tissue diary I
夢のっとり
奇妙なゆめをみた。昏い山間(やまあい)を限りなく鈍行に道連れされるような、長い長いゆめ。この日はほんとうに眠気に切れ目が無くて、巻物に巻かれ、じぶんの輪郭が渾々と湧き出でる眠りの池に際限なく暈されてゆくみたいだった。吉本ばななさんの『白河夜船』に、或いは憑かれてしまったのか、白んだ意識の恍惚とした海を背骨ごとごろんと浮かんでいるのは、どうやらわたしらしかった。
ゆめを、わたしは未明と白昼に一度ずつみた。つまり日曜の未明と白昼、わたしは二度眠りに堕ちていて、ゆめのなかで、未明には時空間の燃るゆらぎにふれ、白昼にはいかにも堂々と、社会のあるタブーというべきものを犯していた。それも、白昼のゆめにみるには余りに生なましい境めを。
ゆめは屡々、リアリティを巧妙に反転させて「顔のほくろが反対側にあっておかしいのに何故かおかしいと思っていない」みたいな揺らぎ、歪みをひきおこす。それも現実につよく信じているほど断層が一度ずれたときの反動はおおきいというように。
憑かれたといえば、ゆめじたいが禁断の鏡を思いきり跨いで、ほそながい足で大股で、こちらに迫り来たある朝のことをこれから話す。
*
恋人のゆめにのりうつったことがある。
否、この書き方がただしいのか、わたしの認識上はすくなくともこうだけれど、ほんとうのところはわからない。
ある朝、恋人が「こんな不思議なゆめをみた.」と寝ぼけながら呟いたことに、わたしの背筋はひやりと攫われた。
その頃わたしには悩んでいることがあった。深刻な悩みだった。恋人にはまだ打ち明けていなかった。もしやこのひとは勘付いているのでは、それが最も現実味のある推量なのだが、仮にそうだとしても。
わたしは仰向けのまま薄暗い天井を見た。
とても信じられるはずはなかった。
わたしの意識の深いところで、複雑に結び付いている光景や、音や観念や闇や何かを、鮮烈に焚きつけるように、(そしてどこまでも寓話的に)象ったそのゆめが、あなたの眠りの裡に しかと発露したことを、どう、どのように、現実の一部として捉えればよいのだろう。
わたしは怯えた。
ゆめを介して何かが起きていた。
然し、これが外交なら間違いなく最後通牒である。わたしに向けてひどく強い啓示の降りてきていることは、孤高の山に響くこだまより瞭然としていた。
狼狽を、わたしは咄嗟に袖の内へかくした。
「変なゆめだね」
恋人はすやすやと眠りに戻っている。
明け方の寝室にぽっかり穴がみえた。
ああ、そうか。
妙に腑に落ちてしまうなんて、
ああかなしいと思いたい。
そんな筈はないと、思いきり首を振りたい。
だって、もうどうしようもないもの。
溶けだした鉛のような虚空がもたりと垂れて、乾いた胸に訥々とその尾鰭を仕舞われていく。
そのとき、枕元でにやりとわらう音がした。
だれかがわたしのことを凝と見ていた。
テイクファイヴの隣人
食後に紅茶をとった。ブルーベックの調べに忽ち光の輪をくぐる。ひとつ。店主の咳ばらい。海よりふかい秘密は時すでに飼い馴らされているらしい。ふたつ。あきらかに話しかけているのに、独り言と成って宙へ消えていく会話。飴いろに浮かんだ檸檬は澄まし顔で、丁度良いぐあいの酸いを差し出してくれる。年越しの二時間前に似た感情。みっつ。ベルベッドの長椅子越し、革ジャン兄貴が煙草を吹かしてイカしてる。此処は⚫︎⚫︎(わたしの生息する東京下町)なのだ、こっちの足の脛までむゆむゆ痒くなりそうなこの感じは何、それと「三恵の特製オムライス」は写真より一寸大きいですよ。よっつ。仲西森奈さんの"ショートスパンコール"(と彼女は名付けた)をていねいに捲る。彼女のためにうまれながらにして、同時にだれにでもひらかれている語りの国。羨ましい。妬ましいまである感性の綾。そして中森明菜の双子みたいな名前だあ。いつつ。革ジャン兄貴をより微細に写したくて右を向きたいが、わたしのもやしメンタルが磁石に豹変して同極を逸らすので、何故かいま、わたしは反対の窓越しに自分の顔とご対面している。軽やかなピアノソロにアルトサックスの微風が靡く。尾のながい、艶やかな植物が首の後ろでさらさらと揺れる。女はタートルネックをくいと引きあげて、然しむっつめは無いからと会計に立った。
