David Wood(Torture Garden Co-Founder,現CLUB VANITAS) インタヴュー記事・前編
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David WoodはイギリスTorture Gardenの共同創設者。
DJとクリエイティブ ディレクターとしてTorture Gardenの世界観を作り上げてきました。
90年から世界最大のフェティッシュ/ボディアートクラブを主催してきたDavidですが、2019年にTorture Gardenを退任。
現在は新しく手掛けるイベント『CLUB VANITAS』や古美術商、アート関連の業務など多忙な日々を送っています。
今回は興味深いDavidの歴史、そしてそれにまつわるTorture Gardenの歴史、コロナでの転機、そしてこれからをお話していただきました。
Davidありがとう。
画像は全て公式となります。
Rei
まず。今のあなたの核となっている、あなたが若いとき影響を受けたものを教えてください。芸術、音楽、ファッションなど。
David
子供の頃に最初のフェティシズムとファンタジーの影響を受けたのは、「ミスター・ベン」というアニメのテレビ番組。大好きな番組だった。
山高帽とスーツを着た典型的なイギリスのビジネスマンが仕事の昼休みにコスチュームショップを訪れるという内容だったんだけど、各エピソードで彼は衣装を試着するために更衣室に行き、服を着るとファンタジー、または歴史的、未来的な衣装の世界に連れて行かれ冒険をするんだ。
あと、UFO(邦題:謎の円盤UFO)というSFテレビ番組も大好きだった。
宇宙船に乗っている女性たちはシルバーの衣装とカラフルなバップウィッグを着けていて、宇宙人たちは宇宙服と黒い液体で満たされたヘルメットをかぶってた。
第二次世界大戦や軍服にも夢中で、ドイツ軍が一番好きだった。
学校の校庭で戦争ごっこをしてたんだけど、僕はいつもドイツ軍や日本軍になりたかった。兄は軍隊にいたので、兄が帰ってくると軍帽やヘルメットを借りてかぶるのが大好きだったよ。
ティーンエイジャーになるとスカやスキンヘッド、そしてニューロマンティックやゴシックといった音楽やカルチャーシーンにのめり込んでいったんだ。
最初に好きになったバンドはJAPANとBauhaus。
それからより過激なインダストリアル・シーン、Psychic TV、Throbbing Gristle、Current 93、Coil、SPK、Test Deptなどのバンドに出会い、それが後の僕を形成した。
Psychic TVとThrobbing Gristleのジェネシス・P・オリッジにはセンスと哲学など大きな影響を受けた。
それから本の影響も大きかった。ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』に出会い、哲学とセクシュアリティに関する概念に大きな影響を受けた。
魔術やオカルト、アレイスター・クロウリー、オースティン・オスマン・スペア、ケイオス・マジックにも深く傾倒したな。
そして、2トーン・スキンヘッドからニューロマンティック、ゴシックへ。
学生時代からよくドレスアップをしてた。
アートスクールに通っていた1982年からゴスクラブに通い、フェティッシュという言葉を知る前からラテックスやPVC、レザーを身に着けていたから、1984年にSKIN TWOのパーティーフライヤーを見たとき、フェティッシュシーンが何なのか理解する前に”これは自分のためのものだ”と思ったんだ。
Rei
アートスクールに行かれていた頃は将来どの様になりたいと思っていたのですか?
