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『音楽が消えた街』アルバムレビュー ――雨上がりの空にしか虹はかからない


いくら自然科学が発達して、人間の詩について論理的な説明ができるようになったとしても、私の死、私の親しい人の死、については何の解決にもならない。「なぜ死んだのか」と問われ、「出血多量です」と答えても無意味なのである。その恐怖や悲しみを受け入れるために、物語が必要になってくる。死に続く生、無の中の有を思い描くこと、つまり物語ることによってようやく、死の存在を折り合いをつけられる。(中略)
物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことに他ならない。

小川洋子・河井隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』

普通の人にとっては、どうというこのない瞬間、何気ない言葉のやりとりが、どうしても気になって仕方ない、そういった偏屈な人間が劇作家になる。そして、その瞬間、その言葉に、徹底的にこだわることによって、普通の人々も潜在意識の中ではさまざまなも妄想や、悩みや喜びを抱えながら生きているのだということを明らかにしていく。劇作家というのは、そのような仕事だと私は考えている。
演劇とは、「自分の妄想を他者に伝える」技術である。

平田オリザ『演劇入門』


はじめに ーーこのアルバムを語るにあたって


『音楽が消えた街』は2024年、にじさんじ所属のライバー達により作られたストーリーアルバムである。

このnoteを語るにあたって、一つことわりを入れておきたい。
それはこのnoteでは、「各曲のキャラクターが何をその場で考えていたか」「曲」にフォーカスを当て、謎解きのように本当はこのアルバムの物語で何が起こっているかを事実を当てようとはあまりしない、ということだ。

このnoteを作る前に、各動画を見返していたのだが、そこにはにじさんじのファンの方が詳細に動画やキャラクターの考察を行っていた。それを読んでいて、このnoteを書く意味があるかを考え直していた。理由は3つある。
一つ目は当然、ここまで詳細にファンの人が事実関係を検討しているのなら、わざわざそれを私がnoteに書くことが意味があるのかよくわからなかったことだ。

二つ目は、それこそエヴァンゲリオンやSound Horizonのアルバムを聴いたり見たりされている方ならお分かりいただけるだろうが、このアルバムは回収されない伏線や意味ありげだが意味のない描写であふれている。
例えば、『空に描いた幸福論』ではそれまで中世の時代かな・・・?と思わせるようなアマデウスの恰好とは異なり、ヘッドホンやMP3など、時代のずれたものが現れる。時代設定もハチャメチャで、果たしてここで起こっているものを現実扱いしていいのかわからない。

真面目な探偵ものとして読むとき、このアルバムの曲は全キャラクター
『信頼できない語り手』状態なのだ。

当然信頼できない・答えがないから悪いわけではない。このアルバムは、
聞いた人がそれぞれ自分が気に入った部分を紐づけて自分の物語を作るようにできている。あるいは、このアルバムで歌唱(ほぼ演技)をする役者の人が演技しやすい自由度を上げてある。

三つ目は、このアルバムの3曲目「アテンションノート」を聞いていて、なんとなくこのアルバムを推理小説とかキャラクターが何を思っているかを重箱の底をつつくように、警察のように細かい詳細を見ていくのが、あまりいいことと個人的に思えなくなったことだ。


「アテンションノート」という曲の構造は恐ろしいものがある。
この曲の主人公であるカサノバは、公称24歳だが実際は33歳という設定がある。そしてコメント欄でも、これにびっくりした人がいっぱいコメントを書いているのを見た。
ただ、この曲を作ったVtuberの年齢を頭に入れておくと、この年齢に反応することは二重の罠にかかっていることになる。なぜならカサノバは配信者であり、Vtuberの活動の現身だからだ。そして、この曲を作った人たちもまた、Vtuberなのである。
この曲で現れているカサノバの心を刺しているのは、実は好奇心にかられてVtuber達のことを調べ尽くす僕たちなのかもしれない。あくまで物語なので、こうとも読めるという話なのは留意いただきたい。
事件の調査記録であれば事実を明確に記載するのは大事だ。
しかし、この年齢を隠していた話は明確に「カサノバの弱さ」を表している

作品を知るために、細かな事実を調べたりすることは緻密だし設定を大事にしていることではあるが、それは昔の自分を捨て、何とか自分の心の穴を埋めようとしている人をあざ笑う形に、なってしまうような空気を感じてしまった
ゴシップ好きな視聴者を共犯者にしそうな恐ろしい曲である。
(こんなことを書いているが、noteを書いている私もその罪から逃れているとは言い難い。ただし、このアルバムの結論はおそらく、ゴシップが好きだったり好きな音楽に突っ走ってしまう人間の愚かさを肯定することにあることは、よく確認しておきたい。)

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『アテンションノート』を聴いて、私のこのnoteの方針を考えた。
アルバム『音楽が消えた街』の各曲の冒頭には、タイプライターの音と共に、これらの曲が「事件」であるように綴られる。このタイプライターをたたいている人は後程明かされることにもなる。
しかし、このアルバムに出てくるキャラクターたちは、何かの事件や
神さまの運命の「被害者」や「加害者」になるために生まれたわけではない