p.s. 三恵はむろん仮名である。昔の女を長引く男に軽々しく第二章は差しあげてやれない。
何億光年のあたしたちへ。
あたしのまぶたは土星いろをしている。銀河に浮かぶあの土星ではなく、かつて奏多ちゃんがあたしのために調合してくれた、一点もののアイシャドウだ。彼女曰く、あたし以外のひとのまぶたにのせても、同じいろを結ぶことはないと云う。
月、火、水、木、金。
あたしは毎朝、手鏡のなかで片目瞑って、その特製の土星いろを、目の上のきまったところにのせる。
月、火、水、木、金。
土曜はすっぴん。日曜は恋人とデートの予定がある日だけ、薄くラメを重ねてつかう。
奏多ちゃん。あれから幾重もの夏を織り込んで、八年の年月が隔たっていた。当時みずいろセーラーをふたり揃って羽織り、彼女は赤いギンガムチェックの、あたしはたしか紺地に小花柄の、(いずれも十五の女の子にしてはやや大きめな)弁当箱を引っ提げていた時代のこと。ふるいプロテスタントの学校で、その世間的な気品に似あわず飯は早弁してこそ一人前だった。それからあたしは受験の暗黒を潜り、東京の大学を出て、やはり東京の広告代理店に就職した。その間、彼氏はいたり、いなかったりした。奏多ちゃんはというと、わからない。あたしたちはたしかに十六の夏半ばまで、互いにふかく慕いあっていた。それはもしかすると、友情よりは恋情に似ていたかも知れない。
けれどいずれにせよ、ある日、それはぱつんと途切れた。哀しんだり絶望したりする暇もないうちに。
いろんなことが、いろんなことにおいて、とくべつな子だったとおもう。信じられぬほど数学の才に秀でており、生物や天文をこよなくあいしていて、然しことばが、何というかおそいので、ひとと打ちとけることをひどく苦手としていた。だれの目からも、得意なことは群を抜いて、苦手なこともまた反対がわに群を抜いていて、ぱきっとした原色みたいな子だった。ある日あたしは、部活に行く気がしなくて、じぶんでも何故そう思い立ったのかわからないけれど、こっそり彼女のあとを付けることにした。朝からつづく小雨が本降りになりはじめた水曜の午後だった。駆け抜けるにはややおっかない角度の下り坂の、したのほうに、やがてちいさく紺地の制服が覗いた。奏多ちゃんだった。ほっそりとした体躯で、雨の日にはより拍車がかかる天然パーマのポニーテールをゆらしながら、彼女はその日も、帰りの祈祷が終わるといちばんに教室を出ていた。そして黙々と、前を向いて歩きつづけた。急くでもそぞろ歩くでもなく、奏多ちゃんは一定の速度で(数学の点Pみたいに)道なりに進んだ。どうやらきまった目的地があるらしかった。学校の最寄り駅をすっ飛ばして踏切を越え繁華街を抜けて、市営地下鉄のさびれた駅の方面まで来ると、奏多ちゃんはようやくあたしを振りかえった。もうずいぶんと序盤から気付いていたと、言いはしなかったが屹度そうなのだろうとあたしは思った。奏多ちゃんはローファーを履いたまま、芝生の途切れとぎれになった河原を降りて行く。あたしも後に倣った。地面がぬらぬらと雨に濡れて、途中で二、三度滑り落ちそうになった。奏多ちゃんは何でもなさそうに河岸まで辿りついている。住宅地のはずれの、名もなき(あるにはあったと思うが、わすれてしまった)二級河川である。あたしはなんというか、そこで唖然としてしまう。
