春のカミーノ⑪ ~エステージャからロス・アルコスへ
カミーノ沿いに点在する、無数の町や村の中でも、エステージャはとりわけスピリチュアルな印象がある。旧市街の後ろにそびえる、大きな磐座(いわくら)のせいかもしれない。
ナバーラ王宮の側のサン・マルティン広場は、特に心惹かれる場所だ。磐座の強いエネルギーが、そのまま流れ込んでくるように思えるのだ。
広場の真ん中には、中世の時代の小さな泉がある。名もない泉だが、新月の夜にはひっそりと真実を映す──そんな想像をしてみたりした。
2019年5月23日。巡礼7日目の朝である。
私とさくらちゃんが目を覚ます前に、Miwakoはもう出発していた。この先のイラーチェにある有名な「ワインの泉」で、巡礼者たちを迎える演奏をするのだという。その場に立ち会いたい気持ちもあったが、眠気には勝てなかった。
朝の8時ぴったりに玄関のチャイムが鳴って、荷物搬送のお兄さんが、あっという間に私たちのスーツケースを運んでいった。大変失礼ながら、スペイン人は時間にルーズなイメージなのだが、ここ北スペインでは、また別の気質があるのかもしれなかった。
昨日はMiwakoの神隠し騒ぎで、ろくに観光ができなかったが、エステージャは歴史的建造物の宝庫である。さくらちゃんと私は、丘の上に立つサン・ペドロ・ラ・ルーア教会を訪れた。美しいロマネスクの回廊を見学したりして、たまには観光客モードも悪くない。
私のスペイン巡礼の師匠、中谷光月子氏の著書によると、エステージャのイチ押しお土産は「ロカ・デ・プイ」というチョコレートである。大きめのナッツがごろごろ入っていて、とてもおいしい。
地元プイの聖母様(フランス、ル・ピュイ Le PUY の聖母様を奉っている)にちなんだお菓子である。──中谷光月子著『サンティアゴ巡礼へ行こう!』より。
ご利益目当てというわけではないが、マヨール通りの菓子店が開くのを待って、私はたくさん購入した。お土産が少し、あとは道中食べる用である。
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エステージャから30分ほど歩いて、イラーチェの修道院に到着した。辺り一面、見渡す限りブドウ畑である。まだ実がなってはいないが、ワイン好きとしてはなんとなく心が躍る。
蛇口をひねると赤ワインが出てくるワインの泉は、巡礼者たちに大人気のスポットだ。地元ワイナリーのボデガス・イラーチェ社が、1991年から巡礼者のために無償で提供している。
ひとしきり演奏を終えたMiwakoが、私たちに気づいて手を振っていた。泉の前で、2時間ぶっ続けでサックスを吹いていたそうだ。私以上に朝が弱いはずなのだが、演奏となると話はまったく別らしい。
巡礼者の象徴、ホタテ貝で飲むのが通だというが、アウトドア用のコップで飲んでいる人が多かった。一人1杯という掟を無視して、ペットボトルを持ち込む不届き者もたまにいるそうだが、なにしろ泉の上ではヤコブ様が見張っている。
我々はもちろん、慎ましく1杯だけいただいた。カミーノでは因果応報が素早く訪れるということ、これまで嫌というほど思い知っていたからだ。
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たとえ1杯だけでも、朝方の赤ワインはよく回る。三羽ガラス連れ立って、やや千鳥足で5kmほど歩いた。昨日とまったく同じ、日陰のない丘陵地を抜けて、ビジャマジョールの村に到着だ。
感じのいいアルベルゲ兼バルがあったので立ち寄った。私は少し休むことにしたが、Miwakoは先を急ぐという。昨日でよほど懲りたらしい。面倒見のいいさくらちゃんが、Miwakoの後を追った。
通りに張り出したテラス席は、巡礼者で混み合っていた。私はカフェ・コン・レチェとナポリターナ(スペインのチョコデニッシュ)を手に、かろうじてひとつ席を見つけて陣取った。
「このまえの写真、送ってくれますか?」
目の前の席にいた、韓国人の綺麗な女の子に、日本語で話しかけられた。
髪を下ろしていたので一瞬わからなかったが、旅の出発点のサン=ジャン=ピエ=ド=ポーで、Miwakoの演奏を聴いてくれた女子だと気がついた。
彼女はヒーサンと名乗った。Facebookで友達になり、さっそく写真を送った。一緒にいる若い男の子は、彼氏ではなく、サン=ジャンのアルベルゲで出会って以来、旅の道連れなのだという。
なんか、自由だなあと思った。
ヒーサンは、予定をきっちり決めずに旅をしているようだった。アルベルゲの雰囲気が気に入ったので、まだ時間は早かったけど、今夜はここに泊まることにしたそうだ。そのノリがまた無性に羨ましかった。
そんな旅をするには、私はあまりに年老いてしまったのだろうか? またねと手を振って出発しながら、なんだか後ろ髪を引かれる思いだった。
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ここから先は、なんと12km以上も村がない。地図の上では、ちょうど中間地点に移動販売カフェの表示があったが、はなはだ怪しいものだ。地図のカフェマークを信用してはいけないと、昨日学習済みだった。
またしても日陰のない一本道だ。すれ違う巡礼者もだんだんいなくなり、ひどく寂しい気持ちになってきた。
巡礼道の彼方に、おなじみ、お気楽なMiwakoとさくらちゃんの姿が見えてきたときは、心底嬉しかった。