だから、我々も警察や探偵になる必要は、必ずしもない。
あえて、わたしもこのアルバムを「探偵物語」として読ませる仕掛けに「抗って」、ここからは素直に感じたことを言葉にしてみようと思う。


物語としてわからないところは無理やり掘らなくてよい
おおざっぱでいいのだ。



夢追翔が好きと公言しているSound Horizonは、ファンたちの名前を
「ローラン」と呼ぶという。後で引用している動画中のさやわか氏によれば、この言葉はアルバム『Roman』からとられたという。
そして、物語を意味するこの言葉をファンネームにしたのは、音楽のアルバムを聴く人がそれぞれの物語を始めてほしいという願いがこもっているのではないか、とも述べていた。

物語に対する解釈は、最初は「私はこう思った」という主観から始まらざるを得ない。
でも、誰もが最初は、社会や家族の物語を再解釈することからしか、自分の物語を始めることしかできない。そしてこのアルバムのキャラクターも実は、そうした二次創作から創作を始めている。


だから、もしもこのnoteを読まれている方も、もしもこのnoteに書かれて
いる解釈が気に入らなければ、noteに自分の解釈を書いてみてほしい

思い込みでも構わない。


私はここで、ひとりの人間の主観的な妄想を書き留めて、身勝手な物語を書いてみようと思う。


アニメソング歌手として、いよいよ時代の人になったオーイシマサヨシがアニソン界に進出したのは33歳だった。
カサノバにかけるべき言葉は、年齢という変えられない運命を正しく何度も突きつけるより、ファン各個人が「自分も年齢で人を見てしまうような弱さがある」と認め、少しずつ言葉を添えて寄り添う事だったように見える。



補助線としてのロックオペラ ーー人の生死を懸けた壮大な音楽演劇


さて、とはいえ感情だけを書いていても仕方ないので、音楽史からこのnoteを書くにあたっての補助線を借りてみよう。
夢追翔が好きだと明言しているSound Horizonをはじめとして、ロックの歴史には、オペラから派生した「ロックオペラ」と呼ばれるジャンルが存在している。特に、Sound Horizon4th Album『Elysion ~楽園幻想物語組曲』は、Story CDという名前を付けており、今回の夢追翔のアルバムに直接的な影響すら感じる。

近年のロックアルバムは、「1人の人の個性を語る」あるいは「ある一人のロックンローラーの叫び」を歌うものがメインストリームと思われる。
しかし、歴史をひも解くと、the whoの『Tommy』やthe Kinksの『Arthur (Or the Decline and Fall of the British Empire(アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡)』のように、物語をそこに込め、複数人の視点から人々の生き方を浮かび上がらせるようなオペラ仕込みの作品が多く存在していた

ロックオペラの曲は、もともと大掛かりでわざとらしいところもある音楽演劇・オペラに影響をうけている。そのため、『ロミオとジュリエット』の運命に逆らうような戯曲のように、人間が乗り越えられるはずのない運命とどう対峙するのかを語る曲が多い。
Queenの『Bohemian Rhapsody』では、人を殺してしまった男が母親に助けを求める曲である。この曲の構成は

①冒頭のアカペラ
②母親に自分が人を殺してしまったことを告白し、生まれてこなければよかったと懺悔するバラード
③視点が変わり、オペラの形式で神様の視点と少年の想いが交差する部分
(ここは特に明快な解釈が難しい)
④怒りのままギターを慣らすロック部分
⑤バラードに戻り、自分の人生にとって人を殺したことすらも問題ではないと悟りを開く

という風に少年の内省が進んでいく。そして、音楽は少年が悲しみに暮れれば音楽はそれに寄り添うように、スローなバラードを奏でる。逆に「なんで僕がこんな運命にとらわれなくてはいけないのか!!」と少年が激情に身を任せると、ブライアン・メイ博士の雷が落ちたような激しいギタープレイが鳴り響く。
これは、音楽を演劇の演出のように扱う一つの方法であり、音楽が展開していくとともに、物語が進んでいき、キャラクターの感情が進んでいく。

こうしたロックオペラの曲を聴く時にポイントなのは、通常のロックの曲とは違い、複数人の視点が曲の中に入りこんでくるような現象がくり返し起こることだ。Bohemian Rapsodyであれば③の場面で、神様が少年の頭の中に語り掛けてくる現象が発生しており、この現実ではありえない現象が音楽や歌唱者の演技の力でリアリティをもって肉薄してくる。

そこでは、演劇という舞台の上で人と人の感情のぶつかり合いが起こる。
単なる筋書きでは説明しにくい、心と心のぶつかり合いが起こる。
その時、単なる善悪を超えた心のつながりが生まれる。
それに魅了され、うっかり人生を踏み外してしまった人は(このアルバムに参加したライバーにも明らかにいるのだが・・・)意外と多いだろう。