そこの河原で、石をひろうのが、彼女の放課後の習慣らしかった。採集するわけではない。ただ奏多ちゃんの透きとおった白い腕が、ぱっぱと要領よく河原のいろんな方向に伸び、ちいさな掌に大小さまざまの石を収めては、彼女の捉えどころのない瞳でまじまじと見つめるのだった。奏多ちゃんは、あるまとまった時間を掌のうちに注ぎこむと、今度は何の執着もなくそれらの石を転がして葬り去った。少し離れたところから見ていたあたしには、もちろん何の説明もなく。奏多ちゃんは生き物がすきだから、その延長で石もすきなのだろうと、あたしはそのとき単純に納得した。けれど奏多ちゃんの拘りは、あたしたちが親しくなるにつれ(正確には、あたしがいつ隣にいても彼女が大丈夫になるにつれ、)神社の敷地に根を張る巨木のように、思わぬ方向にまで伸びていった。ある八月の暮れ、あたしの家で奏多ちゃんとふたり宿題を解いていた日の夕刻だった。彼女が夕飯前に帰ったあと、あたしは自分のスマホをひらいて、思わず声をあげた。大量の、デジタル時計の写真が百枚ちかく保存されていたのである。あたしの勉強机に置いてある、いつから使っているかわからない普通の時計だ。ぜんぶおなじ角度、おなじ距離から撮られていた。一枚ずつスクロールしてゆくと、ただ時間の表示だけが、律儀に一分ずつ違えていた。奏多ちゃんには、そういうところが確かにあった。気がとおくなるほどの"無数"と名指されるものたちを、ひとつ、またひとつと、つぶさにひらいて見つめようとするふしぎな癖が。
それから暫くして、まだ蝉の鳴き声が青天を掻き鳴らしている晩夏の日をさかいに、あたしたちは二度と会わなくなった。会えなくなった、と事情を知らないひとに聞かれたときに、そう纏めてしまうこともあったけれど、けれど、やはり、あたしたちは会わなくなったのだとおもう。お互いに。奏多ちゃんも。あたしも。
車窓の吊り革越しに夜の海が映る。遠く、架道橋のうえを、無数の光のつぶたちが一定の速度で進んでいる。澱むことなく、止まることなく。
巨大ないもむしみたい。あたしはおもう。
月、火、水、木、金。
火、水、木、金。
水、木、金。
高校を卒業して東京に出て、いろんな出会いが目まぐるしく訪れては去っていって、そうして無数の夜を重ねるうちに、あのアイシャドウはたしか半分くらいすり減ったところでどこかへいってしまった。そのことを、会社に入ってからあたしはふと思い出す。まぶた、まぶた。いろんなまぶたの子、がいるはずだけれどどの女の子も男の子も、瞳がやけにぎらぎらとかがやいていて、まぶたのうつくしい子はいったいどこかにいるのか、見つからなかった。そうして、ひとりでまごまごしているうち、次第にあたしも、容易くまぶたを見せないようになった。つるりと磨かれた大きな鏡のある御手洗で、女の子たちと並んで睫毛を品よく仕上げた。唇をほどよい紅で濡らした。それは華やかで安定した日々だ。
いまあたしは、幸せなのだとおもう。
車窓越しに夜の海をみる。あたしが映っている。裾のひろがった生き物が昼間を呑み込んだように、くろぐろと沈んだあたりを都会の光がとめどなく横切る。あたしは瞬きをしない。瞬きをできない。光のつぶ。無数の。無数の夜が、あたしをすり抜けてゆく。ちいさな掌。蝉の鳴き声。ギンガムチェック。草から立ちのぼる河原の匂い。
ねえ見て、こんなに膨大にあるんだよ。
この石とこの石、これも、あれも、ぜんぶちがうの。…当たり前なんだけどさ。
ちっぽけだよなあっておもう。宇宙からみたらみんな石ころ。石ころ未満か(笑)
でもうちね、忘れたくない。
いま吹いてる風の匂いとか、河面に差してる光の、ゆらゆらしてる感じとか、そうやってくしゃっと笑ってくれる顔とか、ふたりで下校するとき聞こえるグラウンドのかけ声とか。指のささくれすらも。
うち欲張りだからさ、ぜんぶ抱えてたいの。
眼の、まぶたの裏にね、焼きつけておきたい。ぜんぶぜんぶ。そしたらいつかさ、この世の光が一筋も届かない、深くて、とおい闇の果てみたいな場所で、じぶんひとりになったとしても、…そんなこともちろんあってほしくないよ、けどさ、もしそうなったとしてもだよ。
うちは、その光を見れるの。記憶のなかで。
もう存在しない遠い星からの光が、何万年かけて地球に届くみたいに、一緒になって泣いたり笑ったりした時間とか、冬に差しこむあったかい光とか、あなたを抱きしめた温もりだって、そういう二度と戻ってこない日々の煌めきを、刹那だけど、うちはたしかに生きてたんだなって。たとえ闇のなかでもそういう記憶はきっと鮮明に残るよ。
それって凄いやん。思わない?
