「名可名、非常名」(老子 第2章)

🌿 #日々老荘 🌿

「名可名、非常名」(老子 第2章)

「名づけられるものは、永遠の名ではない。」


「道可道、非常道」 に続くこの言葉は、"名づけられるものは、本当の本質ではない" という意味を持つ。
つまり、何かに 名前をつけた瞬間に、それは限定され、真の姿ではなくなる ということ。

例えば、「善」と「悪」という言葉。
本当にこの世界は、善と悪だけで分けられるのだろうか?
名前をつけることで、本当は曖昧で流動的なものを、無理に固定してしまっているのではないか?


考察:「名づけ」は、世界を狭める?

子どものころ、雲の形を見て「動物みたいだ」と感じたことはないだろうか?
でも、大人になると「これは積乱雲」「これは層積雲」などと分類するようになる。
その結果、かつて感じていた "形の変化や想像の広がり" を見逃してしまうことがある。

「名前をつけること」は、人間が世界を理解するために必要な行為だけど、
時には、その名前に縛られてしまうこともある。

老子が言いたかったのは、
「名前にとらわれず、本質を感じることの大切さ」 なのかもしれない。


実体験:名前を忘れて、世界を感じる

ある日、公園を歩いていたとき、いつもと違うことを試してみた。
"木" ではなく、"ただの存在" として木を眺める。
"風" ではなく、"動きを持つ空気" として感じる。

すると、普段見過ごしていた 葉の微妙な揺れや、風の形 が目に入ってきた。
名前を忘れることで、世界が新鮮に感じられた。


問いかけ:「名前を外した世界を見てみる」

今日、身の回りのものを 「名前をつけずに」 見てみてほしい。
コップを「コップ」と思わず、ただ形や質感を感じる。
木を「木」と思わず、ただの存在として見つめる。

そのとき、何か新しい気づきが生まれるかもしれない。

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