Sound Horizonの楽曲については、批評家のさやわか氏たちによる解説がYouTubeに上がっている。

大事な話:(本当に)今、音楽が奪われている街がある

このnoteを書いている途中の2024年9月22日に、世界の中で音楽が奪われている現実がNHKのニュースになっていた。アフガニスタンでは女性が歌を歌うことを禁止する条約が1カ月前に施行され、多くの人々がSNSで抗議活動を行っている。
音楽禁止令は、実際にソマリアやカンボジアなどで行われたことがある。
この文章では深くは書かないが、こうした歴史に抗議してきた人たちがいることを頭に入れると、このアルバムを聴く意味も変わってくるだろう。

Tr.01「静謐なる虚飾楽園」 - 夢追翔 feat. アマデウス(CV:夢追翔)

『静謐なる虚飾学園』は、このアルバムの物語の始まりを告げる一曲である。アマデウスと呼ばれる怪しげな男が、「音楽のない街」サイレントシティについて語りながら、《創造神》の声を伝える者――まさに神に愛されし者として伝えに来るような曲である。

全体として、ちょっとMy Chemical Romanceを思わせるような文字数の多く、展開も激しいシンフォニックロックとして作られた本曲は、実は他の曲と比べても、ボーカルの具体的な状況描写が伝わりにくい曲だ。
アマデウスの素性はむしろ他の曲で少しずつ明らかになってくる。
その意味で、この曲は幻想的で、序曲にふさわしい発破をかけるような曲である。

この記事ではアマデウスを一応二つの可能性がある存在として語る。

自分勝手に作った神様を信じている人。狂信者。
 本曲の言い方的には、自分が神だと言っているように聞こえる節もあるが、アマデウスという名前はどっちかというと神に愛された人の意味が強い。
本当に神様に愛された人。異常な世界では正しいことを言っている人が異常者扱いされるようにこの人も異常者扱いされている。

さらにファンタジーの世界なので難しいところがあるが、「神」がこの世界を造った人ならば、「音楽禁止令」という恐ろしい法律もよくよく考えると、神が定めた自然の中で発生したものだ。
ゆえに、ここから出てくる主人公たちの中には、神様に対して
①「音楽で人を殺す」なんてことをしやがってと怒る (Tr.05を参照)
②「神はなぜ音楽禁止令なんてものをなぜ作らせたのです」と悲しむ
この二つの反応がありえる。

ここであえて予定説(すべての事は神様が決めている)という、キリスト教の考えをフレーバー的に神様が取っていると仮定しよう。
この世のすべての運命を司る神様が「音楽を禁止する世界」を望んだならば、実はアマデウスがやっていることは神様に楯突くことになる。あるいは楯突くことをアマデウスも運命づけられていることになる。

さらに、若干先取りするが、アマデウスが作る曲はおそらく「破壊」を読んでしまう曲として想定されている。

ずばりキミ達に問おう!最高の音楽とはなんだろうか
人を笑わせ泣かせ、時には人の救いになるような作品は
もちろん素晴らしい音楽だと言える
しかし私はこう考える
人を死に至らしめる作品も 同様にまた
人の心を動かした素晴らしい音楽なのではないかと
音楽で人は殺せるだろうか?

「静謐なる虚飾楽園」語り

アマデウスがどういう人間かはよくわからないが、おそらくこれがアルバムを作った創造主たちの問いかけである。
ま、この実験をさせられる人間側としたら、たまったもんじゃないっすね。


夢追翔は、バーチャルシンガーソングライターの32歳。
森の中の小さなライブハウスで作曲や歌をやっている。


(余談)ドイツの静寂時間

ドイツには、Ruhezeitと呼ばれる法律があり、土曜祝日に宗教的な理由から静寂に過ごさなくていけないという法律が現在も定められている。
その意味でこのアルバムで示されている発想は意外と現実にあり得る話である。


Tr.02「空に描いた幸福論」 - 夢追翔 feat. アリア(CV:周央サンゴ)


1曲目からさらに続いて、アップテンポな2曲目は冒険に旅立つ女の子の物語である。語りがほぼ入っていないこの曲は、美しいハーモニーで耳の中を埋めそうとする曲である。
おそらく、この曲が明るいのは主人公アリアが、暗くて静かな街の静寂を吹き飛ばそうとしているのだろう。

眠りのついた街の中で人は本来「旅立つ朝」を迎えない。
大きなヘッドフォン(※)で大事に音楽を聴き続けるこの子は喧噪もすべて吹き飛ばすために、音楽を大音量で聞いているに違いない。
それはこの曲の溌剌さにもよく表れている。

しかし、アリアは音楽が禁止されてしまい、国や家族にも音楽をとられてしまう。そこで、Tr01のアマデウスの「静謐なる虚飾楽園」と思われるメールを聞き、抗えずにナイフとペンを持ってどこかに走り去ってしまう。
そしておそらく狂乱状態に入ってしまったアリアは、自死を選んだか、あるいは人を殺してしまった(PVに出てきた怪物たちは次々に躱すだけではなく、倒されていた)

