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MUNA-POCKET COFFEEHOUSE『紙』@クリエート浜松(2024.11.17)

11/17(日)14:00の回(キャストA)・演出トーク・17:00の回(キャストB)を拝見しました。

最近は仕事も相まって、専ら歌舞伎か文楽かオペラという古典ばかりを月2~3くらいのペースで観ています。
古典というのは、結末は決まりきっているし、いわゆる様式美や至芸を楽しむものだと思っていますが、ムナポケさんの本公演はあらゆる点において割と対極にあって、普段使わない頭をフル回転させてくれます。
1万円超のチケット代を支払って数百円の交通費で古典を観ていることを思えば、数千円のチケット代に1万円弱の新幹線で東京から浜松に来てもお釣りが出るし、実質同じ、いや、それ以上の体験や価値を見出して、1年前から予定を入れて毎年楽しみにしているのです。

前置きだけで原稿用紙1枚埋まりそうな勢いになってしまいました。
やはり冗長な文章を書くのが得意なようです。
もはや毎年恒例で、自分の思考を整理するためのメモに過ぎないのですが、どうもこの長文を待ってくださっている方もいるようなので、がんばります。


まずは所感。

この作品は、大きく2つの要素で構成されているのかなと思います。
1つは「認識」、もう1つは「戦争」。

1つ目の「認識」。
ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』で示された“認知革命”、すなわち「虚構の共有」という認知の力を人類が身に付けたことで繁栄したという点を戯曲執筆の参考にされたとのこと。
「虚構の共有」こそ、まさしく「演劇」だと思います。
どう見てもおじさ…男性だとしても、母娘と言われれば女性だし、どう見ても紙だとしても、筒にして布教されれば「あっさり」で、積み上げれば建物となり、折れば鶴にも紙飛行機にもなるし、娘の目を救う白い鳥にも、無差別に攻撃する戦闘機にもなるのです。
映画の世界では有り得ません。演劇だから成し得る表現として、「認識」を示すにはぴったりの“手段”でした。

さらに「認識」を考える手立てとして、対比で描かれていたのが、“目に見えるもの”と“目に見えないもの”です。
“目に見えるもの”は、手に取ることができて目で確かめることができる安心なもの。
“目に見えないもの”は、形がなくて目で確かめられない不安なもの。

“言葉”というのは不思議なもので、紙に書いて“読む”ことも、声に出して“呼ぶ”こともできます。
形ある言葉は、時に物事を分かりやすく示す指針となり、時に認識を縛る鎖にもなる。
形ない言葉は、小さいほど遮られ、大きいほど真実になる。

「たくさんよんだよ」

はてさて、これは「呼んだ」のか「読んだ」のか。

2つ目の「戦争」。
始まりは……いや、「終わり」は、考え方や価値観の小さな相違かもしれない。
小さな部屋の一室でマッチングした2人は、部屋から町へ、町から国へ、国から世界へと拡張し、経済、政治、宗教、そして戦争へと発展していく。
7万年前、“認知革命”によってホモ・サピエンスが得た「虚構を共有して語ることができる能力」は、集団が大きくなるにつれて考え方や価値観の相違が生まれ、危機回避としての協力から信仰するものの違いによる争いに発展してしまったのでしょうか。

この作品を観て、過去や現在の世界情勢を考えないわけにいきません。
それなのに、自分があまりにも無知すぎて、ほとほと落胆したのです。
よく分からないから、難しいからと遠ざけていてはいけない。
もっと知ろうとしなければならない。
帰路につきながら色々調べました。
「イスラム教」のこと。「パレスチナ問題」のこと。

宗教を演劇作品として扱い、広く公開することができるのは、日本だからこそなのかもしれません。
日本がイスラエル近郊の国だったら、イスラム教徒の多い国だったら、演じる側も観る側ももっと配慮しなければならないことや制約がたくさんあるはずです。
でも、一定の距離がある日本で暮らす私たちだからこそ、伝えられる、考えられることもあるのかもなとも思いました。

戦争」は昔の出来事、「戦争」は遠い国の出来事……いや、明日自分たちの目の前で「終わる」かもしれない、大切な人と離れ離れになってしまうかもしれない、決して無関係な問題ではないのです。


物語は終始、12(00)語り手の語りで進んでいきます。
そして、紙を折り続けます。
恐らく、神を祈り続けているのでしょう。

ただ折っただけではまだ“紙”なのに、規則的に折れば鶴にも紙飛行機にも見立てることができる、という「認識」を観客と共有する重要な役割でした。

草野さんは、落ち着いた語り口と問いかける眼差しが印象的で、かっこよかったです。
なおさんは、メイクも相まって彫りが深すぎてもはや表情が見えなかったのですが、パワー系じゃなく、終始淡々と語る新たな一面を見られました。

それにしても、紙は折っても広げても破っても丸めても積み上げても、“紙”であることに変わりはない。
英語の文法でいうところの不可算名詞。
形はあるのに数えられない。何者?