あの日、奏多ちゃんの力説はそれこそ宇宙のように果てしなくて、あたしには正直よく飲み込めなかった。ただいつもより、あきらかに口数のおおい彼女の乾いたわらい声が、妙にざらっと脳裏を過った。
別れ際、彼女は赤いちいさな包みをあたしに差し出した。
土星いろだよ。
それはクリイム地に青、翠、橙の混じった、柔らかないろのアイシャドウだった。何者でもないから、光のあたり方しだいで何者にでもなれる。そんなしなやかさを秘めているみたいないろだった。
あたしたちは十五に出逢って、その日は十六の夏の暮れで、ふたりにとって化粧は宇宙と同じくらい未知の世界だった。ありがとうと言って顔を上げたとき、奏多ちゃんのまぶたの端がきらりと光ってあたしには見えた。
記憶のなかで、その光を見れるの。
秋になって、奏多ちゃんは河原にも学校にも来なくなった。肺の病気が見つかって、郊外の大学病院で診てもらっている。良くなったら帰ってこれると、暫くして短い手紙が届いた。それから、奏多ちゃんが帰ってきたという知らせを、あたしは何日も何日も待った。幾度も、今日こそはと、思って河原に向かった。
電車が大きな乗り換え駅に着いた。
大量の人を吐き出して吸い込んでまた進む。
あたしはゆっくりと、まぶたを閉じる。
土星いろだ。
あたしのまぶたは土星いろなのだった。
あなたがあたしに贈ってくれたいろ。
こうしてまぶたを閉じれば、いつでも、あたしは河原のあなたに会いに行けた。あなたが笑う。掌には相変わらず石ころが握られている。
記憶のなかで、その光を見れるの。
あの日、あなたがあたしに言ってくれたこと。あたしはそれをちゃんとわかるには、今もまだまだ若僧みたい。
奏多ちゃん聴こえてる?でもあたしは、あたしも、覚えてるよ。ぜんぶ。ぜんぶぜんぶ。抱えきれないくらい抱えて、こうして、生きてるよ。東京は激流の街で、たまにあたしは、じぶんの掌に握られてあるものを忘れてしまう。いや、忘れたフリをしてしまう。
でもね、あなたが言ってくれた。
あたしは土星なんだって。
何者でもない。何者にでもなれる。
あのときの、あなたとあたしみたいに。
そうか、だからもう、あたしだいじょうぶって思っていいんだよね。
そうだよ。気づくの遅すぎだよ?
車窓の向こうを、細かい光のつぶが滲んで消えた。
また明日には淋しくなるかもしれない。
けどあたし負けないよ。
いつかの、あなたとの日々が、まぶたの中できらきらとかがやいて、いつだって、あたしの夜をやさしく照らしてくれているのだから。
〈編集後記〉
日々のじぶんの雑記にもっともちかい、ぬらぬらした生きもののような文章がうまれた。こういうのをひと目に晒すことはほぼ無い。創作と独り言のあわい、下拵えみたいな立ち位置なので人に読んでもらう意味を感じていなかったが、晒すとおもえば表現もそれなりに磨かれる。それなら出すのも悪くないと思って、今回に至った。
I としたのは定期にしようかなというささやかな画策で、じっさいこれを書いているいま、本文の推敲がままならないほど、既にわたしの心はべつの地点に移動している(また新しいなにかが生まれそうな予感。。)
雑記といえば、時々、スマホの中のぼうぼうに生え散らかったメモを見返すことがある。思いついたときに走り書き(走り打ち)することがおおいので題が往々にして適当なのだが、そのひとつに「玉ねぎの皮」というメモがあった。ひらくとフィクションの断片が寄せ集まっている。おそらく小説の推敲過程で削ぎ落とされた文章たちの、一応取っておくかみたいな仮置き場だったかとおもう。玉ねぎの皮とくらべると、今回のは完全なフィクションではない(※結果的に最後の篇はほぼフィクションになった。当初ここまでの予定はなかった)、一方でノンフィクション(日記)でもない。私は所謂日記、その日あった事をつらつら書くような書き方が苦手で、それはもしかすると書いているうちに、別の、直接関係のない音や光景や台詞が磁石のように吸い取られて一緒くたになってしまうからなのかもしれないと、今更のように気が付いた。(小説を書きはじめたのもその延長だったか、或いは単なる後付けかもしれないが。)
兎に角、創作の骨肉或いは皮膚ができあがるまえの断片だからこれをtissue diaryと名付けてみる。ふだんはここまでまとまった文章にととのえることはしない。ひとがあがってくるので部屋を最低限片付けたしだいである。