この曲は、これからアルバムの中で起こる悲惨な出来事を予感させるように、まず最初に音楽だけが生きがいだった子に悲劇を与えた。
しかし、この曲でサンゴさんが演じたアリアが、「音楽と共に生きたかった」こと、そして何より音楽が大好きだったことは痛切すぎるほど伝わったように思う。


周防サンゴは、世怜音女学院中等部1年生演劇同好会のバーチャルライバー。2021年に志摩スペイン村を話題にしたところ、Twitter(当時)のトレンドワードに一気に取り上げられ、2024年には壱百満天原サロメと共にバーチャルアンバサダーに任命された。

(※)書いている途中に気づいたが、曲の中では「イヤホン」をつけている描写があるが、紹介絵の方は大きなヘッドフォンをつけている。ただ、こういうずれは指摘するだけ野暮なので、ここではヘッドフォンの方を採用している。


Tr.03「アテンションノート」 - 夢追翔 feat. カサノバ(CV:シェリン・バーガンディ)


3曲目のアテンションコードは、1~2曲目の明るさとうって変わって路地裏で不法配信ライブを行う男、カサノバの曲である。

冒頭にも長く書いたが、この曲はなかなかに恐ろしい仕掛けがされているように私には思えた。ここでは違うポイントについて書いてみよう。
正気のまま、PA(おそらくはアマデウス)が渡した、危うい楽曲を歌えるのはこの人が見ているものが客観的な数字だけだからのように思える。
この曲でカサノバが刺された理由は、ぼやかされているところの一個である。アップテンポな曲で人を扇動して、オレの事を見てくれと他人をコントロールしようとカサノバはしていた。
注目を集めた彼は、彼の音楽(アマデウスの音楽)が刺さった人たちに囲まれた。

私の個人的な考えでは、このファンの女の子たちも退屈な日常を紛らわせるために、刺激の強い音楽とイケメンを探し求めていたように見える。

もしもカサノバに罪があるとすれば「俺だけ」のために歌ったことである。
カサノバはファンの子たちにも、それぞれ心の穴があることを見なかった。
ファンを数字かお金としてしか取り扱ってなかった。
結果、カサノバは復讐のように、「人の心の穴も見なかった」子たちに刺された。そして穴だらけになってしまった。

だが、カサノバはこの曲の最後、一瞬だけ自分にも心の穴があることを告白した。個人的な予想ではこの心の穴に、事件記録を読んだシエルは気づいたのではないかと思われる。このことはのちの重要な伏線になる。


シェリン・バーガンディは、世の中の謎を追い求める名探偵。
2019年ににじさんじで活動を開始し早瀬走と健屋花那と同期のチューリップ組。シェリンにエレクトロスウィングの曲が与えられたのは、本人の好みを夢追翔が知っていたからと思われる。
(ところでこの集中線バリバリのアー写真は何・・・?)

Tr.04「最テイ裁判所」 - 夢追翔 feat. フェニミィ(CV:健屋花那)


4曲目の『最テイ裁判所』は、3曲目からさらに進んで、鬱屈とした気持ちがこもった曲である。この曲の主人公フェミニィは好きなことを考えないことの根拠に「この国では罪だから」という国家権力を据えてしまった。

この曲で、校内放送から聞こえてきた音楽を聴いたフェミニィは、衝動にかられ、「ルールに従わないもの」に対して裁きを起こすようになった。学級裁判で人々をさばき続けた彼女は愉悦に浸る。
客観的に見れば、彼女がやっていることは権威をかさに着て、周りの人をコントロールしているようにしか見えないはずである。が、ここで興味深いのはこの子がこの裁きを「革命」と思っていることだ。(ヒトラーかいな・・・)

でも、この曲のモノローグを聞けばわかるように、実はこの革命は、自分の心を抑圧してきたフェミニィが、ほかの幸せそうな人々の暮らしへの妬みを晴らすという私怨と表裏一体だった。

この子が酔ってしまっているのは、正しいことを行う快楽である。
正義の名の元に人を断罪する快楽である。


The Beatlesは、「Revolution」という曲で「世界をよりよくするのは僕も好きさ。でもその革命が破壊を意味するなら僕を巻き込まないでくれ。何事もうまくいくさ」と歌った。これはベトナム戦争や共産主義の革命に憧れる人がいる中で、逆に自由に生きてきた人やお金持ちを罰しようとする人たちをなだめる曲だった。復讐心とはそれほど恐ろしい


気になるのは「教師」「生徒」「パワハラ」と言ったいかにも現代社会な言葉が並んでいるが、ここではそれらが並列されるだけで、誰が何をしたかは具体的に示されないことだ。(というか、ある意味パワハラをしているのはフェニミィのような気すらする)
やはりTr.3のカサノバと同様に、この曲の主人公は割と周りの人のことをちゃんと見ていない。
そしてカサノバが「俺だけが…」と言ったように、フェニミィも「唯一無二の審判者」であることを宣言してしまう。

法律や医学の世界だと、人の体は記号的に/あるいはただの物質として扱わなくてはいけない時がある。しかし、実際の人間には、言葉では語り切れない時間をかけて培われた歴史があって、過ちを起こしてしまった理由がある。