David
最初のアートスクールではファッションとアートのどちらを専攻にするか迷っていたけどアートの学位コースに入学し、その後で絵画は時代遅れだと感じて、コンセプチュアルな映画、マルチメディア アート、写真、パフォーマンス アートを好きになった。
ケネス・アンガー、デレク・ジャーマン、ジェネシス・P・オーリッジとテンプル・オブ・サイキックユースに影響を受け、コンセプチュアルアートの映画を制作もした。
アートスクールを卒業したときは実験的なフィルムメーカーになりたいと思ってて、儀式的なライヴやパフォーマンスアートに興味を持っていたんだ。
でもお金を稼ぐことやキャリアについてはまったく知らなかった。
スライドフィルムの開発とコンピューターグラフィックスを行う最初の仕事に就き、映画プロジェクトに取り組みながら、ゴスクラブでビジュアル作成をしてたよ。
Rei
Torture Garden(以下、TG)を始めるまでの経緯を教えてください。
David
その時のガールフレンドの知り合いだったゴス系 DJ、アラン・ペリング(AllenTG)にアパートの一室を間借りしたんだ。
彼はロンドンに引っ越したばかりで、ゴス/フェティッシュなイベントを行うことに興味を持ってた。
僕は自分のクラブイベントを創ることを考えたことはなかったけど、長年ゴスクラブやフェティッシュクラブに行っていて、クラブがどのようなものであるかはわかってた。
それからアランと僕は自分たちのアイデアについて話し合いをしたんだ。
オクターヴ・ミルボーの『Torture Garden(邦題「責苦の庭」)』という本を買ったばかりだったので、良い名前じゃないか?とそれを提案した。 他に、フライヤーに良さそうなイメージとして提案したアレン・ジョーンズのラテックス女性のイラストもあった。
僕らは既存のフェティッシュ・クラブよりも、若くてもっとエッジの効いた、芸術的で実験的なイベントを望んでいた。 オルタナティブ・クラブはとってもレトロで古い音楽をプレイしていたから、僕たちは新しい現代音楽をプレイしたかったんだ。
そしてクラブイベントでも、パフォーマンスやファッションショー、アート、ビジュアルもできることに気づいたんだ。
つまり、自分がアートスクール時代に興味を抱いていたもの、すべてをね。
クラブは単なるクラブではなく、クリエイティブなプラットフォームでありライブ・パフォーマンスの儀式でもあり得ると思うんだ。
最初のTGのイベントは木曜日の夜に、2フロアあるゲイクラブを会場に行われたんだけど、1990年当時はゴスやインダストリアルだけでなく、ベルギーの新しいエレクトロニック・ミュージック、ニュービートもプレイしてた。
2つ目の部屋はフェティッシュ・マーケットで、儀式っぽい雰囲気の音楽を流してた。ダンジョンエリアもあり、ビジュアルプロジェクションやパフォーマンスもあった。
僕らは新しく変わったことをやっていたけど、最初のイベントには100人しか来なかった。
その後、当時社交シーンを持たなかった新しいボディアート/モダン・プリミティブのクラウドを招待したところ、彼らはTGを受け入れ、僕たちのクラウドを非常に新しくてユニークなものにする重要な要素となったんだ。
それから5回目のイベントには500人が集まり、イギリスのタブロイド紙が僕らの”衝撃的なパーティー”について記事を書くようになったんだよ!
Rei
なぜFetishという内容を盛り込もうと思ったのですか?
David
TGを始める6年前からフェティッシュ・クラブに通っていて、他のどのシーンよりもハマってた。
フェティッシュな服もフェティッシュな女の子も大好きだった。でも、TGはフェティッシュとボディアートや他のクリエイティブなオルタナティブカルチャーやシーンとの融合でありたいといつも思っていた。狭めず、混ざり合っていたほうがより面白く、よりクリエイティブだと分かったんだ。
Rei
あなた自身のFetishはなんですか?素材などあれば教えてください。
David
僕のフェチはほとんどの人と同じように、子供の頃の体験や最初の空想からきている。前に答えたように、軍服と第二次世界大戦、医療と赤十字、セクシーな未来的フェティッシュファッションの女性、帽子が好きだった。
『ナイト・ポーター(愛の嵐)』、『時計じかけのオレンジ』、『クラッシュ』など、映画のキャラクターもフェチだった。他にも派手なテーラードスーツと帽子のブリティッシュ・ダンディ・ルックもずっと好きで、ラテックス・デザイナーの友人たちと長年にわたって素晴らしいオーダースーツを作ってきた。
でも僕にとってフェティシズムとは、ただ着るものだけではなくて、自分が好きなもの、魅了されるもの、あるいは執着するもの、家に飾るもの…..など。
オオカミとシロクマが大好きなので、剥製のシロクマの敷物とオオカミの頭を持っているし、軍服を着たマネキン、ヴィンテージの医療品や歯科用品、部族のマスクも持っているし、他にも珍品や骨董品、美術品も集めている。
僕にとって、それらはすべてフェティシズムなんだ。
Rei
いわゆるフェティッシュな衣装を最初に買ったお店はどんなところでしたか?
