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『イノセンツ』と幼さの暴力性


幼馴染と、映画鑑賞会。

じつに有意義な、金曜日を終えられたとおもう。

映画とポップコーンは、宇宙の誕生より定められた法律である。

にもかかわらず、われわれがディスプレイの前に並べたのは、マクドナルドのハンバーガーと、大量のポテトであった。

違反行為は、罰がなければ、起きていないのである。

前座終わり。

緑豊かな郊外の団地に引っ越してきた9歳の少女イーダ、自閉症で口のきけない姉のアナが、同じ団地に暮らすベン、アイシャと親しくなる。ベンは手で触れることなく小さな物体を動かせる念動力、アイシャは互いに離れていてもアナと感情、思考を共有できる不思議な能力を秘めていた。夏休み中の4人は大人の目が届かないところで、魔法のようなサイキック・パワーの強度を高めていく。しかし、遊びだった時間は次第にエスカレートし、取り返しのつかない狂気となり<衝撃の夏休み>に姿を変えていく─ 。

https://longride.jp/innocents/


鑑賞を終えたのは、『イノセンツ』(監督:エスキル・フォクト . ノルウェー)。
北欧がくりだす、あるひと夏を恐ろしく描いたホラー・ミステリー。

2021年に公開後、2023年に本国公開。

ポスターは以前から、気になっていた。
「超能力」「狂気」「恐ろしい」など魅力的なワードが、わたしのこころをキャッチしていた。
鑑賞後は、単純に「やっと観れた~」と、達成感に浸れた。

さて、もう鑑賞した身として、この作品の感想じみたことをメモする。

北欧の映画ということで、やっぱりアート的で、一見すると”よくわからない”独特の空気感。それが全体の不気味さを強調しているともいえる。
そうした分からないところから始めて、この作品から浮かんできたいくつかのことを、すこし独白してみようと思います。


テーマは、この映画に蔓延している「幼さ」と、その「恐ろしさ」である。

1.「幼さ」とはなにか

まず、主人公イーダをはじめ、中心となる人物はすべて「子ども」である点に注目してみた。
というか、「子ども」であるのは明白なんですけど。


ほらね。
ただ、ちょっと気になってしまった。

彼らの年齢が提示されるシーンは、一つもないんです。

思い返してみると、はっきりとした年齢こそわからないし、学校や課外活動など、”どのくらいの発達段階なのか”を明示しているシーンもなかった
公園の砂場で遊んだり、秘密基地でキャハキャハしているのは、まさしく「子ども」らしい。
でも、
実際に彼らが、どれくらい「幼い」のかはハッキリしていない…


かろうじて、テレパシーのやりとりシーンでの、卑猥語にクスクスするあたりで、4歳児以降の発達段階であると察した。
小学校にあがる前の段階で、禁句・禁止事項(タブー)にあたる言動を、同年代の間で共有することによって、コミュニケーションを図るということが、子どもにはあるのだ。

一応の補足。
姉のアナは、極度の自閉症のため、知的な遅れ(とくに発話・言語能力)がみられ発達段階も同等であるとみていい。年齢としては、イーダよりもお姉さんなんだろうけれども。


さて、ここで思い当たる映画の法則がある。
「子どもがでてくると、ロクなことにならない」というものだ。


作品(とくに映画)における象徴としての子ども(Child)は、一般的なもの、「可愛らしいもの」「未熟なもの」「活発的なもの」とは異なる。
そういったものより、もっと象徴的な存在として扱われる。

それは、映画タイトルにも表れている。

「イノセンツ(INNOSENTS)」。
訳:うぶな,経験のない;無邪気な,天真爛漫な


すなわち、「無邪気」である。

主人公としての子どもは、「大人のようにふるまう」存在となるのがしばしばだ。

たとえば、『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』などの劇場版などは、大人を極力排した子供たちだけで問題を解決する、自立している子どもたちを描いている。
『地下鉄のザジ』『LEON』など、妙に大人びてマセた女の子も古典から存在する。
ホラーでは『エスター』『オーメン』など、逆にその落ち着いた大人”らしい”子どもが、恐怖を引き起こしている。


映画の子どもは、幼稚な人間ではなく、「無邪気になった大人」として描かれるわけだ。
未熟な大人としてではなく、ひとつの人間として同等な価値存在として位置づけられる。
だから『ハリー・ポッター』も『スパイダーマン』も『サマーウォーズ』も『魔女の宅急便』なども、子どもじみた幼稚なストーリに終わらない。大人にも共感し得る、学びの要素が含まれるわけだ。