そしてどんな法律であろうと、作った人は人間であり、絶対ではない。
正しく法律や規範にのっとりすぎた、正しい彼女は、その正しさに従えない、(彼女にとって)間違ったその他大勢に裁かれてしまった。
最後の一瞬に、彼女もまた自分が権力者として人々の罪をむやみに裁くという罪を重ねていたことに気づく。

こう見るとこの曲もまた、見るも無残な悲劇のように見えてくる。
しかし、カサノバの時と同様、この曲でフェニミィが犯した罪の一つは、おそらく自分の心を振り返らなかったことのようにも見える。

健屋花那は、シェリンバーガンディと同期のにじさんじ所属バーチャルライバー。嘔吐など怪しげな性癖が好き。ある大事な理由があって医療の道に入ったが、その最中に演劇の道にも目覚める。
このアルバムには、意図的に「演劇」や「声劇」を活動に入れているライバーが集められている。


(余談)人を罰すると、むしろ悪い行為を繰り返してしまう


先日、依存症についての専門書を読んでいた。このアルバムで描かれている音楽は、おそらく禁酒法における「お酒」のようにあまりに快楽が強すぎるために禁止されるものと同じように描かれている。
しかし、依存症の専門医である松本俊彦医師は、人が何かに依存するのは
快楽の為ではなく、「現実にある痛みを緩和するため」であり、特に孤独な人ほど何かに依存しやすいという
。この意見は、このアルバムと重ね合わせるとあまりに重い意味を持つ。

そして、教育学者の村中直人さんは、著書『<叱る依存>がとまらない』の中で、人の叱る行為も依存になりうることを示唆する。そして叱られた人はその場しのぎの為にいったんはその行為をやめるが、本心からなぜ悪いかわかっていないため、結局同じ行動を繰り返してしまうという。

これはある種アンチ行為や荒らしを行う人にどう対処するかという問題にもつながる。こちらの記事で語られた、にじさんじのライバーに向けて荒らし行為を繰り返した男性は、様々な生きる中での苦しみを紛らわせるために、荒らし行為を行ったことが明確に書かれている。

ライバーへの否定的な意見や信じられない行為を見た時に、反応的に
憎しみの言葉をXに書き込んでしまうことがあるだろう。
(正直言えば、私も受けたことがある)
だが、その時に、その行動が良い方向に転じることはあまりない。なぜならその否定的な意見や信じられない行為を行っている人個人の状況が全く分からないからだ。加害者に対する言葉であっても、その人が納得した言葉しか長期的な行動を変えることはできない

誹謗中傷があるときに被害者を真っ先に守るための行動が行われるべきだ。
しかし、憎しみを憎しみで返したり、ファンの集団的な反撃、法律による裁きだけでは、加害者側の行動は止まらないどころか、エスカレートしてしまうことを村中さんの本は示唆している。それは苦痛を紛らわすための依存の一種だからだ。村中さんや松本さんは、こうした依存的な行動、人を罰してしまう癖に対しての対応策は、実は「悩んでいる人を一人にしないこと」と述べた。
そして弁護士さんたちのホームページやANYCOLORがこの記事を公開したのも、男性には男性個人の一人でしか抱えられない苦しみがあったことを認めたからだろう

この時、果たしてフェニミィの曲をほかならぬにじさんじのライバーが歌っているのをどう聞けばよいだろう。フェニミィが抱えている「他者を罰したい」という心は、どうやわらげることができただろうか。

そしてこのアルバムで出てくる人々も、ある種の依存を抱えている。
音楽だけが頼りだった人、いいねの数に縋りつく人、人を罰する快楽におぼれる人――。果たしてこのアルバムを聞いたあなたは、どう感じただろうか。


Tr.05「嗚呼素晴らしき音楽」 - 夢追翔 feat. ジョシュア(CV:弦月藤士郎)


5曲目の「嗚呼素晴らしき音楽」は、このアルバムの中でも最も展開が複雑で、かつ複数の人が入りこんだ曲である。
冒頭では、弦月が演じるジョシュアが政府の権力の一人として、妹アリアが死んだ理由を探すために古びたアトリエにたどりつくところから始まる。
そのアトリエには、アマデウスと呼ばれる男がいて「人の負の感情を操る音楽はすばらしいだろう?」と語り掛ける。ジョシュアはそれに対して「人を殺す音楽が素晴らしいわけがない」と激昂し、その瞬間二人の歌声は激しくぶつかり合う。

次の瞬間、アリアの声が響き渡り、アリアが実は自分の存在がルールに反していることに気づいていたアリアの記憶がジョシュアの頭の中に流れ込んだ。アリアを追い詰めていたのは、ジョシュア含めてルールを守ろうとしている家族だった。

このお話は、ある種典型的なオイディプス物語というか、「運命」に抗おうとする青年が、実は「運命の糸」に巻き込まれており、自分自身がその人を苦しめていたことを思い知る物語である。
ジョシュアの罪は、ここでは「無知」かアリアの心に寄り添わなかった「ディスコミュニケーション」になるのだろうか。

