「0.5歩だけ踏み出して、戻りながら自分らしさを見つけていきたい」- アクティビスト・Kanインタビュー <後編>
ジェンダーやセクシュアリティに関する抑圧的な風潮に晒されながらも、カナダ留学を経て自分が生きやすい社会のあり方について思考と行動を繰り返してきたカンさん。帰国後に日本とカナダのセクシュアルマイノリティを取り巻く社会のあり方のギャップに戸惑いながらも、どのようにして自分らしさを確固としたものにしてきたのでしょうか?インタビューの続きをお届けします。
コンフォートゾーンにいられても
自分が主体的に生きていないと、やっぱり苦しい
- カンさんが自分のネガティブな捉え方から解放されたきっかけも、カナダでの生活だったのでしょうか?
Kan : 最初に自分の意識が変わったのはカナダでの生活ですね。ずっと自分のセクシュアティはネガティブなものだと思っていたので、カナダに着いたばかりの頃も「生まれ変わるとしたらストレートになりたい」と思っていました。ただ、自分らしさってポジティブな文脈で語られがちだけど、ネガティブな自分も、社会に受け入れられていない自分も、触れられていない自分も、自分らしさ。周りの幸せそうなマイノリティの人たちを見て、自分も幸せになれるって気づいた時に「自分はこのままでいいんだ」って思えたんです。
だけど、数年後にイギリスへ行ったとき、今度は人種差別に遭って。セクシュアリティの面では受け入れられたけど、アジア人であり外国人であるという側面によって、新たに自分が引き裂かれたような気持ちになったんです。その絶望から再び這い上がって「自分は自分でいいんだ」って認識するようになったのは『クィア・アイ in Japan! 』への出演がきっかけかな。
『クィア・アイ』に出る前の自分でも生きていけたなとは思います。でも自分らしく生きていけたかと言われると、それは違うなってところが大きい。ものすごくモノトーンな服を着て、メイクも何にもしてないし、できるだけ目立たないように「無難に無難に」っていう生き方をしていて。自分の可能性を自分で狭めてるというか、常にコンフォートゾーンの中のコンフォートゾーンにいる自分だった。それはやっぱり苦しいんですよ。
『クィア・アイ』でもFab5(番組のメインパーソナリティたち)が言ってたけど、自分が主体的に生きていないと、僕がどうしたいかじゃなくて「社会がどうあるか」で自分が変わっちゃう。僕ってすごくエモーショナルな人間だから人生の波が大きかったんです。今はそれも周りの環境に自分の生き方を任せていたからかもしれないと思っています。自分を主体に、自分が生きたいように生きるコントロールを戻してもらえたのはものすごく大きかったです。
「超可愛いし、やばい、眉毛完璧」
自分をケアするルーティーン
- 主体的に生きる大切さに気づくことが、生きるコントロールを自分に持たせる最初の一歩なのかもしれないですね。毎日を過ごす上で意識されてることはありますか?
Kan :『クィア・アイ』に出て教えてもらったのは、毎日自分のケアをしてあげることの大切さ。社会は自分を否定するようなメッセージを言葉に限らず社会の枠組みとかで見せてくるわけじゃないですか。男女で色が違うとか、「なんで結婚しないの?」とか…そういう中で常に自分をケアしてあげないと沈んでしまうし、環境に流されてしまう。番組でカラモが教えてくれたことなんですけど、僕が毎日してるのは自分を褒めること。教えてもらった時は「これで本当に幸せになるのかな?」って思ったし、番組を観て不思議に思った方もいると思うんですけど、続けてやっていると幸せな気持ちになる。鏡を見たときに「今日も天才じゃない?」「超可愛いし、やばい、眉毛完璧」って言うだけでアガる。すごい単純だなって思いました。あんまり気分が乗らないときでも「悲しい気持ちになってる自分にも気づいてるんだね」とか「なんでも気づける自分、天才!」みたいに、なんでも褒める方に思考を持っていけるようになってきました。
- 気持ちの保ち方が変わると、周りの人との関わり方にも変化が出そうですね。
Kan : 僕が自分らしく生きる中で僕のように生きたい人もいれば生きたくない人もいるけど、いろんな選択肢を与えるって意味ではすごく価値のあること。そういう意味では、僕が僕らしくいることによって周りの人たちもより自分らしくいられるのかなとは思います。仮に相手が僕がなりたいと思う人でなくても、自分らしく生きてるって素敵だと思う。ジェンダーが平等になっていったり、セクシュアルマイノリティの権利が認められたりしていくことで、人が自分で選んだ道を進むようになって、みんなが幸せになれる気がしていて。
- すごく同意すると同時に、「自分らしさ」は正解がないからこそ定義やゴールを設定することの難しさを感じます。
