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女性は男性にしっかり愛させるお役目がある

今年に入ってから、私は主人に暴言ばかり吐いている、(笑)

今までの私の全ては「彼を尊重する」という大命題を免罪符に、彼がやりたいことはやらせてあげたかったし、望むものは叶えてあげたい、束縛なんて以ての外で、時間も労力もお金も、気になることはあっても何だかんだと理由をつけて、スルーしてきた。けど、そんなものはやっぱり弊害がやってくるのだと明確に知った。

いろんな暴言をたくさん吐いているのだけど、その中でも一番かと思うのは「そこら辺の女で済ませている暇つぶしに私を使うな」だったかと思う。

自分のエネルギー(時間、労力、お金)をどう使おうが、それは他人が関与できるものではない。なにかがあるのなら、できることは相談でしかないと思うし、同意や了解が得られるかどうかはまた別の話、と思っている。私だって自由にやりたい種族。ただ、あまりにも適当で怠慢で安っぽいことで喜ぶ女がいるからと言って、同じことで「女だから」というカテゴライズだけで私も同じように幸せを感じると思うな、と言った。

いろんな意見があると思う。私が思うのは、自分の価値を下げるようなことをし合っている中に、彼がいてほしくない、という一点だった。だけど、それを本人が選ぶのならば、残念だけどそれは自由でしかない。自分のエネルギー(時間、労力、お金)をどう使おうが、それは他人が関与できるものではない、と思っているから。

「彼を尊重する」という大命題を免罪符にするなかで、私の最大の落ち度は、彼を馬鹿にしていたことだったなと反省した。

それは駄目だ、とはっきり言ってこなかったのは「言われたくない」「怒られたくない」の気持ちを汲んだ優しさ、と思っていたけれど、それは何のためにもなっていなかった。結局私が傷つき、彼も傷つき、時間やお金や無駄にしたものがたくさんありすぎたことにつながった。

「大切で愛している」というのならば、適当で怠慢で安っぽく扱うな。こういうことをスパッと言えなかったのは、私の中にも、また聞いてもらえない、言ったら機嫌が悪くなるし家庭の空気が悪くなる、そのあとのフォローが疲れる、などたくさんの理由があって「言ったってどうせわからないだろう」という彼を信頼していなかったことが原因。必要なことを必要なときに必要な熱量で伝えられるというのは「何があっても大丈夫」という自己信頼がないとできないことを痛感した。

本質的に私は、優しくなかった。


私は、傷つくのが怖かったし、悲しい思いをしたくなかった。安全なところにいて「大丈夫」を握りしめていたかったし、人を傷つけたくない、と思いつつ、自分が一番傷つきたくなかった。そこから逃げ回っていて、最終的には、心から大量出血する目に遭った。現実が目の前に突きつけられた3日後にあった定例ミーティングは泣きながら参加した。

女性は男性にしっかり愛させないといけないと思った。

「大切で愛している」女性を、しっかりと大切にして愛する術は、男性はどこから学ぶのか。学校でも家庭でもそんなのは教わらないなかで、「こういうことをしては駄目」「こういうことをすると喜ぶ」としっかり伝えて「愛させる」が男性パートナーに対しての女性の役目、だと明確にわかった。同様に女性は「愛されるとは何か」を知る必要があるし、男性に自力で学べといっても難しいだろうと思う。アダルトビデオの中やシャンパン入れて喜ぶ女を見て、それが女の喜ばせ方だと思っている男は見ている世界が狭いことを知る必要があると思う。

19年前の昨日、婚姻届という紙に名前を書いて豊島区役所に出しに行って名字が変わった。私はそれからずっと、結婚って何だろう、離婚って何なんだろう、がずっと頭にあった気がする。

この度見事に、どうだっていい、と思った。

入籍の翌日から家で一緒にご飯を食べる日は少なかったし、家庭に収まっていた私は一人の時間と娘と2人の時間ばかりだった。物理的に一緒にいなくても彼を近くに感じる時はあったし、すぐ触れる距離にいても一緒にいる感じがしないときもあった。

誰だって、一緒にいれる時には限りがある。人はいつか、肉体を捨てるときが来るから。結婚していれば、いつかはみんな離婚するのだ。

結婚も、離婚も、一緒にいるも、いないも、どうでもいいなと思った。

私は、一緒にいたい人といて、身を置きたい環境に身を置いて、心を震わせて楽しくて充実した時間を過ごしたい。その連続で生きていたい。ただそれだけだと心底思った。

人は、自分の価値観に基づいて生きているときに幸せを感じるのだという。私は結婚当初から一貫して「彼がやりたいことはやらせてあげたかったし、望むものは叶えてあげたい」がある。幸せであることを願い、一番近くでそれを見て、サポートできるのがパートナーなのだと思う。

主人の幸せを私は誰よりも望んでいて、誰よりも願っている。その為にいままで妻としてやってきたしパートナーとして今いるし、その気持ちはこれからも変わらない。別にパートナーでなくても大切な人はみんな同じように思っている。

主人の幸せは、主人にしかわからない。
本人もまだそれがわからないという。

この仕事をするようになって、画面越しに私と対話する方が涙して、私も一緒に泣きながら話をしている様子を数々見るようになってから、私(や私のやっていること)への意識が変わったらしい。ここ最近の暴言も、昨年の今だったら確実にとどいていなかった。今こうなっているのは、少なからず、私が彼に与え続けてきたものがあるからに他ならないと思う。信頼なんて一朝一夕で出来上がるものじゃない。好きも嫌いも愛も、本物はすぐに出来上がりはしない。どんなことでも、立ち止まってもいい、細々とでも続けることが大事だと、本当に思う。続けなくていいこともあると思うけれど、続けないと得られないものがあるのは確かだと実感する。

今日から結婚20年目に入った。当初、こんな結婚続くんだろうか、と正直思った。当時の私は「結婚」に興味があって「結婚」をしてみたかった。若かったなと思う。興味本位で始まったものも、続いていることには意味があるのだと思う。昨日はランチを食べながら「私に未だに言い寄ってくる男性はいるし、あなたも別に私じゃなくたっていい、という思いもあるでしょう。ただ、その中でお互いを選んでいるということに思っている以上に敏感であると気づく必要がある」という話をした(これもなかなかの暴言だよな、笑)

なんでなのか、の答えは、この人でよかった、と思える点が増える毎に少しずつ見えてくるものだと思う。私は主人に対してそのサポートができるという自負がある。私以外に私が主人に出来ることをやれる人はいない自負がある。今の為に、これまでがあったのだとこの19年を振り返ってこう思う。

まだまだ道半ば。お互いに楽しい人生で在りたいと願う。

パートナーがいるすべての方へ。
共に、もっと幸せになりましょう。

釈然としない思いがあるならば、それは、他の誰でもない自分が自分であるための伸び代でしかないのだから。


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Reiko Hara/アロマ音叉®️セラピスト
サポートにいただいたお代は、トリートメント時の精油代などに使わせていただいて、癒される方へのパワーへつなげます。お気持ちを大切に受け取ります。ありがとうございます(*^^*)