このアルバムの物語において、悪者は強いて言えばアマデウスなのだろう。しかし、厄介なことに奴はどうも音楽のことしか考えていないため、この二人の旋律以上のものを見てもいないと思われる。
時に誰が悪いわけでもない出来事が起こってしまうことがあり得る。


弦月藤士郎は、長尾景、甲斐田晴らで結成するグループVΔLZのメンバーであり、桜魔皇国からやってきた官吏。即座に男女声を切り変えたり、MIX、作曲を次々と行う。近作は月ノ美兎『てんやわんや、夏。』で、レゲエの曲を作れという無茶ぶりにもその器用さで応えた。

Tr.06「パラドックス・アシンメトリー」 - 夢追翔 feat. ルーニー(CV:鈴木勝)


6曲目の『パラドックス・アシンメトリー』は、ところどころに8bitやシンセサイザーが使われ、仄かにSFのにおいがする一曲である。
病弱で体を動かすことができない主人公のルーニーは、あるメロディーを聞いた瞬間に誰かに殺されてしまう。がしかし、その瞬間、焼けた朝食と普通の生活に戻る。病弱なはずの身体も調子がよくなり、ふさぎ込んでた日々にもお別れできるかと思えた。しかし、ある日、事件のあった日に事件のあった場所に行ってしまったルーニーは、もう一人の自分を殺してしまう。

この曲のAメロ(僕はもうこの世にはいないんだ)や、Cメロの前(それからの僕は 人生をやり直す前)の場面展開には、曲調の変化が有効に使われている。この時に歌い手の声音も少しずつ不穏な事件⇒朝食の場面⇒再びの悲劇と物語が進むにつれて、微妙に変化させている様子が聞こえてくる。

このアルバムの2,5,6曲目で示されたのは、例え真面目に物事を運んでいても、あるいは妄想の中で望みを願っていても、それは叶わないどころか、自分の間違い(例えば親しい人とコミュニケーションを取らなかった、例えばもう一人の過去の自分を殺したかった)に引きずられて痛い目に合うという事である
にしても意地悪な神様である。


鈴木勝は、漆黒の捕食者-Darkness Eater- であり、にじさんじ所属のバーチャルライバー。主にASMR動画やゲーム実況、ピアノの練習風景などを配信している。
鈴木勝くんには、2434Systemと呼ばれるにじさんじの根幹を揺るがすようなSF的な電子世界の物語があったり、見た目がそっくりな妹であるRucoが存在しており、この曲を作るにあたって参考にされていそうである。
(しかし、それは女装ではないのか・・・?)

Tr.07「失われし最終楽章」 - 夢追翔 feat. シエル(CV:リゼ・ヘルエスタ) 


最後に発表されたMV『失われし最終楽章』は、なんと8分(!)もある大作である。この曲は非常に語っている情報量も多く、語り切ることは難しいかもしれない。

まずは、冒頭にあったQueenのBohemian Rapsodyのように、この曲を図式化してみよう。

1 森の奥へと歩みを進めるシエル。彼女には生まれつき多くの音が聞こえた
(Aメロ)
2 師匠はさよならも言わずにいなくなってしまった。その心残りを無くすためにシエルは閉ざされた部屋の奥へ向かった(サビ①)
3 シエルが長い階段の中を進むと、《重旋律=ハルモニア》が描かれた楽譜を見つけた。(Bメロ=バラード)
4 その楽譜には、音の中にメッセージが含まれていた。その譜面の影響を止めるために師匠は研究を進めていた。そして師匠は負の力に抗うことができなかった。(急展開1)
5 シエルは楽譜の作者に会いにいくことにした。その道中も、その楽譜に刻まれていた怨恨の声がシエルの頭に聞こえてきた。一瞬甘い夢を見せる幻想も、どんな物語も必ず最悪の物語になってしまうのだった。その声はなぜか師匠に似ていた。(Cメロ⇒急展開2)
6 シエルはアマデウスに会う。アマデウスは、私への憎しみへの感情を曲にすればよい、その曲こそが私の最終楽章になるという。
しかしシエルは旋律を読み解き、確かにすべての物語は悲しいものだったけれども、「みんな本当は幸せになりたかっただけ」ということに気づいた。
だから、シエルは『最高の作品は人を幸せにする作品に決まっている』と宣言する(語り)
7 シエルは、師匠にもらったものが忘れられないから、どうしても伝えたい、奏でたいと宣言する。(Aメロ)

ここまでまとめてみて気づいたことがある。
このシエルの存在は、ほとんどこのアルバムのリスナーの代弁者じゃないかという事である。もしもアルバムとして最初から順番にこの作品を聞いたならば、このアルバムは悲劇の繰り返しであることに気づくだろう。しかも、それぞれのキャラクターが笑い、喜び苦悩した後の様子を見せつけられた後に、そのすべてが悲劇となっていくのだからたまったものではない。
そして、シエルは初めてこれらすべての音楽をリスナーと同じように聞いたキャラクターである

