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正しいよりも。

私たちは日常の中で、気分の良さよりも正しさを優先することに、重きを置いてしまう。
私も妻であり母でもあるので、家族のやりたいことがスムーズに展開するために、それはもうナチュラルに先回りして細かな調整をしていることがある。そんな自分に気づいては、自分の内側の感情や感覚を確認している。
側から見れば、良い妻や母でいることは正しいと言われるかもしれない。けれど、私が目指すのはそこではないのだ。自分がラクで、心から幸せで、それが自然と波及するように家族も幸せであること。自分の幸せをそれぞれが自立させること。
もし、私が無理した上で家族の幸せが成り立っているのなら、私の在り方から見直す必要があると考える。

自分が何を感じているか、何をしたいかよりも、周りの人を不快にさせないようにする。マジョリティの人たちが信じる正しいことを優先し、間違っていることをしない。そんな人たちはたくさんいる。感じるよりも頭で考えて、身近なメリットを選んでしまう。きっと協調性を大切にする日本人の国民性によるものも大きいと思う。
自分の感じていることに素直に在りたいと願い生きている私も、気づくと以前の癖に飲まれてしまっていることも多い。周りの人がそうしているから、と無意識に選択していることもある。幸いなことに、私の場合は我慢がすぐに体調に出て教えてくれるので無理を続けることは少ないけれど、多くの人と同じように考え生きていたら、自分が感じていることに意識を向けることは簡単ではないと思う。

だけど私たちが信じる正しさなんてものは、置かれている立場によっても、時代の流れによっても、どんどん変わっていくものなのだ。科学的な根拠も、新しい事実が判明すれば古いものは更新される。
それに正しさに拘ると争いが生まれる。何かを正解とするとそれ以外は間違いということになって、正解以外のものを信じている人は反論したくなるし、自分もまたその正しさをわかってもらおうと躍起になる。説得しようとすればするほど、相手も頑なになるので関係は悪化してしまう。
身近にいる大切な人にほど、自分を理解してほしいと拘りたくなる。でも、例えば口論になったり一緒の時間がギスギスしたりしてまでそれは大事なことなのか、本当はどんな関係を望むのか、ひと呼吸置いて望みの方を見ると冷静になれるかもしれない。

正しく在ろうとフォーカスしている間は、心からくつろいだ幸せな気持ちとは言えないと思う。誤りだと感じているものに出会ったときには不快を感じやすいし、敵が生まれてしまいやすい。
幸せであること、心地よくいることを優先するのなら、正しさは手放していきたい。
結局、何が正しいかという答えは人間的なもので、エイブラハムのようなソース(源)の視点から見たら、そんなものは存在しない。あるのは、それぞれの好み(多様性)だけなのだ。
自分の好みを見つけたら、それを体験する。それを叶える。自分の人生にその体験を許可していい。好みが同じじゃなくても、理解し合えなくても、そのままで一緒に幸せになることはできる。
エイブラハムの教えは、新しい視点を教えてくれるものだ。
もっと幸せに生きていきたいと望むのなら、いつからだって自分の本当の声に従って、自分も周りも幸せにする生き方に変えていくことはできる。

人と違うものを選ぼうという時、初めは抵抗があるかもしれない。そんなときには、自分にやさしく、自分にとって心地良く感じるものを丁寧に選んであげる、という意識を持つのが良いと思う。
正しさを追求するのではなく、自分の感覚にしっくりくるもの、今の自分にフィットして心地良く感じられるものを選択していく。
いつも朝はコーヒーだから今日もコーヒーでいいか、と選ぶのではなくて、自分は今何を飲みたいのかを逐一感じてみる。眠たくなったらなるべくそのタイミングで昼寝してみる。お腹がいっぱいになったところで食事を残してみる。そんなふうに小さなことから心地良く感じるものを選んでいく。
幸せは感じるもので、頭で考えても得られない。日常にあふれる幸せを感じられないまま大きな目標を掴もうとしても、幸せを感じられる自分がいなければその先に幸せはないのだ。幸せになりたいのなら、今幸せを感じる練習をする。その瞬間瞬間で、心地良いものをきちんと五感で感じて選び、安心して味わう。心地良い感覚を知っているからこそ、自分にとっての幸せが何なのかが本能でわかる。そこに正しさの物差しは必要ない。

正しさを手放して、頭で考えずに心地よさを選ぶのが幸せの近道だ。
その姿にインスパイアされて、周りの人たちも自分で自分を幸せにする力を発揮する。自分を幸せにできるのは他人じゃない。
自分の変化に合わせて、そのつどフィットするものを感じて軽やかに選び直していきたい。

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