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【回答編】Vtuberと失敗学 ーー自らの過ちを振り返るために
今後のnoteの方針(前回のnoteでの意見を受けて)
今回のnoteは上のnoteでいただいた意見に対する回答編です。非常に長いですが気になった方はこちらからどうぞ
①(問題)件のnoteの問題点は「伝え方」であり、解釈の中身が悪いわけではない。とにかく書き方が強さが悪かった。
いただいた意見の中には、夢追翔さんの曲に勇気をもらっていた方、ファンとして彼の楽曲が好きだった人、当然私のnoteに強い不快感を持たれた人の言葉を多くいただきました。
一方で、その意見の中でも数人、夢追翔の曲を聴いて過去の暗い気持ちがよみがえった人、夢追翔さんのファンにもかかわらず曲だけは聞くことができない人、聞かせた友達が怒りだしてしまった人もいらっしゃいました。
それほど夢追翔さんの2ndアルバムは、いろいろな意見が出るほど強いメッセージが込められていたーーーと感じます。
夢追さんの曲に対して、一曲一曲丁寧に言葉をつなげて、曲から見えた景色を描かれたnさんをはじめ、私のnoteが出た後に多くの方が彼の曲に対して、自分の言葉ですばらしい解釈を書かれていました。彼の音楽が好きな方の、こうしたnoteには頭が下がります。
夢追ファンの方と話をする中で面白かったのは、多くの人が印象に残った夢追翔の曲として『人より上手に』を挙げたことでした。この曲には、ほかの曲とはまた違う前向きさが映っているように、わたしは感じます。
多くの夢追翔さんのファンの方が「解釈は自由」という彼の言葉を引用しています。ただ、今回の件は私が「解釈は自由」といった彼に対して、強い言葉で違和感を表明したことが問題でした。
政治学で有名な問題に、「寛容のパラドックス」というものがあります。
「解釈は自由」という世界では、実は「寛容に対する不寛容」に対して寛容になることができないというものです。
つまり、「解釈は自由」という人に対する強い言葉は、一番許されざるものにならざるを得ない。
おそらく書き方として『音楽なんざクソくらえ』という曲に対する疑問符の形で書けばここまでのことにはならなかった(解釈の自由の範囲内だった)。言いたいことはわかるが、度を超えて言葉が強い。夢追さんが嫌な指図をしないでほしい。これがいただいた意見でした。
そして、すべてその通りだと思います。受け止めます。
ただし、1点だけ強調して書いておきたいことがあります。
夢追さんが「希死念慮」という言葉を使ったことに対して、私が過敏に反応しすぎではないか、彼は死にそうにないだろうという意見がありました。
確かに私は一点をあでげつらいすぎなのかもしれません。しかし、夢追さんのファンの方の意見で、あるボイチャで喋った方の中で友達が自分の好きなアーティストの方をなくした方が、彼の歌(『命に価値はないのだから』)がどうしても許せなかったというものがありました。
夢追さんの曲が、というよりも「人の死や命の価値を扱った曲は意見が割れること、辛い時間を想起させるものゆえ、聞き手が感情的にもなりやすい」というのは改めて強調させてください。
私だけではなく、彼の曲のまっすぐさに辛くなる人はいる、ということです。
②(対策)夢追さんのnoteに限らず、何か触ったコンテンツに暗い気持ちがあるときは、スパっと書くのをやめるか、人に相談する。noteの出来は気にしない。
みなさまに伝わっていなかったこととして、件のnoteは2カ月近く何を書けばいいかを悩んだ挙句、あのようになってしまったものです(詳しくは前回のnoteを参照)
準備不足だったからあのようになった、というよりも煮詰まりすぎていたのに無理して一気に文章を書いてしまったのがまずかったものでした。
今度からは、なるべく悩むのをやめて、書くのが無理と思ったら、誰に対して/何に対しての文章であれ、書くのをやめるのを大事にします。また、重い題材を扱う際は、今回と同様なるべく人に相談します。
あのnoteを書いてから、数人の夢追ファンの方に「次の曲についてぜひ続けて書いてください」と言っていただきました。しかし、もしも彼について文章を書く時に何らかの不穏な気持ちが表れたときは、書くのをやめます。
