「天地不仁」(老子 第5章)
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「天地不仁」(老子 第5章)
老子のこの言葉は、一見すると冷酷な響きを持っている。
「天地(宇宙・自然)は人間に特別な情けをかけず、万物を『芻狗(すうく)』のように扱う。」
「聖人(理想的な人間)もまた、人々を『芻狗』のように扱う。」
では、この 「芻狗(すうく)」 とは何か?
芻狗とは、藁(わら)で作られた犬の形の人形。
儀式では神聖なものとして大切にされるが、儀式が終われば何の価値もなく捨てられる。
この言葉の本質は、「天地は特定の存在に特別な慈悲を持たず、全てを平等に扱う」ということ。
自然は、"人間だから" と言って特別扱いしない。
太陽はすべてのものを照らし、雨はすべてのものを濡らす。
これが 「天地不仁」 の意味するところだ。
考察:「自然の中に、特別なものはない」
現代の私たちは、よく「自分だけは特別」「運命に選ばれた」 と思いたがる。
でも、自然界においては、どんな生命も等しく生まれ、等しく滅びていく。
例えば、大きな嵐が来たとき、
🌪 「この家は大切だから、壊さないでおこう」
🌿 「この木は特別だから、倒さないでおこう」
と、自然が考えることはない。
自然は、ただあるがままに働き、
そこに "好き嫌い" や "選り好み" はない。
では、この天地の「不仁(冷酷さ)」は、本当に冷たいものなのか?
実体験:「あるがままを受け入れる」
昨春、公園で桜が散るのを眺めていた。
🌸 「桜の花は美しい」
🍂 「落ちた花びらは無価値だ」
そんなふうに私たちは思いがちだが、
自然界では 「どちらも同じ」 なのではないか?
花が咲くのも、散るのも、
生きるのも、死ぬのも、
すべては 「天地の流れ」 の中の一つの現象に過ぎない。
老子は、この「天地の不仁」に気づくことで、
「あるがままを受け入れる心」 を持つことの大切さを説いているのではないだろうか。
問いかけ:「天地の視点で世界を見てみる」
私たちは日々、「これは良い」「これは悪い」と判断しがちだけど、
今日、ほんの少しだけ、「天地の視点」 で世界を眺めてみてほしい。
もし、自然がすべてを平等に扱うのなら、
あなたもまた 「あるがままの自分」 を受け入れてみてもいいのではないだろうか?