◆ある部屋の一室

12がマッチングしたある部屋の一室。
すごく会話が噛み合っていない2人は、はたして何をもってマッチングしたのでしょうか。
チュウトウ出身の2とクナシリ出身の1
12に手紙を書いて渡し続けるけれど、決して声に出しては伝えない。
この辺りから、“目に見えるもの(手紙)”と“目に見えないもの(声に出す言葉)”との対比が描かれています。

毎度重要な役を充分すぎるクオリティで届けてくださるまりーなさんは、今回髪をばっさり切って臨まれ、ラストシーンには痺れました。
そらさんは、とてもキラキラとした魅力的な方だなと思っていて、今回、表情や叫びからも非常にそう感じました。
キャストAのお2人は、背格好からか双子のような可愛らしさがあり、1秒を1万分の1秒にして走馬灯のように駆け抜けるところは尊さがありました。

生駒さんは、雰囲気がとても素敵で、なんか途中から神木隆之介に見えてきました(?)。観客と同じ視点に立つのがお上手なんだと思います。
ごっさんの「たくさんよんだよ」の声が頭から離れません。謎に訛っている語尾の言い方が可愛らしかったです。
キャストBのお2人は、最初はあんなに噛み合わなかったように見えたのに、実はお互いアイに溢れていたんだろうなという関係性が見えて良かったです。

◆部屋がショに、そして町へ(経済の話)

一気に押しかけるたくさんの人。

「たくさんよんだよ」

“目に見える商品”を扱うか、“目に見えないサービス”を扱うか、社員の意見は2つに割れますが、結局、商品もサービスも扱うことで合意します。
課長という肩書きを与えられた3は、若手の49の意見を取り入れ、ショを飛び出して町へ。
サービスを作ったと思われる6の話は誰も聴いてくれません。
やがて、49は昇格し、3は降格。
役職は単なる肩書きであって、その役職に就いた人が突然偉くなったり、偉くなくなったりするわけではないのですが、与えられた役割というのは人の「認識」にも影響するようです。
そして、12はまたも“目に見える現金”か“目に見えないキャッシュレス”かで意見が割れます。

◆町から国へ(政治の話)

やがて、4は選挙に出馬して、9がそれを支えます。
皆でずっと体操みたいな動きをしていて、それに共感できない社員たちが分裂し始めます。

そして謎の「日産」コール。正しくは「イチ、ニッサン!」
開演前、永井さんにレクチャーされるのですが、今思えばあそこから観客は演出をつけられていたのだろうと思います(こわ)。
自動車メーカーの名前として3択が挙げられ、「トヨタ」「ニッサン」「スズキ」のどれかを叫ぶシーンがあると口頭で説明されます。
練習する時もなぜか「トヨタ」「スズキ」は前後の話も含めて印象に残るような感じでしたが、「ニッサン」は影が薄かった気がします。
しかも、声に出して練習してはいたものの、皆紙飛行機を折るのに必死だったのでは?
“目に見えない声”だけでの説明はあまりしっかり聞いてないし、3つのどれかという不安定要素、そして自動車メーカーだと思っているので、それっぽい「イチ、ニッサン!」が来ても、ここでいいのか?と言いづらい(「イチ」から言うのか「ニッサン」だけを言うのか)。
この“目に見えない声”だけの指示の不安な感じと対照的だったのが、紙飛行機の演出でした(それはまた後ほど)。

櫻井さんは、体操のお姉さん感があって、こういう推進力のある(でも変わった)人に、ついていっちゃう人もいるだろうなという気がしました。キュ。
りなちゃんは、舞台後方からでもすごく声が通るようになりましたね。すごく良かった。めちゃ大人になっててびっくりしました。