その師匠であるアルクも同様に、これらの事件=音楽・旋律に気づき、それらをどうにか書き換えようとしたが、残念ながら失敗して絶望に飲まれてしまった。
でも、そこになんとか書き足そうとした「ハーモニー」は、五線譜になってシエルの手元にはやってきた。おそらくは、抗おうとする声が聞こえたのは、破滅的な効果をもたらす音楽に重ねて、聞こえてきた声は師匠に似ていたのかもしれない。

その彼女は、師匠の言葉を信じて、「憎しみ」をもってこの状況に対処しようとするアマデウスに反抗して、希望をもって音楽を伝えようとする。
これまでの物語を考えれば、絶望に押しつぶされるのも仕方ない。
にもかかわらず、シエルは希望を選び取った。
そしてもういない人々の遺志を継ぎ、曲を書き続けることに決める。


リゼ・ヘルエスタはヘルエスタ王国の第二皇女。人望は激アツなはず。
アンジュ・カトリーナと戌井とことのさんばかトリオは、にじさんじの元気印になっている。ちなみに第三皇子もいらっしゃる。
熱量の非常に高いオタクで、MOTHERや任天堂ゲーム、野球、テイルズなどありとあらゆるゲームに精通している。


Hidden Tr.8/Andante (feat. 周央サンゴ, シェリン・バーガンディ, 健屋花那, 弦月藤士郎, 鈴木勝 & リゼ・ヘルエスタ)


Andanteは、アルバムの8曲目に収録された曲である。PVはなく、登場キャラクター全員による合唱となっている。そして、7曲目の続きと考えれば、この曲はシエルにより作られた曲と考えて差し支えないだろう。
この曲は、謎を解いたシエル、そしてアルバムを最初から聞いていたリスナーのための贈り物として作られているように感じる。

この曲で歌われている希望は、おそらくはみんなで声を合わせて歌う喜びである。このアルバムに出てきた人々は、シエルが言うように「本当は幸せになりたがっていた」。しかし、そうはならなかった。


ある人は音楽を好きになってはいけないと家の掟につぶされ
ある人は自分を理解してくれる人の「数」だけにこだわり
ある人は自分のように真面目に規律を守れない人を罰することにおぼれ
ある人は生活のためにとやっていた仕事が、知らず知らずのうちに実は妹を傷つけており
ある人は自由になれない自分自身を殺してしまった。

要約してしまうとこんなあっけない話になりかねない。そしてこの物語の中には、単に被害者というだけではなく、一般的には加害者としてとらえられかねない人もいる(カサノバ、フェニミィ)。
でもここまですべての曲を聞いたリスナー=シエルならばわかるだろう。
彼らは罪人になるために生まれたわけではない
時代と環境が、人々を悪者や被害者に変えてしまった。

シエルが、彼らのことを思って作ったこの曲が出した答えは
一歩一歩少しずつ伝えたい言葉を形にしてみよう」だった。
誰かの願う力が、もしかしたら、ほかの人のところに届くかもしれない。
それは、まさに彼女が、いなくなった師匠のアルクから教わった教えだった。

この曲を聞いた女の子は、「みんな生き返って幸せになったんじゃないの?」と聞く。その答えは「想像にお任せします」と言われてぼやかされてしまう。普通に考えると、アリア、カサノバ、ルーニーが生き返る可能性があるかは怪しい。
にもかかわらず、この曲には演劇のエンドロールのように、全員のメンバーが出てくる。これでいいのだ。これは物語なのだから、これでよい。

このAndanteは、間違いだらけで、自分の環境から自由になれない人間たちに捧げられた「喪」のためのハーモニーである。
このアルバムに出てくる人たちは、年齢、承認欲求、他罰の欲求、自分への劣等感と様々なもの、そして社会の状況に、アマデウスの音楽の影響もあって押しつぶされてしまった。
しかし、彼ら彼女らが救われる道は本当はあったはずだった。それは自分の寂しさや理解されなさを、瞬間的な快楽や数字にするのではなく、時間をかけて少しずつ話していけばよかったはずだった。
その時、支えになったのは「物語」と「音楽」、つまり他の人も同じように苦しんでいる人がいて、それでも立ち上がろうとしていた事実だった。

この曲でみんなの声が重なるのは、みんながお互いの弱いところを認めて、それでも少しずつ前に進んでいこうと言いたかった、シエルの強い思いがこもっているように私には聞こえた。感動的な瞬間である。



このアルバムの中で本当に消えたもの 


あなたが魔王を名乗るのならば
我々は剣を取り、英雄を演じてみせましょう!

