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ごく普通の平凡な1日に幸せを感じられるか

「今日はどんな1日だったかな?」
お友だちからそんなメッセージが来たので、改めて考えてみました。

そうしたら、ごく普通の平凡な1日でした。
特に良いこともなければ、特に悪いこともありません。本当に本当にごく普通の日でした。

なので、「ごく普通の1日だったよ」と返信しました。
少ししたら返信が来ました。

「それは良かった」と書いてありました。
それを見て僕はびっくりしました。

僕の中では、ごく普通で退屈な1日だと思っていたので、良かったと言われたのが意外だったんです。

と同時に、たしかにそうかもなとも思いました。

ごく普通の平凡な日というのは退屈な1日なのか?
それとも幸せな1日なのでしょうか?

意外と考えさせられます。
何か良いことが起きた日はたしかに幸せな日です。
何か嫌なことが起きた日は不幸な日かもしれません。

じゃあ、何も起きなかった平凡な日はどうなのか?ってことなんですが、あなたはどう思いますか?

改めて考えると、別に何か良いことが起きなくても幸せになっていいはずです。そもそも、何か起こらないと幸せになれないのでしょうか。

そんなことないですよね。

幸せのハードルは実は低い方が良いのかもしれません。
幸せのハードルというのは、何をもって幸せと感じられるかという基準のことです。

幸せの基準って、知らない間に上がってしまいます。
基準を上げるって一般的には良い意味で使われますが、幸せの基準の場合は上げないほうがいいです。

幸せの基準が上がってしまうのは、一皿100円の回転寿司では満足できなくなって、カウンターで食べる高級お寿司でないと幸せを感じられないようなものです。

本当はどっちも幸せになっていいはずです。

高級なステーキが食べられたら幸せですが、普通のご飯を食べられるだけでも幸せを感じていいはずです。ごく普通の平凡な1日だって、考えようによっては幸せですよね。

きっと人生の大半はごく普通の平凡な1日です。
そんな平凡な1日に幸せを感じられないとしたら、人生の大半は幸せではなくなってしまいます。

幸せになるために何かをするのではなくて、今いるところから幸せを見出す方が幸せになれると思います。

人生に退屈を感じていて、あまり幸せな感じがしない場合は、もしかしたら幸せの基準が上がってしまっているのかもしれません。

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