しのさんは、穏やかでかわいらしい雰囲気とは裏腹に、先頭に立った時の力強さが見えてよかったです。
瑠依さんは、若い。若すぎる。小学生くらいでしょうか。結構な台詞量かつ難しい言葉もあったでしょうに、大人に負けずに堂々としっかり立っていらして、感心しました。

さて、肩書き的に偉くなくなってしまった3は、名刺に「こういう者」と書かれた5や、劇作家と書かれた11と出会い、自分は負けを知っているからと4に対抗して出馬を決意します。
しかし、11が出馬させたのは、「こってり」をなくして「あっさり」させたい7
そして、113には妻として、5には娘としての役割を与え、家族として7の選挙活動を支えさせるのです。
11は紙とペンで7を思いどおりに操ろうとしますが、7が次第に自我を持ち始めたのかどんどん宗教チックになっていき、しまいには危険分子である11を排除してしまいます。

やまざきさん(ダブルやまざきさんやん…)、中尾さんは、混ぜるな危険みたいな、きっといつものようにアドリブをたくさんぶちかましてくれたのでしょうね(「危険分子」はあなたたちです)。このお2人の母娘はなんだかふざけているようにしか見えないけれど、それでも成立してしまうのがすごいところです。
『We Will Rock You』を歌ったのは、『太陽の上で』の門左衛門たちがいたからですか?
かなうさんの台詞を聴いて、あんなにも人の話が右から左へ流れていくものかと思いました(褒めています)。抑揚の付け方かしら。本当に何を言っているのか分からなかったです。
そして、高橋さんは、目の表情から、劇作家として自分の思い描く世界を実現したいという強い意思を感じました。

山﨑馨さんは、時になよっとする感じ(あとピアス)が、男性が演じる女性感があってよかったです。
佐野さんは、サイズ感が可愛らしい。睨まれてても可愛い。中尾さんのダブルはなかなか大変だったでしょうが、佐野さんらしい娘さんでした。
大川さんは、どことなく『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福造感がある話し方で、「ドーン!」ばりの視線の強さを感じました。
そして、瀬戸さん。人間はあんなに胡散臭くなれるんですね。メガネを飛ばしたり、一昔前のテレビのプロデューサー巻きのカーディガンを群衆の1人の時は脱いだりと、衣裳を上手く使われていました。

◆国から世界へ(宗教、そして戦争の話)

7が世界に遍く行き渡らせたい「あっさり」。
どうしても「こってり」のない「あっさり」な世界を作り上げたいようです。
それを布教する手伝いをしたのが1でした。
1は紙を筒状にした「あっさり」を、観客に配り歩き、気が付くとシルクロードに到着していました。
そこでは、農作をする人々や紙を積み上げて何かを作る人々が生活をしていました。

93に教えてくれます。
「世界の中心よりちょっと東」、若者らしく略して「中東」。
「ところてん」は『幸福な王子、お化け屋敷へ行く。』でも出てきましたね。

そして、116に問いかけます。
「心がざらざらしている」
ずっと話を聴いてもらえなかった6は、何かの声が聴こえるようになります。
そして、「声に出して読みなさい」「助けてほしいと叫びなさい」と誦え始めたのです。
すると、これに共鳴した人たちが次々と集まってきます。
後で知ったことですが、イスラム教の聖典である「コーラン」は読誦するもの、つまり声に出して読むものとされているようです。
“目に見える紙に書かれた文字”は“目に見えない声に出して読む”ことで共有され、広がっていきます。

それでも7は「あっさり」を説き続けるのです。
「胸に手を置かない人間は、世界と協調することができない人間なのです。やばいやつなのです。激やば。」
どんどん大きくなる6の集団は、押し寄せる大きな紙に寄ってひと所に押し込められてしまい、最終的に考えを分かつことができなかった7は、紙を破って2つを分かち、壁で囲んでしまいました。
これも後で調べて分かったことですが、イスラエルはヨルダン川西岸地域との境界に分離壁を設置しており、その壁にそっくりでした。
壁に囲まれた中で、6はついに、これまで何度も遮られてきた思いを語り始めます。
「要望を紙に書け。」と言う1に対し、「その紙は私たちを縛る紙だ、私たちを自由にはしない。」と訴える6
そして「自発」。
またまた後で知ったことですが、イスラム教には「ジハード」という、イスラム教徒を迫害する異教徒との戦いが義務として定められているそうです。これのことだったのですね。