フリーゲーム『魔王物語物語』

実はこのアルバムのレビューで私が禁じたことが一つある。
それはこのアルバムを夢追翔のアルバムとして扱わないことである。
なぜかと言えば、『音楽が消えた街』の中で夢追翔が目指したもの、それは夢追翔のエゴを消すことではないか、と考えたからだ。

このアルバムを聴いている時に、どうしても頭の中に浮かんできて止まらなかったゲームがある。それは『魔王物語物語』と呼ばれる、もう発表されて17年にもなる、フリーゲームである(ここからネタバレを含みますので、気にする方は飛ばされてください)

この物語の中盤、「妄想の果て」と呼ばれる場所にたどり着くと、アレスとハロルドと言う人物の会話が聞こえてくる。
ハロルドは気難しい奴で、「面白い物語があるんだ」というが、
アレスに手渡すのは最初は真っ白いノートだった。けれどアレスは献身的に話を聞き続けて、少しずつ物語が生まれてきた。
しかし、ハロルドが話せば話すほど、やせ細っていく。そして彼自身も自分の死期を悟っていた。
そして魔王物語物語の終章を彼は決めた。その物語の魔王はハロルドだった。妄想の中だったら俺は魔王にでもなれる。そしてアレスは笑いながら、君を倒す勇者をかってあげようと、面白がりながら微笑んだ。

ハロルドは、気難しい人物だった。だからこそ、自分の物語を一人では始めることができなかった。そこでもう一人のアレスと喋る中で少しずつ、物語を書き進めた。
そして、最後の死の間際、ハロルドは物語を書くだけではなく、そのままその妄想の世界に入ってしまう。そして、その妄想にアレスは乗ってあげるのである。

この小さい物語が教えてくれることは、たとえ最初は自分のための小さな物語だったとしても、他の人と出会う中で、物語は進んでいくこと、そして、
その出会った人と物語は、世界の見方をもまるで変えてしまうことである。


さて、最後に、ちょっとだけ私の勝手な解釈を書き加えてみよう。

以前のnoteに書いたように夢追翔の1stアルバムと2ndアルバムには共通の特徴があった。それは、どちらのアルバムも徹底的に自分の立場から物を言っていることだ。
『死にたくないから生きている』と言う宣言も
『音楽なんざクソくらえ』という啖呵も、
『人より上手に』という弱い人への哀れみも、ある種極端なまでに夢追翔の言葉として描写されている。

しかし、これらの言葉には一つの弱点があった。「音楽」という言葉や、「人にやさしくしたい」という哀れみ、あるいは「命に価値などない」という絶望は、あくまで夢追翔にとっての正しさであることである。

「人にやさしくしたい」といっても「上から憐れまないでほしい」と言われるかもしれない。
「命に価値はない」といっても、子どもを亡くしたお母さんにその言葉はあまりに辛すぎるかもしれない。
「音楽はクソ」といっても、ゴスペルを歌っている人にとっては、音楽は神と交流するための方法かもしれない。


もしも、その言葉が本当か確かめたいのなら、他の人に自分の曲を聞いてどう思うかを、他の人の視点で語ってもらわなくてはいけない
(もちろん、これは夢追翔だけの問題ではなくて、音楽や創作をやる人すべてが抱える問題である。文学だと「自意識」の問題などとして分析の課題にもなる)
これを解決できる方法がひとつある。物語や演劇の形で、複数の人の視点で自分の言葉を形にすることだ

そして、このアルバムは、まさに夢追翔が、にじさんじのメンバーと、複数の視点で人間の愚かさや音楽を語った。その中には、人を殺す音楽はクソだと言う人、音楽が好きでたまらない人、人を粛清しないと気が済まない奴、そして音楽を手段としてしか考えていない人がいた。

さらにここで大事なのは、夢追翔が曲を渡すときに、自分のエゴを優先するのではなく、どう考えてもそれぞれのにじさんじメンバーを深く知っていないとかけない曲を渡していたことだった。

シェリンには彼が好きなエレクトリックスウィングの曲を上げ、
感情を直球でぶつける健屋さんには、心の闇をそのままぶち込むような曲を渡している。
そして、特に私には周央サンゴさんがいなければ『空に描いた幸福論』のように、どこまでも突き抜けるように走り回る、かわいらしい女の子の曲を書くことはなかっただろう。


だから、私はこのアルバムをこう評そうと思う。
一人の、なにもかもを自分で背負おうとした音楽家が、他の人の事を考え、自分の考えを伝え、音楽を作った。
そしてその時、これまで自分が作れるとは思わなかった曲が次々と湧き出してきた。人のどうしようもない愚かさを認め、その一つ一つに思いを寄せた。
初めて、夢追翔は、一緒に夢を追ってきたにじさんじの仲間たちと、そして物語のキャラクターたちと一緒に、愛を歌うことができたのである。













というか、「命に価値はない」とか言ってた奴が「愛を歌おう」と歌いだすなんて、ステキなことじゃないですか?



アルバム制作者のみなさま


アレンジ:齋藤優輝

ギター:城石 真臣

ベース:中村圭

ストリングス:門脇大輔カルテット

レコーディング:永井良和

エンジニア:袴田剛史

Visual Direction:RICOL

Main Character Design:色塩

Illustration:taka-ciao(鷹氏シミ)

Movie:ゆっぴ、足立柑橘



おまけ:サーバーをやってます


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