星街すいせい『TEMPLATE』新解釈 ーー「僕」は本当に星街すいせいか?
はじめに 『TEMPLATE』に抱いた違和感 ーーキタニタツヤは罠をしかける?
『TEMPLATE』は、ホロライブ所属のバーチャルアイドル・星街すいせいが2022年3月に公開した楽曲である。作詞・作曲はキタニタツヤ。
ここのところ、星街すいせいの1stアルバムと2ndアルバムの感想noteを書こうとして、聞き返していたのだが、2ndアルバムの2曲目にあるこの曲だけ、妙な違和感を感じて、いろいろな人のレビューやコメント欄のコメントを読んでいた。しかし、なかなか私の違和感は晴れることがなかった。
この楽曲を作詞作曲したキタニタツヤは、ひとつの歌詞に何重も意味を持たせ、タイアップ元の作品の文脈をも汲み取る強烈な歌詞をここ数年書いてきた。例えばBLEACHとのタイアップである『Rapport』では、引き算の美学に裏付けされた作品になぞらえ音数を減らしつつ、作中のウルキオラを思わせるワード(がらんどうの胸、この手の光が心だったんだ)を散らばらせている。
さらに、近作の『ずうっといっしょ!』では彼氏に強烈にまとわりつくヤバい女の子の歌詞を、いかにも「メンタルがすり減った女の子」が使う言葉遣いを丁寧になぞり、地獄まで引きずり落とすドロドロの心情を歌詞に落とし込んだ。この曲はタイアップがないにもかかわらず、2025年始時点で1800万再生をたたき出し、ネット上では数多くの歌詞考察が並んでいる。
キタニタツヤ氏は、抽象的な言葉(青・がらんどう・傷…)を使うのが非常に上手い。さらにその言葉が一般に持っている意味を裏切るような、言葉の多面性を浮かび上がらせる。例えば『聖者の行進』であれば、「聖者」になれない人たちの行進であり、『ずうっといっしょ!』であれば、地獄までずっと一緒という意味が、裏に隠されている。
それに対して、意外と星街すいせいの『TEMPLATE』は、キタ二氏がいかにも得意そうな、ファンとアンチとVtuberどろどろな関係性の話にも関わらず、伝えたいことが(確かに暗く強くはあるが)まっすぐに聞こえたのだ。
『TEMPLATE』は素直に聞いていると、「星街すいせいの解釈で殴り合うファンとアンチの殴り合い」への嘆きに聞こえる。PVにはアンチが自分の理想とした「星街すいせい」を欲していて、一方でそれに気づいた新規のファンが殴りかかる様子が歌われ、それに対して星街さんは「僕の姿形は自分が決めるんだ」と歌う。そして最後には、「僕以外なにもいらない」とまで言い切る。
個人的に引用したうえの四行がある種「星街さんらしくなさ」を一瞬感じたのだ。彼女だったら、「それでも私はすべてを掴む」みたいな希望の歌詞が出てきてもいいのかなと思い、いろいろ考えていた。
所詮はこれも勝手なVファンのテンプレートかなと思った時に、ふと気づいた。
PVの2番では、アンチの男の子が、星街すいせいの皮をかぶるヤバいシーンがある。嫉妬/好意を持つ対象を自分の一部にしてしまう、2次元と3次元の超えてはいけない壁を越えてしまった少年は、おそらく他人に見えるところで反転アンチ(ファンの好きが爆発してアンチのようなことをする)行為をしたのだと思われる。
ということは、この曲に歌われている仮想的はやはり同一化をして勝手な解釈をして暴走している人達なのかと私は考えた。
いや、違う。私はとんでもないことに気づいた。
この曲は星街すいせいの口から歌われているものだ。
だから、ふつうは星街すいせいが自分の気持ちを吐き出したものと考える。
普通ならそうだ。
でも、誰も『TEMPLATE』の曲の一人称の「僕」が星街すいせいだなんていっていない。その瞬間、私のこの曲への解釈は180度ひっくり返った。
(参考note・考察)
PVの考察については、こちらのえんでぃーさんのTweetが最も詳細だった。
この論考でも情報整理のため、参照させていただいた。
PVから二番の歌詞はアンチ目線ではないかとの考察にたどりついたnote。
一方で、私のnoteでは「そもそもキタニタツヤの曲単体で、しかも1番からすべてアンチ目線の歌詞でも読めるのではないか」と考える。
ただし、歌に正しい解釈は定義づけが難しい。このnoteも一つの説としてお読みいだたきたい。
「僕」が「アンチ」だったとしたら ーー『TEMPLATE』をアンチ目線の曲として聞き返す
PVも気になるところだが、「僕」=「星街すいせい」ではなく、「僕」=「アンチ」であるとしてもう一度歌詞を考え直してみよう。ここから、長く細かい歌詞考察があるため、歌詞をよこに置いていただきたい。
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・まず第一段落の「殴っても痛まない拳」を放っているのは自分である。
ガラスの破片が散っているのは、自分が2次元と3次元の境目をぶち破ろうとしたから(PVも参照)とも考えられる。若干読みすぎかもしれないが、「画面の向こうで放たれた言葉」は「一般ファンのコメント」とも取れる。