そうした場合、『イノセンツ』における恐怖は、超能力や超自然的力による、超越的なものではなくなる。
どちらかといえば、その使用者。
「子ども」がそれを用いているという点だろう。
つまり、
「強大な力を手にしたにも関わらず、それを思慮する能力が未熟な存在」という、なんとも不吉な予感しかないものが浮かんでくる。
人間として同価値でも、そこに「幼さ」の恐怖があるわけだ。

「幼い」とはどういうことだろうか。

それは、年齢、身体的・精神的な発達、さまざまの活動能力が、成人よりも未熟である、ということだ。
ただし、それは「劣っている」という意味ではない。
先に挙げたとおり、映画作品の「子ども」は、子どもじみた言動ではなく、むしろ逆に、大人に近しい言動をとることを可能としている。
ここが恐ろしい。
「劣っている」とは、あるものに比べて、それが発揮できる価値が低いということ。限界値が、一般よりも低いということだ。
しかし、「未熟」というのは、この後に「成熟」する余地がある。
いまは低い水準にあっても、今後、優にそれを超えるポテンシャルを秘めているということになる。


一般ではこうした「子ども」への未知の可能性は、その子らに向けられる将来への期待と重ねられる。


しかし、これはホラー映画の話。

普通ではない(普通ではなくなった)、「子ども」たちの話。
向けられるのは未来への期待ではなく、来るべき災厄の予感であるのが、よくよくあるパターンでしょう…


2.「子ども」だけの世界

次に、「子どもだけの世界」に注目する。

『イノセンツ』は、全編通してある存在が、ほとんど映っていない。

「親=大人」である。



驚くべきなのは、大人といえる存在が、主人公たちの親以外、ラストまで登場しなかったところ。
ほかの子どもたち、地域の親という存在がまったくといっていいほど登場しない。
(一番最後に、やっとでてきたけど…)


なぜ「大人」は、彼らの世界から排他されたのだろうか?
それは、誰が望んだことなのだろうか?
そして、それは何を意味しているんだろうか?

「子ども」だけの閉鎖された世界は、特別な意味をもつ。
成人における世界の閉鎖は、イコール社会との閉鎖を意味する。
自分の世界に閉じこもってしまう、主観的な世界を信じきるだけになってしまうことは、社会性と反比例してしまう部分が大きい。
ときには、引きこもりなどの社会問題にまで発展する。

「子ども」が自分(自分たちだけ)の世界に閉じこもっても、そのような問題にはならない。
それは、他の排他とは異なるからだ。

分かりやすいイメージとしては「秘密基地」だ。
昔から、定番の遊びの形ではあるが、子どもたちはよく自分たちだけの、秘密の基地や集団をつくりあげる。



そこでは、真に自分たちだけの世界。自治の空間が形成されうる。
社会的規律、規範だけでなく、文化や言語でさえ、そのコミュニティだけのもの。まったく異なる独自の社会をつくりあげることを可能にする
『蠅の王』『ピーターパン』『ぼくらの七日間戦争』『20世紀少年』など、そうした構造が見て取れる作品も多々ある。


閉鎖的な空間や社会ではしばしば、「正しさ」の逆転現象がある。
今まで正しいと思っていた構図が、じつは逆転しても、成り立つことに気が付くということである。カルトや極端な思想のカルチャーが閉鎖的コミュニティに位置しようとするのも、これを有用に働かせるためともいえる。

そうした中では、異常なことも「正常」なことになってくる。
とくに、世間ではよくないとされる、タブーとされるようなことなど…。
人は、こころに浮かんだ欲望を、理性の力でもって日々、抑制(抑圧)している。それが社会の秩序につながるからだ。


しかし、好奇心は猫をも殺す。
自分の意志ではなく、理性的な判断としてではなく、外部の上位者に我慢を強いられた場合、こころは欲求不満に陥る
それは強いストレスにつながる。
世間で発散できないそれは、別の場所で吐き出すしかない。
抱えているものが大きいほど、その頻度は増すだろう。


人間、こと発達的に成人したものでさえそうなのだ。
むしろ、外の世界ではできないこと。
抑制されることが多い「子ども」こそ、欲望は発現する

『禁じられた遊び』という映画では、主人公の二人は、”埋葬ごっこ”と称される、十字架を模作する遊びを行う。
『グーニーズ』では、子どもたちだけの冒険。それは、保護者の目から見れば危険極まりない、安全の逸脱とも見える。


ここでやや脱線するが、姉のアナの意味あいを考えてみよう。

彼女は、公式サイトによれば自閉症による知的遅れがある。
痛覚鈍麻と発話の遅れ。
ここから、妹のイーダと同齢のコミュニティに違和なく含まれているとみていい。



さらに、コミュニティには共通項が必要だ。
秘密の集まりには、そこだけに共有される結束力が必要だ。
『イノセンツ』の主人公たちにおいて、それは何だろう。


それは彼女含む「子ども」たちは、大人から「抑圧」を受けているということだ。

例えばイーダ。姉のアナのために、自由を抑圧された。
例えばアイシャ。敬虔な母のために、空想を抑圧された。
例えば黒一点のベン。加虐的な親のために、愛情を抑圧された。