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移動販売カフェは、本当にあった。トレーラーの前にテーブルが並び、顔見知りの巡礼者たちがくつろいでいる。Miwakoの目がキラッと輝いた。私は彼女の考えていることがわかった。30年のブランクがあったとはいえ、幼なじみの以心伝心というやつだ。
忙しそうにしている、ちょっとコワモテのマスターに、私はビールとサンドイッチを注文ついでに交渉した。
そうしてMiwakoの野外演奏が始まった。
奥のコンテナ席で盛り上がっているのは、アイルランドから来たお達者チームだ。韓国人の夫婦も、婚約中だというイタリア人の若いカップルも、大いに楽しんでくれた。忙しそうにしていたマスターも、気づけばいつの間にか、仕事を放り出して動画を撮っている。
さくらちゃんはビールを飲みながらノリノリで、アイルランドチームと意気投合していた。長生きの秘訣だと言って、熊野名産の梅干しを渡すのも忘れなかった。
カトリックの国であるアイルランドからの巡礼者は、とても多い。朝からバルでアイリッシュウイスキーを注文していたり、みんなで歌をうたいながら歩いていたりする。お酒と音楽を心から愛する人たちだ。
Miwakoと再会してからの数年間、都会のジャズクラブやライブハウスでの彼女のコンサートに、何度も足を運んできたが……カミーノの自然の中でのMiwakoの音は、私が聴いたことのない音色だった。
そもそも、こんなふうにカミーノで演奏するために、楽器を背負って歩いてもらうことにしたのだ。しかしフタを開けてみれば、Miwakoはいつも最後尾だったので、聴かせる相手がいなかったのである。
すわ神隠しかと大騒ぎになった昨日の午後も、最後の3時間ほどは誰にも出会わず、ひとりぼっちで歩いていたという。(途中で道に迷ったのでは、という疑いもある)
本当は誰よりも早く到着して、巡礼者の仲間たちを演奏で迎えたい。だから、もっと速く歩けるようになりたいのだ……と、Miwakoは真摯に打ち明け、私は心を動かされた。
「それ、前の日から町に泊まってないと無理だよね?」とさくらちゃんが言って、私の感動は台無しになった。Miwakoは他人事みたいにクスクス笑っていた。
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「もうすぐ、雨が降ってくる」
空を見上げてマスターが呟き、店じまいを始めた。そんなこと信じられないような青空だったけれど、私たちも慌ただしく出発した。
小一時間ほど歩いた頃、やはり雲行きが怪しくなってきた。灰色の雨雲が現れて、たちまち空を覆った。ロス・アルコスまではあと3km。もちろん、雨宿りするような木陰はない。
私たちは小走りになって先を急いだ。幸いほぼ平らな道なので、Miwakoも遅れずついて来てくれている。楽器を濡らしたくなくて必死だったのだと思う。
バキッ、と大きな音がした。振り返ると、Miwakoの赤いストックが片方折れていた。
熊野古道でもスペインでも、ずっと支え続けてくれた相棒である。Miwakoのショックと悲しみは大きかった。ポツリポツリと雨が落ちてきた。遠くでかすかに雷も鳴っている。私たちはそれぞれストックを抱え、ダッシュで走った。
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ロス・アルコスの町にたどり着く頃には、雨は上がっていた。熊野の皆地笠(みなちがさ)は、とっさの雨にもお役立ちだ。
サンタ・マリア教会前の広場にあったはずの巡礼用品店は、流行りのカフェに変わっていて、アテが外れた。
とりあえず、今夜の宿に向かった。一軒家のオスタルで、1階はバルになっているようだが、薄暗くてひと気がなかった。何度か声をかけて、ようやくオーナーらしき男性が出てきた。無精ひげに、ヨレヨレのTシャツ。なんだかやる気のなさそうな宿だと思ったが、今さら仕方がない。
こういうときも、Miwakoは屈託がなかった。ニコニコしながら、この辺でストックを売っているお店はないかと、オーナーに尋ねた。Miwakoの折れたストックをじっと見ていたオーナーは、こう言ったのだった。
「ストックならうちにあるよ。よかったら、君のと交換しよう」
まだそんなに使っていない、丈夫そうな青いストックだった。Miwakoは驚いて、買い取らせてほしいと言ったが、彼は微笑んで首を振った。
「実はこのストックも、昔、誰かが置いていったものなんだ。僕が持っていても、このストックに旅をさせてあげることはできないからね」
Miwakoは自分の赤いストックを、感謝とともにオーナーに手渡した。交換成立だった。
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やる気がないどころか、オスタルの部屋はとてもセンスがよく快適だった。ベッドに寝ころびながら、さくらちゃんが「巡礼者の垂訓」の5番目を読み上げた。
巡礼者は幸いである。一歩戻って誰かを助けることの方が、わき目をふらずにただ前身することよりも、はるかに価値あることだということを見出すならば。
目先のことばかり考えてしまいがちな私には、耳の痛い言葉だった。助けたり助けられたりして、行きつ戻りつ歩いてゆくのがカミーノなのだ。
さくらちゃんがワインを飲み過ぎるのも、Miwakoがカタツムリ歩行をするのも、私が舌打ちをしては天罰を食らうのも、カミーノでは、きっと全て必要なことなのだ。
(春のカミーノ⑫ に続く)
このあと、教会前の広場でも演奏!
¡Hasta luego!(アスタ ルエゴ またね)
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(春のカミーノ⑫ に続く)