言論の自由とは何なのか。リアリティーショーやネット社会での向き合い方を改めて考える。
こんばんは。れいらです。
今日は改めて「言葉」というものについて考えてみる。この事に関して述べるのは言葉を選ばないといけないし、自分の感情だけで触れてはいけない内容だと思う。
だが、今一度今ここで考えるべき内容だと思う為、記していく。
先日女子プロレスラーの木村花さんがお亡くなりになり、世間では数多くの芸能人を始め、著名人も声を上げ、そして国としても改めて考えるべき事象だと政治でも取り上げられるようになった。
ネットは怖い。
本当に。
誰とでも気兼ねなく情報共有やコミュニケーションを取れるネット媒体は、いつしか相手に何でも言えてしまう暴力性を持つ媒体にまで変化してしまったのだ。
テラスハウスは私は以前よく見ていて大好きな番組であった。最近は見れていなかったが、男女が同じシェアハウスで生活をしてそこから生まれる恋愛がリアルで身近に感じて親近感を持ちやすい。
リアリティーショーと謳っていて、実際に起きた出来事は出演者自身の日常での一部としている為、視聴者は感情移入を抱きやすく客観的目線で見る事ができる為なのか意見をあれこれ言いやすい。
しかしそれは意見ではなく、ただの批判になる。
人は批判をしたがるのだ。
そういうリアリティーショーに対しては身近に感じるが故に、一番批判の矛先が向かいやすい。
例えばドラマは役者が演じているものだから悪役を演じても批判とはなりきらず演技力の賞賛などに変わる。
ただ等身大のその人を映したそのリアルとされる姿は共感から、人間性の否定へと変わってしまうのだ。
まずリアリティーショーの恐ろしさはその部分である。
そして更に身近な人でもないその人の事を何故か映像を通して知ってる気になりやすく、映像の一部分だけを見てその人はこういう人なんだという認識に陥る。
ただの映像の一部分だけで何が分かるだろう。それが批判を受けやすい一部分であった場合、日常でいう私達にも言えるのか?
もしこれが私の友人でその一部分を切り取られ、友人の人間性での誹謗中傷を受けたら、確かにとても辛く本当に悲しくなるだろう。
「いや、私の友人はそれだけじゃない。そこじゃない。こんなに優しい皆が知らない姿があるんだよ?!」って。
それが私達の問題点である。
家族でもなく、友達でもなく、知り合いでもない。
その人にはその人が生きてきた知らない人生があり生き方がある。
だから、私達は知らないその人を批判する権利もなければ誹謗中傷が本来できないの立場なのである。
もちろんそういったメディアに出る以上ある程度そのような大きなリスクは起こり得るが、それが当たり前とする世の中と度が過ぎた誹謗中傷は許されるべきではないはずなのだ。
そして私達は一部分だけを見て踊らされてはいけない。一度立ち止まって自分で考えなくてはいけない。
相手に誹謗中傷をする前に。
情報やメディアに踊らされ振り回されるれるのではなく、私達は情報を選んで何が正しいのかをわかっていくべきだ。
テラスハウスはリアリティーショーではあるけれど、「エンターテイメント」という事を念頭にある意味日常に近いドラマとして楽しむものである。
今後もネットでの誹謗中傷は無くならないだろうし、当たり前なものである事は変わっていかないだろう。
ただ今回の事を受けて世の中が在り方を大きく変えていき、またそこでも、あっちでも、こっちでも今起きている誹謗中傷が少しでもなくなってほしい。
ネットを通した言葉のコミュニケーションは相手の顔が見えない。
その為か文字通りの言葉を受け取りやすい。だからそのまま自分の心に落としてしまう。
今一度、私達利用者は相手の立場に立って、それが自分の身近な人だったらどうか、感情で動いていないか、思いやりと理性を持った行動を心がけていきたい。
意見と誹謗中傷は違う。
そこを考えて今ここから変えよう。
そう思う。
木村花さんは保護猫を引き取られていたようで、飼われていた大事な子猫を、亡くなる前に所属していた女子プロレスの事務所の前に置いて託されたそうです。亡くなる直前にできる行動として、とても優しい方だなと心苦しくなりました。
そしてプロレスをされる動画を見ましたが、生き生きと技をかけられる姿はとても魅力的で頑張って向き合ってこられたんだろうというのが良く伝わる素敵な方でした。
自分の大切な存在を残しそして託す辛さ、ご家族の想い、本人の苦悩を考えるととても胸が痛み苦しく辛く思います。
あたたかな世の中になりますよう。
ご冥福をお祈り致します。
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