妄想①

妄想が好きだ。
否、待ってください。今、読んでいるあなたの心のシャッターが静かに降ろされる音が聞こえました。閉じないで!
好きというよりは、いつも私の頭の中は自動的に再生される映像や音楽やそれらで賑わっており、私はそれらを楽しい映画や音楽を鑑賞するような感覚でるんるんしながら楽しんでいる。どちらかと言うと妄想の方が私めがけてやってきているような感覚で、自分でストーリーを創り上げている感覚はそこにはない。それって、「趣味は映画鑑賞です」っていうような、ごく一般的に受け入れられるような趣味の内実は何も相違ないんじゃない?と私的には感じている。
それらを鑑賞している間、現実と妄想の境目ってあるのだろうか。ふと思う。
勝手に人の頭で「ここからは現実の世界で常識の範囲内と思われている世界であり、ここから先は虚構の世界」という誰かがあてがった根拠のないボーダーラインらしきものを、盲信しているだけのような気がする。
…だけど、それを人は妄想癖と言う。わかっている。



もう生きていたくないという感情が定期的にやってくる。

否、この言葉を正確に訳すのであれば「今こなそうとしている予定をすべて放り投げて何もせず自室に引きこもり、泥のように寝ていたい」である。
(坂口恭平さんの著書「躁鬱大学」という本に、躁鬱病を患っている方にとって「死にたい」という感情がやってきた時、実際のところは本当に死にたいのではなく、正確には上記のような感情になっているのだ、という風に解説してあって、私の心の動きをまるで見透かされたかのようで、思わず膝を打った。それ以来、私も似たような感情がやってきた際はこちらの説を採用させていただいている。)
そんな時でも日々生きていればこなさなければならないあれこれはたくさんある。
そういう風な感情がやって来る時は決まって頭がぼんやりしてどこへ行っても何をしても使い物にならなくて自己嫌悪に陥りますます引きこもりたくなるのだけど、そんな自分がほんとうに申し訳なくもなるのだけど、そういう時によく私のもとにやってくる妄想がある。

私には3人の王子様、かつ戦士のような付き人達がいて、その付き人がRPGゲームの仲間のように、私の後ろについていてくれて、仕事へ行こうがどこに行こうが彼らは私を見守り、私の後をついてくるのだ。

あ、やっぱりシャッター音が、しかもさっきよりもはっきりと…。待って、もう少し話を聞いてください。

ぼんやりしながら歩いていると、「伶、こけるなよ」と叱咤激励し、八百屋で野菜を選ぼうとすれば「こっちの方が鮮度いいんじゃない?」とか主婦の知恵袋的なアドバイスまでしてくれる(ありがたいが、しょっちゅう色々言われるとたまにうっとおしくもなっちゃうけど)。
そんな話をすると一見のんきそうな付き人たちって感じだけど、彼らには実は本職がある。なんと、俳優、ミュージシャンや文筆家と多芸で、活動分野は多岐に渡る。
たまに仕事している顔を見るとあまりにも洗練された姿にびっくりする。
だけど私の前だと、なんというか、彼らは無邪気な3歳児のようで、なんだかみんなできゃっきゃしててポンコツな私を助けるのがなぜか楽しそうで、そして信じられないほど、みんなあったかい眼差しで私を見守ってくれる、ピュアな人達なのである。

そのギャップにちょっと笑ってしまう。
甲斐甲斐しく私の面倒を見てくれるけど、あまりにもポカをやらかしてばかりの私をちょっとだけいつもからかっている気がする。悔しくもなるが、だけど確実に私は彼らに救われ、感謝している。そんな風に彼らと日々をともにしていくうち、いつの間にか私は彼らに恋をしていた。
…そんな妄想をしながら、なんとか私は日常と呼ばれる日々を生き抜くことができるのだった。

今日も自分なりに働いて、帰りに必要なものを買って、どうにかこうにか家路に着く。
1人ベッドに座り疲れて、何もせずにしばしぼやりとしていると、「今日もお疲れ〜」と、付き人A氏が言う。B氏、も気づけば隣に優しい眼差しで座り私の手を握り、C氏は少し遠くから私を見守ってくれている。

バカバカしいと、痛い奴だと私のもう1人の私からの声がする。
そういった声に、大切な付き人達の存在は容易くかき消されそうになる。

だけど、嘘か本当かなんてどうでもよくないだろうか。
私が彼らに救われていることは、紛れもない真実なのだから。

妄想は私にとっての真実である。私は私にとっての真実を生きてゆく。
そして、その妄想がいつか現実と呼ばれる世界で形を持って現れるようにささやかに願いを込めながら、私は妄想を、ひとつひとつこの世界に現してゆく。
空花伶という、へんてこな名前の人間の表現として。

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