Kan : 人それぞれ自分が興味あることとかやりたいことってあるじゃないですか。僕は何かそこに自分らしさが隠れてると思ってます。メイクしてみたいとか、ヒール履いてみたいとか。最近履いてないけど(笑)。僕最近バイオリン習いたいと思ってるんですけど、それをとりあえずやってみる。『クィア・アイ』に出る前の自分だったら多分やらなかった。「やって、こう思われたらどうしよう」とか「やって、何か嫌な思いをしたらどうしよう」とか考えてたと思う。今もそういう思いがないことはないけど、まずやってみて、何か自分の中で琴線に触れるものがあれば続ければいいし、違ったら戻る。そうやって自分らしさは濃くしていけるかな。
僕のモットーは「人間万事塞翁が馬」。意味は、一見悪く見えることでも後になってよくなることがあるしその逆もまた然り。だから世の中何が起こるかわからないからあまり一喜一憂しても意味がないってこと。自分はダメだって思ってても、そこが本当はその人のすごく美しいところだったりする。それって僕の人生とすごく似てるなと思いました。元々僕のお父さんが好きな言葉だったんです。最初は何気なく聞いていたけど、自分が人生を生きていくうちにすごく「わかる」と思って。
自分らしさを求めて0.5歩踏み出す
「0.5歩だから、嫌だったら戻れる」
- 今の自分から昔の自分へ、どんなことを伝えたいですか?
Kan : 「大丈夫だよ」っていうのを教えてあげたいかな。本当に繊細な子供で、常に綱渡りしてるような人生だったから。それこそ「自分らしさって何?」「自分を受け入れるって何?」って感じだったと思うし、そういうことを言ってくる人が嫌いだったと思う。「なれるわけないのになんでそういうこと言ってくるんだろう」とか、「その人はそういう環境があるからでしょ?」とか。でも誰でも自分らしくなる方法はあるはずだと思うから、僕がもし昔の自分に声をかけられるのであればかけてあげたい。何かそういう気持ちになってるような人、自分らしく生きられなくてどうしたらいいかわからない人がいたら、大丈夫だよって教えてあげたいですね。それと難しいですけど、寄り添いたいし、コミットしたいなって思います。
- 最後に、自分のプラットフォームを通じて発信したいと思ってることを教えてください。
Kan : 僕は0.5歩だけ踏み出してみることを大切にしたいと思っていて。0.5歩だから、嫌だったら戻れるじゃないですか。踏み出しては戻りながら自分らしさを見つけていきたいと思っています。周りの人たちもそうやってちょっとずつ試行錯誤して自分らしく受け入れるようになったらいいなあって思うけど…言い方が難しいですよね。「やったら?」って言うのは違うと思ってて。いろんな状況/環境の人たちがいるから、それをやった責任を僕は取れないし。でも、さっきの「人間万事塞翁が馬」じゃないけど、社会がその人のことをどう思ってるのかが大事なんじゃなくて、自分が自分のことをどう思ってるかとか、自分が何をしたいかってことが大切なんだよっていうことは伝えたい。
僕がカナダに行ってものすごくエネルギーをもらえたときって「カンも自分らしく生きなよ」って言葉で言われた時じゃなくて、自分らしく生きてる人が勝手に出てきて、目の前で楽しそうにしていたとき。つい「僕も混ぜてください」って言う感じだったんですね。だから僕も誰かがそう言いたくなる環境を作りたいと思います。
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「0.5歩ずつ踏み出して、戻りながら自分らしさを見つけていきたい」
自分らしさを見つけるまでに近道はない。それは、いろんな感情を通り抜けて時間をかけながら見つけていくものなのだとカンさんは教えてくれた。
自分らしさとは、誰かと比べる中で見えてくる人とは違う要素だと言ってもいい。それは誰かの目にはネガティブに映るかもしれないけれど、視点を変えれば必ずポジティブな色を放ち始める。時間を共にする周りの人が変われば、生活の環境が変われば、違いの捉え方はきっと変わる。たぶん、何かを大切に思う自分という存在はそう簡単には変わらないのだ。
自分らしさの体現は決して義務ではない。でも、彼の言葉を借りるなら「私が私らしくなることによって、周りの人たちもより自分らしくいられる」のかもしれない。この思いを共有した分だけ生きる選択肢が増えていくように思うのだけど、あなたはどう思う?
Writer : Maki Kinoshita
Editer:Yuri Abo
Interviewer : Maki Kinoshita / Yuri Abo / Edo Oliver
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