じいちゃん
死。
私が初めて経験した身近な死は大学3年の時のことである。
あともうすぐで春になるというときだった。
祖父が死んだ。
私は祖父のことをじいちゃんと呼んでいた。
じいちゃんが死んだ時、私はまだ韓国にいた。
大学の交換留学で1年韓国にいた私は、じいちゃんが死んだ日、日本に帰国した。
それはじいちゃんが死んだから帰ったのではない。
その日に帰りたくない理由ならあった。
お盆を過ごさせてもらった友達から、旧正月も招待されていたのだ。
それは韓国の文化に興味があった私にとって、願ってもみない誘いだった。
でも私は何かに急かされるように日本に帰った。
日本に着き、携帯電話の電源を入れた時、驚いた。
母や父から何度も着信があったからだ。
慌てて折り返した時、じいちゃんの死を告げられた。
私はたくさんの荷物を持ったまま、家に帰ることなく、そのままじいちゃんの家に向かった。
じいちゃんの遺影は、その年の秋、金婚式の時に撮った写真だった。
私も金婚式に参加するために韓国から日本に帰った。
偶然にも、私は金婚式の時に着ていた服を、亡くなった祖父に初めて会う時に着ていた。
じいちゃんは微笑んでいた。
それが「安らかな顔」だということを、親戚の人が話す声を聞き、知った。
じいちゃんは糖尿病から、心臓病、腎臓病と数々の病気を併発していた。
ある日、じいちゃんの髪が一気に白くなった。
人工透析のため、身体に器具をつけた。
じいちゃんの脚はところどころ血の塊ができ、黒ずんでいた。
じいちゃんは手が付けられないと言われてから10年以上生きたのだった。
じいちゃんは頑張って生き続けてくれた。
私はなぜかじいちゃんが死んだということが分からなかった。
頭では理解できた。
そして涙も出た。
でも感情では分からなかった。
混乱し、それを母に相談したら「あんたは冷たい人間だ」と言われた。
昔、高校受験で落ちた時に、父から「恥ずかしい」と言われたことを思い出した。
その程度のことだったら感情が動くのに、じいちゃんのことはどうしても感情が停止したままだった。
もしそれをそれくらい悲しかったと言ったら、それは私が都合よく考えているせいになるのだろうか。
それくらい救いのない感情だった。
弟は優しくて思いやりがあると思った。
弟はずっと泣いていた。
その日、弟はじいちゃんの肩身の腕時計をつけ、じいちゃんの眠っていたベッドで眠った。
まさに模範解答だ。
そんな思ってもないことを考える自分が嫌だ。
それくらい弟のまともな感情が羨ましかった。
葬式で、初めてじいちゃんを知った。
自分のことは話さない人だったから、じいちゃんのことはあまりよく知らなかったけど、母が話す「こんなにいい人はいない」というのが正しかったと思った。
母は、理想の男性がじいちゃんと答えるくらい、じいちゃんのことが大好きだった。
じいちゃんの趣味は、孫の写真やビデオを撮ることだった。
じいちゃんは自分のお小遣いを貯めて、孫にお小遣いをあげるのが好きだった。
金婚式で「人生で一番うれしかったこと」が、私が生まれたことだった。
私は、初孫で、孫の中で唯一女だったが、孫は他に男3人いた。
その時は、それくらいじいちゃんが私のことを大事に思ってくれていたことに意外で驚いた。
じいちゃんがずっと私に会いたいといっていたよ。
そう家族が私に話してくれた。
じいちゃんは昔から入退院を繰り返していたから、みんな今回が特別大変だとはもう思っていなかった。
じいちゃんが私に会いたくて呼んでくれていたんだ。
私はどうしても韓国から帰らなければならなかった理由を見つけた。
じいちゃんの初めての命日。
私は大学院受験のため、行けなかった。
家で勉強している時、誰もいない家で、確かに扉がノックされた。
扉を開けてみたが、やっぱり誰もいなかった。
あれはじいちゃんだったのだろうか。
あれから10年。
じいちゃんの家に行っても、アガリクス入りのお茶はもうない。
毎回のように祖母に連れられていた一宮での祈祷にも行かなくなった。
じいちゃんの気配はどんどん遠くなる。
じいちゃんは多くを語らなかった。
でも一度も私を否定することはしなかった。
いつも確かな愛情で私を迎えてくれていた。
その愛情が色褪せることはない。