次の話題にも関連するのですが、私は「インターネットで文章を公開する」ことは、推し活や解釈の最善手とは思いません。カラオケで歌う、Discordなどでほかのサーバーの人に紹介する、自分で勝手にアンサーソングを作ってしまう。
どれも一長一短あってその手段のひとつにすぎません。そしてそのやり方がうまくいかない、あるいは人を悲しませるのなら、やめるのが潔いと考えました。
今書いているnoteでは、時代ごとに変わる「歌のうまさ」の要素ってなんだろう?というのを、いろいろな歌手の方を引き合いに出して考えるものです。章立ては完成していますが、中には美兎さんや緑仙、加賀美社長、そして夢追さんが出てきそうな予感がします。
③(社会的な問題)Vtuberの文章書きが病んでいく ーー配慮の限界とVtuberを語る場所の重要性
最後にひとつ、②に関連してこれまでVtuberのファンの方と話してきて感じたことを含めてひとつ、論点を書きます。それは、Vtuberについて文章を書いていた知り合いたちが次々と病む、失踪するといった現象が続いていることです。
実は、申し訳ないのですが、以前から私はVtuberなどのエンタメコンテンツに対して文章で出来ることは多くないと考えていました。
それは音楽や絵に比べても、話題性に欠けること、喋りに比べて失敗に対して厳しい目線になりがちなことがあり、書くコストに対して現実を変える力があまりに小さいように感じていました。
まずはリアルで対面で喋って議論をしてみる。そこから伝えたいことが生まれたら文章に落とす。そうした場所がないことが深刻な問題だとかんがえていました。
今回いただいた意見、それも夢追さんの単推しではなく、2年近くVtuberを紹介し続けた阿斗乃真釣さんにいただいた意見が非常に印象的でした。それは、「Vtuberについて、誤解を受けたら一対多で殴られる可能性があり、最悪V側から訴訟される可能性があるため、できるだけ配慮する必要がある」というものです。
誹謗中傷をめぐる対策についてはこちらのnoteとインタビューを参照
基本的に阿斗乃さんの意見に同意します。やはり配慮や事前準備は必要です。ただし、配慮や準備は、無限にはできません。そして人はどれだけ準備していても間違える。さすがに無料のnoteを書くために、何回も友達を呼び出して、校正をお願いするわけにはいきません。
ANY COLOR社の誹謗中傷に対する取り組みは素晴らしいものであり、私自身がよく読みなおすべきと自戒しています。一方で、どこまで対策すればいいのか。
私はTwitter上のSpaceで何度か追っ翔の方と話す中で、複雑な気持ちになったのは、「今回のSpaceやnoteがあったことで、初めて夢追さんのアルバムについて話すことができた。このような場を作ってくださりありがとうございます。」というコメントや声をいくつかいただいたことです。
繰り返しますが、私の今回のnoteは失敗作です。しかし、一方でアルバムに対しての感想を、明らかに肯定的な感想を持っているファンですら、曲の解釈を話すことに億劫になるのは、非常に悲しいことだと思います。
特に、自分の音楽がどのように人に影響を与えたかを気になっているライバーなら、なおさら。
Vtuberについて語ることをやめれば、確かに波風は立ちません。「好きな人に好き」と言わなければ、何も悪いことは起こらない。
ただ、「共創」という言葉を掲げているにじさんじだからこそ、
「好きな人が好き」と伝えることが苦手な人や、言葉を使うのがうまくない不器用な人にも、安心して語りたいときがあれば語ることができる居場所を作ってほしい。せめてそれを小さく始める隙間を作っていてほしい。
くだらなく見えても、わがままに見えてもこれが、私の思いです。
ひかげつきみさんは、Vtuberが活躍する初期から、ほぼにじさんじ創成期のころから、文章の形で応援し続けたライターさんでした。しかし彼も今は界隈からは姿を消しています。私はあとから彼の存在を知りましたが、彼がいなくなった際の、知り合いの方々の悲痛な声は今でも頭に残っています。
ツイッターでたまにみるんです。
「推しを応援したいけど、お金ないからスパチャできないし、絵も描けないし・・・・・」
安心してほしい。
推し活は誰にでもできる!
いろんな感謝の伝え方ができるんですよ!
そして、それって
すっごい嬉しい循環が生まれるんです!