では、アナはどうか。
思うに、彼女は「健常であること」を抑圧されている

発達障害は、基本的に治癒という表現を用いない。
一過性の病ではないためだ。
生まれ持っての障がい、先天性の困難、ギフテッド。
いろいろ言い方はあれど、外的な要素と本人の特質は、相関関係がない。
そうなると、その擁護者である親は、彼女に対して治癒というアプローチはとりづらい。
その子に合わせた養育態勢をととのえて、そこに合わせた発達を促す。
「そういう娘」でありさせようとする。
それが、自分の娘の通常であると縛ろうとする。



ここに彼女の抑圧がある。
アナが、子どもたち同士でいるときだけ、発話を可能にしたのは、彼女を縛り付けるレッテル(ラベリング)が、弱くなったためだ。

ただ、考えてみると、こうした抑圧は一見、アナが生まれつき、発達に特異な部分があったために生まれたとみえる。
しかし、そうではない。
生まれ持っての性を理由に抑圧されたのは、アナだけではない。
生まれた瞬間の特性、「子ども」という存在として産み落とされたという理由が、彼らを抑圧していたのだろう


3.「抑圧」された感情

では、「抑圧」された感情の行く末はどうなるのか


精神分析学では、欲望は現実との葛藤を余儀なくされると考えることができる。
それは、意志の力・理性の力により、普段は抑圧されている。



これは、身体同様に発達段階をふむ。
たとえば生まれたばかりの赤ん坊でいえば、欲望の対象は「母(の乳房)」がまずあがる。
それは、生きるために必要な、必然的に発生する欲望ということで、原始的欲望といってもいい。


そうしたものを、人間は生まれた時には抱いていたはずなのに、いまではすっかり落ち着いてしまっているのが、ほとんどだ。
幼児期を終えたわたしたちには、「母(の乳房)」に対する欲望や執着は普通、やってこないのはなぜか。
※乳に対するフェティシズムは、また別の話



それは、欲望に対するブレーキが発達したからだ。本能的な欲求を、無意識に抑えるために、理性の力という機能が準備されたために、うまくコントロールをすることができるようになったためだ。


幼児期のそれは、成人期のそれと、構造は異なる。
意志の力は弱く、むしろ欲望(とその対象)への同一性が強い。
まだ、乳児の時のような、無意識の原始的欲求と、自らの感性(自我)によって生まれた欲求とが、混在している状態といえる。
そうしたとき、理性で抑えるべき欲求と、抗えない本能が区別できていない、「未熟」な構造でしかないことが分かってくる。


そんな中において、『イノセンツ』の子どもたちは、大人たちから自分たちの気持ちや欲望を、常に「抑圧」される状態にあった。
本来、自身の中にあってコントロールすべき理性が、外側にある状態に等しい。
さらにいえば、幼いころの欲望は、まだ理性でとらえきれてないという点で無意識的だ。
そうすると、欲望に対応して生まれるはずの理性が、先んじて認知されているともいえる。

こころは、不安定を好まない。
求めていない理性を押し付けられたら、それに釣り合う欲望でバランスをとろうとするのも、こころの防衛だ。
そうしてあふれた、いわば負の感情が、彼らに超能力を引き起こすにいたるトリガーになったと考えられる。



彼らが手にした超能力というのは、「抑圧」された欲望が、本人たちの枠をこえて発現したもの。
つまり、「過剰な抑圧によるストレス」を源とする力であると考えてみれる。
主人公たちが求めていたのは、「抑圧からの自由」。
子どもだけの遊び場が、”自然の中”でありつづけたのも象徴的だ。


『イノセンツ』の恐怖は、幼い存在であったはずの「子ども」たち=大人によって黙らされている存在が、じつは胸の内に、ずっとずっと喚きたい自我を抱えているという事実の可能性にあると思う。
弱い、未熟だと思っていても、それが真実とは限らない。
こちらが、彼らの表面的な部分しか観測できていないかもしれない。


”「子ども」には、無限の可能性がある”
なんて、希望的な言葉もあるが、まさしく「子ども」は宇宙のようなものだ。
コズミックな恐怖を抱えているものだ。



「子ども」は、われわれが想定できるほど、弱い存在ではないということ。
弱者だと思っているものが、はたして常にその位置にいるわけではない。
それらはまだ「未熟」なだけなのかもしれない。
いづれ、言葉を手にしたら。力を手にしたら。自由を手にしたら。
彼らは、「幼い」ままでいつづけるだろうか


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