると不良品として回収対象になってしまいます。逆相成分は溝を浅く(細く)する作用があり、一定の基準を超えると針跳びの原因となりレコードとしてNGになってしまうのです(泣)
低域の量や溝幅によってNGの基準は異なるのでカッティングエンジニア以外にOKラインを判断するのが難しいですが、イメージャーで広げられた音源はそのままカットすることが出来ない可能性が高いです。一つの基準として、iZotope Ozone Imagerで300Hzぐらいでフィルターをかけて逆相成分を監視してみてください。
BjörkやSlowdiveの作品も手掛けるHeba Kadryは独立系エンジニアとしてカッティングマシンを所有する珍しい存在ですが、彼女がマスタリングとカッティングを手掛けたDARKSIDE - Spiralは、レコードというフォーマットの中で現代的な音作りで広いステレオ感を維持したとても音楽的な仕上がりです。
ちなみにBrainworxのMono Makerや、Eliptical Filterなど低域を狭める道具を使えば簡単に対策出来てしまいますが、副作用が強く、なおかつ過剰に狭めてしまう傾向があるため、なるべく2mixに使用するのは避けるべきです。
レコードは表現出来る低域のステレオイメージがデジタルと比べると狭いので、センター定位を調整して明瞭度を適切にコントロールすることが大事だと自分は考えます。
・内周にいくほど高域が落ちていく
レコードには高域が内周に向かうほど減衰していく宿命があります。なだらかに高域が減衰していき、例えばプレスされたレコードの14kHzは4.75 inchの位置で-7,8 dBも落ちています。
(詳しい解説:Handbook of Recording Engineeringに載っているDiameter losses in disc recordingの図では、縦軸がRelative Loss (dB)、横軸がRecording Diameter (inch)で、7kHz、10kHz、14kHzを基準にそれぞれがラッカーのカット時点、スタンパー作成時点、プレスされた時点で何dB減衰しているかがグラフになっています。)
そのため、外周に派手な曲、内周にバラードを収録するのは良い音で収録するために古くからあるテクニックです。
極端な例ですがRhythm & Soundのレコードには外周の数cmのみでカットされたシングルがあります。ベルリンのスタジオDubplates & Masteringでカットされたと思われますが、周波数特性を優先した結果です。(どのタイトルかは忘れましたがBurial Mixシリーズのどれか)
収録出来る周波数帯域より外のノイズで天井を感じさせないふわっとした仕上がりになるのがレコードの良いところですが、レコードは15kHz程度がフラットに収録出来る上限であり、更にそこから内周に向かって高域が落ちていくので、エアーに依存しなくても上に伸びるレンジ感で仕上げるべきです。
高域の減衰はレコードが温かい音と言われる要因でもありますが、不適切なマスターでは単純にこもった音になってしまいます。
ジャズ・ベーシスト鈴木勲夫のアルバム「Hip Dancin'」より。A1で外周に位置する曲。伸び良い広い天井。良い音は音質の事を考えさせません。
・シビランスのケア
シビランスはカッティングする機械の故障の原因になると同時に、レコードの歪みの原因になるなので必ず調整しなければいけません。
収録ボリュームによってアウトとなる基準は変わりますが、リミッターで圧縮されていない限りは、ベーシックな処理方法、例えばDeEsserやDynamic EQなどで、音楽性に合わせて普通にケアすれば良いでしょう。
レコードはカートリッジなど再生機器によって歪みが付加されますから、マスタリングの段階で必要以上にサチュレーションが加えられていたり、ノイズが含まれていると、再生時にディストーションとして目立ってしまう可能性が高いです。
最悪、元のデータに含まれている歪みを悪化させないようにカッティングレベルを下げざるをえなくなります…ゲインステージングに注意し、ディストーションやノイズの蓄積に気をつけてマスタリングするべきなのです!
※動画のSibilanceとDigital Limitingの項目で詳しく解説されています。
・DMMカッティングという選択肢
配信用マスタリングのバランスを忠実にレコードで再現したい場合にDMM(Direct Metal Mastering)カッティングは最適な選択肢の一つです。銅盤に直接溝を専用のカッターヘッドで刻むことで、ラッカーに比べてラウドにカットしにくいという特徴はあるものの、高域特性に優れ、ノイズの低減、収録時間の増加などのメリットがあります。
個人的な印象はまるでCDのようなクリア音質!です。低域と高域の許容上限はレコードなので勿論ありますが、S/N比に優れるので、ボリュームを下げてカットし元のバランスを維持するならDMMが有利です。無理にレコードのために調整しなくてもレベルを下げてカッティングして再生機器のボリュームを上げれば良いのであればこっちがオススメ。
国内にDMMに対応したスタジオは無いので音をチェックした上でカッティングを進めることは出来ませんが、Gz Mediaでは独自の解析ソフトを使用して効率的なアプローチで元のバランスを維持してカットします。
エンジニアの方にDMMカッティングが好きな人が多い印象ですが、元のオーディオデータのバランスが維持されやすいからでしょう。勿論レコード用に正しくマスタリングされている場合にもDMMという選択肢はありです!