David
ケンジントン・マーケットは1980年代初頭、大きなマーケットで、さまざまな店が過激で主流ではない、オルタナティブ・ウェアを売っていた。
僕は1984年にそこで初めてラテックスのジャケットを買ったんだ。チェーンなどの付いたゴシック・ベルトも購入し、フロントに犬の頭蓋骨を取り付けた。これが僕の特徴的なルックになった。 それからサイドにストラップが付いたPVCパンツを購入した最初の本物のフェティッシュ専門店は、1984年頃の『She n Me』だったよ。
Rei
TGというコンテンツが大きな仕事になっていったことに対して、どのようにお考えでしたか?また、仕事として続けていくことはどのようにお考えでしたか?
David
TGは、僕らと友達が行く楽しい場所として始まったんだ。 僕たちは反抗的で、身体、ドレスアップ、セクシュアリティに関するイギリス文化を変えたいと考えていた。 僕はこれを、表現の自由とセクシュアリティを押し進める政治的な運動だと考えていた。
TGのイベントは危険で過激なものにしたかった。 社会や世界を変えたいと思ったんだ。 それは情熱であり政治運動だったけど、最初はそれをビジネスや仕事として捉えてはいなかった。
それが1年以上続くとも思ってもなかったけど、その後、僕たちはイギリス、そして世界最大のフェティッシュクラブになっていった。 多くの参加者を集め、十分な収益を上げ、それを組織するのが僕らは非常にうまかったから、プロフェッショナルになっていったんだ。 最終的にオフィスを持ち、それがビジネスとなり、僕たちの趣味は仕事になった。 そして、僕らは政治テロリストや過激なアーティストではなく、ビジネスマンになったんだ。
僕たちはプロとしてビジネスに真剣に取り組む必要があったけれど、文化を破壊し世界を変えているといつも感じてた。
Rei
TGの海外進出と日本のSota.Sからオファーを受けたときの心境は?
David
僕たちは1990年代半ばにヨーロッパでいくつかのゲストイベントを行い、1997年頃にはFlesh Fetishというバンドとともにテキサス、ロサンゼルス、サンフランシスコへアメリカツアーに出かけた。特に写真集のリリース後TGはインターナショナルなイベントとしてどんどん広がり、構築されていった。
そして2000年までに僕たちはTGのイベントでニューヨーク、クロアチア、ローマに行った。 それで同じ月にSota(日本オーガナイザー)とモスクワから「トーチャー・ガーデンをやらないか」と連絡を受けた。
これは僕たちにとって、これまでで最もエキサイティングなオファーだった。 とくに日本は訪れる前から文化も国も大好きで、日本を旅行するのは夢だった。 僕たちの最初の旅は予想以上に素晴らしかった。すべてが気に入ったよ。 そして現在、ローマと東京はTGにとって最も長く続いているインターナショナルイベントとなっている。
Rei
日本のフェティッシュシーンをどのように思われますか?
David
コスチュームの創造性とオリジナリティが素晴らしく、日本はロンドンと同じくらい、時にはそれよりも優れていて、最初のイベントからずっと観客に魅了され続けている。
フェティシズムと日本の文化や美意識は自然な繋がりがあるように僕は思っている。他に、人々の親しみやすさと素晴らしいホスピタリティも。
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インタヴューは後編に続きます!
David Wood
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