何気ない応援と思っていても
クリエイター側ってすっごく嬉しいものなんですよ
絵をかくこと、歌を歌うこと、どれも長時間の努力や才能が必要なことです。それができないことで、Vtuberたちに貢献できていない劣等感を感じている人は、2年間noteを書く人と喋って予想以上にあるのだと実感しました。そのうえで、言葉は武器にもなりえるものだから、文脈を読んで神経質にもなりながら配慮を続けなくてはいけない。推しにも嫌われたくない。
でも絵を描ける人や音楽を作れる人は、ライバーとギャグを言い合って楽しく遊んでいる……。ハッシュタグをつけても見てくれる人は少ない……。
こうした悩みを文章書きの方から実際に聞いて、相談にのっていたこともあります。これを劣等感だ!と片付けるのはたやすいのですが、一方でVtuberを語るときに、こうした感情を100%持ったことがないと断言できる人も、少ないのではないかと思います。そして、今回のnoteの件で自分自身にもこうした劣等感があるのが、確認できました。
私はVtuberを半閉鎖的な場所、あるいはリアルの場所で語ることの重要性を繰り返し書いてきました。文章を書くにしても、そうした人のつながりがないと続けられない。私も小さいですが、最近はインターネットの外で話をすることが増えています。というか普通にネットよりもリアルの方を向き始めました。
人が創作などをするとき、助けになるのは、難しい抽象概念とかじゃなくて、横にいて話をしてくれる友達だと思います。そうした共同体の支えが、弱い人間がことを始めるためには大事だと思います。
そして、そうした小さな共同体から、にじさんじの周りの絵師さんを見ながら、絵をかいたり、ちょっとずつ勉強すればよい。少しずつにじさんじの子たちから力を借りて、自分の世界を開ければいい。
私は、緑仙の生放送を見てから歌が歌えるようになりました。
加えて、口頭であれば、人は間違ったことを言う前提に話すことができますし、それを後で撤回することができます。そして、その場で考えの違いがあればすぐに調整することもできます。そうした雑談のなかで出てきた面白そうな話を文章に落とす。
場所はインターネットから離れていくかもしれませんが、そうしたことを私自身も何か小さく始めようと思います。
エンタスは、Vtuberの文化の発信地として有名な場所
失敗学 ーー失敗を見つめるために、失敗を活かす学問を学ぶ
ここからは後学のために、今回の件を起こしてから読んでいた本の話をまとめます。
にじさんじでも、時々人が失敗して謝るということが起こります。
そして人は人である以上、失敗からは逃げられません。その痛い経験である失敗と人はどのように向き合えばよいのか。
この問題は、もともと自分のnoteで繰り返し話題にしてきました。今回は、自分自身が失敗をしてしまったとき、あるいはほかの人が失敗してしまったとき、どのように対処するべきかをこの本の一部分を読んでまとめました。このまとめた内容は、ここまで書いてきた内容の素になっています。
東京大学の工学部で教鞭をとられた畑村教授は「失敗学」の提唱者です。
人が失敗を起こしたときに、何をすればよいのか、その失敗をどのように次に生かせばよいのかをポジティヴに考える学問を行っています。
科学技術の発明は、失敗の連続です。しかし、そこで失敗から目を背けてしまう、あるいは失敗を恐れて何もしないと、物事は改善できません。とはいえ、簡単ではない失敗からの立ち直りをどう行うのか。
失敗を起こした時・周りの人が失敗したとき
人はその弱さゆえ、傍から見ると明らかな失敗をしている場合でも、自分ではそれが失敗であるとすぐに認めることができないときがあります。そのため失敗の上にさらに失敗を重ねることもよくあります。そしてようやくその人が失敗を失敗と認めることができたときには、すでに手遅れになっていて、傷口が大きく広がって深刻なダメージを受けていたりということもあります。
なかには最初から潔く失敗を認めることができる人もいますが、そのような人でも失敗した直後に正しい対応をとれる人はあまりいません。
畑村氏は、著書『回復力』で失敗が起きた直後のことについて述べています。失敗が起きた直後、それを知った本人はショックが故、正常な判断をできていない状態にあります。その時に、無理をして物事を解決しようとするとこじれておかしくなってしまいます。
故に教授は、失敗が起きた直後はまず自らの心身を整え、「逃げる」「他人のせいにする」「おいしいものを食べる」「愚痴を言う」などの方法で、まずは「自分が死なないように動く」ことを大切にします。(あくまで他人のせいにするのは一時しのぎ)
そして心身が安全になってからは、淡々とこなすべきことをこなすようにすること、失敗を認めること、被害を最小限に抑えることを大事にします。
創造力のなさは、失敗に直面したときの対応のまずさにも顕著に現れます。真の創造は、目の前の失敗を認め、これに向き合うことからしか始まりません。にもかかわらず、起きてしまった失敗を直視できず、「思いもよらない事故」という言い訳で失敗原因を未知への遭遇にしてしまう責任逃れを繰り返しては、次の失敗の防止も、失敗を成長・発展の種にすることもできません。
そのうえで、畑村さんは、失敗を減点方式で恥ずかしいことと考えるのではなく、成長の種として隠さずに話すこと、どうやったら防げたか、どうやったら未知の事故の防げるかの仮想練習を繰り返すことを勧めます。
畑村さんは、失敗が自分一人では客観的に語りにくいことから、失敗した人に対して元気を出すよう指示するのではなく、時間をかけて回復するように見守ることの大事さを説いています。
これが、Vtuberにたいして文章を書く時でも、やはり人間は弱いので複数人の力で見守りながら、個々人の解釈をより良いものにしておくべきであること、たとえ失敗しても周りの人がケアしあえる環境にあることの大事さを感じ、上記のような答えを出しました。
失敗をしたとき、それを水に流すのではなく、次に生かせる形でおいておくこと。それはやはり一人では難しいのです。
(参考文献)