「好きだな、この人」と思った
「好きだな、この人」と思った。
直接、会ったことはない。
この人の作った音楽を聴いたことはない。
仕事をしている領域は、たぶん、重なっていない。
日常生活の中でキャッチしている物事も、自分とはかなり違うのだろうと思う。
しかし、寺尾沙穂さんが著書「彗星の孤独」に書かれていることを読んでいて、
寺尾さんが感じていること、価値の置き方に魅かれた。
本書の中に、次のような記載がある。
『何かをアウトプットする時、
まわりの評価や世間の常識の中でものを考え、
そこからはみ出さない範疇で選択したり、
答えを出すことに私たちはすっかり慣らされている。
そのほうが楽だからだ。
まるでその術をうまく知っている人が、頭がよく、
仕事のできる人のようにも錯覚する。
うわさに耳をそばだて、安全牌のうまく頼れれば、「成功」はなかば保証される』
『文学や芸術はもっともっと一個人に開かれていいものだと思う。
誰がいつ始めてもいい。
その巧拙やレベル如何に最後までこだわる人もいるだろうが、
一番大切なのはひとりの人間にとっての切実な表現と喜びがそこにあるかどうか。
それから、それを認めて受け入れてくれる人が身近にいるかどうか。
これは、人の幸福を決める大きな要因であり、人が生きていく上で、最強のセーフティネットになりうるとも思っている』
寺尾さんは、音楽家であり、文筆家だそうだ。
音楽家も作家も、それで生計を立てられる個人は、一握りだろう。
表現を手段にして生計を立てていないからといって、
その人の表現に価値がないというわけではない。
そのことを頭の中では理解できても、生活は切実なので、
お金にもならない表現を続けていてよいのだろうかと思ったり、
自分自身の表現活動が中途半端なものに思えることがある。
根っこを掘り下げれば、
「表現したいから、表現する」という動機があるはずなのですが、
それがどこかに消えてしまう。
自分の動機を掘り下げることについて思考停止して答えを出すほうが、楽だからだ。
こうすれば上手くいくという方法や、安全な流れに乗っかっていくほうが都合がいいこともある。
ただ、「それで幸せか?」と自分自身に問いかけると、自分の答えが見えてくる。