・「僕(アンチ)」が苦しかったのは、自分の望む星街すいせいが手に入らなかったからとも読める。1番サビの「正解」は、本物の星街すいせいの考えや、ファンたちが正しいと思っている考えである。「この生」は「私の命」ではなく、Vtuberとしての星街さんの生である。
そしてこの時「テンプレ」なのは、「ファンが正しいと思っている考え」である。
・鏡に映った「僕の色」は、当然星街さんのことである。
アンチくん本人も本来匿名なのだが、当然星街さんを擁護したりする発言も全部「アノ二マス」である。そして、星街さんファンは「アンチ」くん一個人の個性なんて知ったことはないはずである。
しかし、PVにもあるように、時に過剰な擁護が人格攻撃になることがあるとわかれば、アンチくんが「僕の何がわかるの?」と言うのはあり得る。
「僕の全部取り返す」は言わずもがな、星街さんを取り返したがっている。(PVでは、アンチくんがこの言葉を口ずさみ、星街すいせいの皮をかぶり始める)
・「何度さえぎったって鳴るノイズ」と「好き放題貶している」のは、擁護コメである。そして、星街ファンもアンチくんを「嫉妬心に駆られているやべーやつ」とカテゴライズすれば安心もできる。
・(センシティヴな解釈注意)「この声」の「この」は、星街すいせいのことである。そして、Vtuberにおいて中の人がいるのはあまり触れたくないタブーである。だから、星街すいせいの正体を暴けば確かに中の人が出てくるかもしれないが、その正体に「星街すいせい」と名前を付けられるのは「自分(=アンチ)」だけと言っているようにも聞こえる。(傲慢である)
・「もう僕は祈らない」のは、星街さんや星街ファンたちに嫌われているから、自分が救われることはないからである。「頭上に降り注いだ慈愛」「あの一等星の輝き」は、星である星街さんである。
そして、「幸福が蔓延る理想郷」は星街さんたちのファン、さらにはアイドルという理想像を売っているホロライブのことともいえる。
・そして最後の「僕以外何もいらない」は、前述のようにすでに星街さんやファンたちから見捨てられた状態になっていて、自暴自棄になっているともとれる。
振り返ってみたように、言い回しのレベルで気になるところはあるが、致命的な破綻は起こっていないように思える。
ちなみに、『TEMPLATE』の「僕」を「ファン」にすることができるかも考えてみた。しかしファンは「僕にとって正解(=星街すいせいの考え)なんてどうだっていい」とはいわないように感じられ、アンチの場合よりも違和感はかなり強まった。
終わりに ーー新しい解釈から導かれる『TEMPLATE』の意味
では、新しく「僕=アンチ」説がありえるとして、だからなんだと言えるだろう。この説を振りかざしても、ひとつの解釈をもって暴れている奴になるだけである。そして「僕=星街すいせい」という説が間違っているとも私は思わない。ただ、次の2点は『TEMPLATE』という曲の持つ意味としていうことができるだろうと思う。
・『TEMPLATE』という曲が「星街すいせいからの警鐘」だという、ファンの中で一般的な解釈ですらテンプレになりうるということ。そして、それだけ現実と言うのは一面的な解釈では切り取れないものだということ。
・星街すいせいは、私の進む道は私自身が決めると宣言した(表の解釈)。
ただし、その時には自分の事を嫌っておかしくなってしまったアンチの言葉も、何もかも歌にして、自分の血肉にして王子様として進んでやる。(裏の解釈)
PVの最後、星街すいせいは王子様を意味する王冠をかぶる。その王冠には、ファンとアンチが殴り合ってできたであろう血がついている。次の瞬間、画面に向かって血がたたきつけられる。
このシーンに込められた狂気的な感じ(血まみれの殴り合いが起きているけれども、星街さんは意に介さずニコニコしている)こそ、この曲を作った制作陣が殴り合うアンチ-ファンに見せた光景であるように思える。
星街すいせいは、人々の血が飛んできていても、アンチに何をいわれようと、前に進む。それが星の王子さまである自分の度量であるといわんばかりに。
P.S. キタニタツヤへ
キタニタツヤは2024年8月に「監禁」というショートドラマを投稿した。ダ・ヴィンチ・恐山を脚本に据えた本作は、成功したミュージシャンとそのファンのどろどろしたやり取りをドラマにしたものだった。
『TEMPLATE』が気になった方は、是非こちらも見られて欲しい。キタニタツヤもまた、星街さんと同じような苦い苦しみを持っている。
キタニタツヤは、一見すると社会のどろどろを描く作詞家に見えるかもしれない。しかし、例えば『私が明日死ぬなら』のように、絶望にまみれた人に、「もしもこうだったらどう思う?」と語りかけ、死にたがっている子に対して、押しつけがましくないようにエールを送る。
今回の『TEMPLATE』がそうだったように、キタ二の作詞は絶望的な世界を提示しながら、解釈を絶対にファンにゆだねるように書かれている。
それは、血みどろで嫉妬深くて、人の事を傷つけてしまう人間を、それでも愛しているからのように私は思えてならない。