5年ぶりのヨシコさんは、話が遮られている時から一変した力強い叫びが非常に素晴らしく、この作品を一段高い場所へ持ち上げた立役者と言っても過言ではありません。
ふゆみさんは、立ち上がった時の背中から感じた、話が遮られていた時に抱いた怒りがよかったです。

そこへ現れる12(00)
「さぁ、作った飛行機を飛ばしましょう。」
待ってましたとばかりに各々折った紙飛行機を楽しそうに飛ばす観客たち。
後ろから飛んできた紙飛行機を拾っては、また飛ばす。
後ろから飛んでくる紙飛行機が自分の頭にぶつかる。痛い。
紙を積み上げてできた建造物は、壁とともに崩壊し、攻撃されて倒れていく人々。
爆撃の音とともに飛び交う無数の戦闘機。

違う、こんな思いを乗せて飛ばしたかったんじゃない。

前述の「ニッサン」コールと違って、会場に入る前から紙飛行機の折り方のレクチャーがあったし、折り線どおりに折れば紙飛行機になったし、だって、パンフレットにも丁寧すぎるくらいちゃんと書いてあったし。
“目に見える紙に書かれた文字”の指示は安心で、紙に書いてあるとおりの案内があって、ここだ!と誰もが分かるタイミングで飛ばしてしまった紙飛行機。
あぁ、また加害者になってしまった。

戦火の中、再び出会えた12
こんな中逃げ切れないと嘆く2人の前に現れたのは、810
要らぬことまで説明してくれる論理的なAIの10は、2人で生き残る確率は25%だと言います。
一方、アイの力を信じる直感的な8は、きっと生き残れる。ラブパワ〜〜!と根拠に乏しい言い様。
ラブパンチで倒された10が最終的に導き出した2人で生き残る確率は、微増した30%。
アイがAIに勝ったのです。
そもそも何かがマッチングして出会った2人。
マッチングがAIによる分析結果だとしたら、そこから生まれるアイとは何なのでしょうか。
何だかよく分からないラブパワーも突き詰めれば真実のアイになるのかもしれません。
AIの導き出す数値が根拠のある安心できるものだとしたら、アイの力など不安なものでしかないんですけどね。

池屋さんは、柔らかい雰囲気が役にぴったりで、これならアイも勝つかもなと思いました。
竹内さんは、終始表情のイメージがなく(褒めています)、とてもAI味がありました。

足立さんは、パンチの力強さが、内に秘めたるアイの力感があってよかったです。
なぉと。さんは、これまでのイメージと違っただけに、相当苦労されてAIとしての演じ方と向き合ってこられたんだろうなと思いました。

12は互いに手を取って駆け出します。
1秒を1万分の1秒と「認識」した世界は、まるで走馬灯のようにゆっくりと流れていき、2人で行きたかった場所へ連れて行ってくれました。
飛んできた紙飛行機を雪に見立て、2人が見ている景色を表している群衆たち。

それでも世界は残酷で、爆撃が2人を引き裂いてしまいました。
1の手元に残されたのは、前を指し示す2の手。
握りしめた手ははらはらと散り、出てきたのはたくさんの手紙でした。

「たくさんよんだよ」

そう、「これは紙。」
私たちは虚構の世界を見ていたのでしょうか。
ずっと“目に見えるもの”が安心だと信じてきた1は、“目に見えない”不安な2へのアイを「認識」することはできなかったのでしょうか。

千穐楽は一部を変更して上演、というのをすっかり忘れていた頃、「始まり」に流れた曲はYMOさんの『BEHIND THE MASK』。
観客はどれほど気付いたか分かりませんが、キャストの皆さんは驚いたことでしょうね。
ムナポケさんといえば、開演直前に流れるのがこの曲。
それを、終わり、いや「始まり」に流すとはイキな演出だこと。
たしかに、Ver. MUNA-POCKET COFFEEHOUSEでした。


気付けば最後の出演(22nd produce『奇跡の街』)から5年の年月が過ぎましたが、その『奇跡の街』を私は思い返しました。
白を基調とした舞台セットに白い衣裳、そして白い紙。
イルイルのような人こそ出てこないものの、近しい世界観を感じました。

そうそう、演出トーク。
思っていたものとは少し違いましたが(笑)、永井さんの思考を垣間見られたのは面白かったです。

そして、開演前に行ったお手洗いには、今回の『紙』のトイレットペーパー。
さすが、抜かりない。

今年も素晴らしい作品でした。
来年も楽しみにしています。
ありがとうございました!

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