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説明書

僕は説明書を読まずに製品を使い始めるタイプだ。

箱を開けたら直ぐに取り出してコンセントに繋ぎスイッチ類をカチャカチャ動かしていると大体の事は分かってくる。たまに挙動がおかしくなった時に初めて説明書を取り出して該当部分だけを読んで説明書はまた仕舞い込んでしまう。

要はロジカルに物事を判断するタイプではなく直感で生きているタイプであり、説明書という規則に縛られる事を嫌い何でもかんでも先ずは自分でやってみたいタイプ。

そんな僕が腰や肩を痛めて初めて身体の規則性というものに注目し始めている。身体が壊れるには必ず理由があってアライメント(簡単に言うと姿勢)の些細なズレや関節や筋肉の動かす順番の狂いが元で重大な怪我に繋がるケースが多い。一見鉄壁の精密さを誇るApple製品だって意味の分からない動作エラーは再起動をかければ何事も無かったかのように復旧するのとは訳が違い、身体の方がよっぽど緻密で精密なのである。

だから自分で自分の身体を痛めつけるならまだしも、受講者がその巻き添えを喰らって怪我をしてしまうことだけは避けたいと以前にも増して強く考えるようになった。難しい事は考えたくない、今を楽しめればそれで良い、というスタンスの方も沢山参加されるオープンクラスで如何にその気持ちを汲み取りエネルギッシュでハッピーなレッスンを組み立てるかに注力しながらも、要所要所で説明書の「故障かな?と思ったら修理を依頼する前にまずチェックしてみてください」の項目を皆さんと一緒に読む、みたいなことをする。

それでなくても某国は事なかれ主義と生かしてやってんだから感謝しろ主義が台頭し何でもかんでも理不尽なマニュアル化を推し進め臨機応変とは無縁の世の中である。腕がもげようが脚が壊死しようが知らんぷり。美談であったはずの「自己責任」という言葉がただの言い逃れとして定着した。そのうちもう一つの某国の返り咲いたボスの言うなりで「脚が無くても操縦できる高性能の戦闘機を買え!」と言われてハイハイと従うのだろう。残念ながら健全な心と身体を育む責任を持つべきフィットネスクラブにも機転の効かないマニュアル化の波は到来しており、そんなことさせてたら壊れますよね?と疑問を持つ隙も平気で奪う。

だから、世界に僕1人だけになったとしてもそこには寄り添わない、と決めた。

以前の僕のように直感だけで猛進せず丁寧に説明書も読み砕き必要ならその都度説明書も書き換えられる頭脳を最近頻繁に受講者の皆さんに見てとることが出来る。それは本当に安堵であり希望でしかない。

話は少し逸れるが、本のあらすじを書いただけの読書感想文を提出した生徒達に烈火の如く怒った小学校時の国語の先生の気持ちが今となってはよく分かる。巷に溢れるのはまさしくそういう曲ばかり。心情をつぶさに時系列になぞっているだけの曲が何故そんなにもヒットするのか。何から何まで説明されたものには想像力の入り込む隙間など有り得ないから受け取り手の感性は鈍る一方である。

だから僕は精通していない言語で歌われる曲や歌詞のない音楽を好んで聴く。曲調や言葉のリズムが与えてくれるイメージの海に自分を放り出し好き勝手に解釈して楽しむことにしている。

そう、此処には説明書という概念すら存在しない。音楽に浸りたい時には仕事の義務感や使命感からは解き放たれて直感で楽しみたい。

しかしどうやらそんな人間の本質にすら影が忍び寄る社会って一体何なんだろう…と頭を抱えたくなる。

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