人生の食事

●食べ過ぎの弊害

我々の身体は基本的に食べないと活動してくれません。
そのため、通常は毎日食事をしていますよね。

ただ、昨今の日本、先進諸国は「食べ過ぎ」という病気に陥っており、
過食が原因による様々な不調に悩まされています。

書店に行けば「空腹」「少食」といったワードで読者の関心を惹き、
「食べることを控える」ことが健康のポイントだと教えています。

「ダイエットブーム」も盛んになったり落ち着いたり、
波はあるにせよ、先進国の最重要テーマにもなっています。

単純に言えば「贅沢病」「現代病」とも言えますが、
いずれにせよ、この負のスパイラルから抜けられない人が多くいる中、
警笛を鳴らすだけではなく、具体的な解決策を提示し、
導いていく存在が必要なのはいうまでもありません。

そこで私が1つ提示したいのが「人生の食事」の仕方です。

●絶対死

大前提として、我々は誰もが「死」を迎えます。

その「肉体の死」が刻々と迫ってくる中、
何のために、日々食事をしているのでしょうか?

動植物を殺傷し、自らの血肉と化し、
自らも地球という生命体の土にいずれ還る。

この循環サイクルの中で、単なる肉体の栄養素、
エネルギー補給のための食事と思っていては、
愚かなる行為と言わざるを得ません。

肉体以外の「霊魂」ともいうべき、
死後も存在する、永遠なるものを誰もが感じています。
無視したくとも無視のできない存在です。

「心」と「霊魂」は違うのでしょうか?

などの疑問はここでは扱わず、言葉に囚われることなく、
「目に見えないけれども、死んでも残るもの」
があるという前提条件が必須となります。

その「霊魂」ともいうべき存在に注入すべき、
栄養素、エネルギー源は何なのでしょうか?

健康に関していうと「食べ過ぎが諸悪の根源」
ともいうべき状況にあると述べました。

ということは、これは肉体的だけでなく、
精神的な部分にも当てはまるのではないでしょうか?

「精神病」と言われる数々の病が生み出されているのも、
いわゆる「心の病気=食べ過ぎ」が原因の可能性があります。

言い換えれば「気にしすぎ」ということです。

●「気にしない=空腹」

ただ、言うのは簡単なことで、
なかなか「気にしない」ということはできません。

そこでオススメの「無」になる方法は
「現実逃避」などの一時的なものではなく、

大自然と触れ合うこと。
大いなる存在に抱かれること。
絶対的な力の前に平伏すこと。

言い方はいかようにもありますが、やることはたった1つ。

色々とある中で、誰もができる、お金のかからない、
1番シンプルで絶大な効果があるものです。

これは別に目新しいことでも無いですし、
ストレスの多い現代社会では、みんなやっています。

リラックスするため、
日頃の疲れを癒すために、
温泉旅行などしたり、森林浴するのは、
言われずとも自然に行っていますよね。

ただ、それを非日常的な特別日だけに行っていて、
毎日の日常生活を犠牲にしてしまっている人が多いんです。

非日常的なイベントを楽しむことも大切ですが、
より重要なのは日々の繰り返しの日常生活です。

その1年間の大半を過ごす日常生活の中で、
大自然との触れ合いを忘れ、
「無(空腹)」の時間をつくらなければ、
幸福など夢のまた夢。

「わかるけど・・・」

という言い訳、事情があるのはわかっています。
みんな、やりたくてもできないんですよね。

でも、ここでどんなにいろんな手段を示したところで、
「やる・やらない」は読者に決定権があり、
私がどんな指示をしたところで動かせるものではありません。

できるだけ実行に移してもらえるように、
そのメリットや行わないことによるデメリットは提示できても、
それを受け入れてもらわなければ実際に行わないでしょう。

私の言いたいことは至ってシンプルですし、一言です。
みんなが大好きな著名人たちも言っていることです。

でも、それをできるだけ噛み砕いて、
万人が咀嚼しやすいように、
食べやすいように調理して提供しようと思い、
これを記しています。

これで理解してもらえない、
食べてもらえないとなれば、
私の調理の仕方が悪かっただけのことです。

●人生の調理法(愉しみ方)

先ほどはまず、「空腹」にすべきであり、
そのために「無=大自然と触れ合う」という方法を説きました。

ここでは、逆に食べること、
「調理方法」にフォーカスします。

と言っても、別に難しいことはなく、
普段、自炊をして料理している人なら、
なんとなくわかることです。

調理方法は無限に存在し、食材の組み合わせと、
火加減、水加減等で毎回違う味を生み出しています。

もちろん、似ている味もありますが、
似ていても毎回若干違います、だから飽きないんです。

そして、この調理方法は色々あるとはいえ、
基本は火と水(か・み)。

焼く、煮る、揚げる、蒸す等、
全ては火と水です。

生でそのまま食べるという方法もありますが、
それだとレパートリーが限られてしまいますよね。

「火」と「水」を加えることで料理の幅が広がり、
食べやすさや食べる楽しみも一気に増えます。

熱を加える=情熱を持って大胆に生きる
水で食材を柔らかくする=あらゆる現象を水のように受け止める

言い方は色々あるでしょうけど、
どちらも人生には必要なことがわかるかと思います。

●人生の意味

「意味」って文字を捉えると、
「意を味わう」ってことなんですよね。

「人生の意味って何だろう?」って、ずーっと考えてきましたが、
答えは意外にもシンプルで、漢字の中に隠されていたんだな〜って。

ただ、この「意」というのが捉えようにはなりますよね。

「音」+「心」

この世に「音」の無いところはありません。
人がいれば「声」があり、虫がいれば、植物があれば、
風が吹けば、雨が落ちれば、そこに「音」が発生します。

夜の何も無い場所では「無音」に近い状態ではありますが、
人間が聞き取れる音がないだけで、
そういった静かなところにも必ず「音」があります。

「音」=「立」+「日」

全ての存在は「太陽(日)」の光を浴びることによって存在し、
そこに「立つ」ことができます。

そして、そこには見えない・聞こえない・触れないかもしれませんが、
「心」もあります。

『全ての存在の中にある心、それを味わうこと』

言葉にすると安っぽくなってしまいますし、
文字で表現することの限界を感じてしまいますが、
簡単に言えば、

「太陽(神)」に「照らされた(存在)」の「心(気持ち)」を「愉しむ(味わう」

それが人生の意味だと思っています。

辛い(つらい・からい)人生なら、少し甘くしてあげましょう。
甘い人生なら、少し甘さを薄くして、控えましょう。
苦い(にがい・くるしい)人生なら、健康のために我慢して食べましょう。

●感動の源

現代は便利で豊かな社会になりました。

食べたいものは簡単に食すことができ、
車や飛行機を使えば、行きたいところに行くのも難しくありません。

知りたいことだって、すぐに調べられることができ、
多くの人との会話もあっという間にできてしまいます。

そんな現代、心も豊かに活きているのでしょうか?

戦時中の子供たちが飴玉1つで大喜びしていたような感動、
現代の子供たちがそれを味わうことは皆無と言えます。

豊かな社会になって、失ってしまったもの・・・

「感動」という心が動く喜びを失い、
心はむしろ貧しく、乏しくなっているかもしれません。

家族、友人、仲間がいること。
食べられること、歩けること、話せること。

こんな当たり前のことに感動はできない、
当然として受け入れ、日々過ごしてしまっています。

それだけ進化した証なのかもしれませんし、
貪欲に贅沢を求めてきたから、科学が発展してきた事実もあります。

こういった事実を受け止めながらも、
行き過ぎて失い、忘れてしまったものがあります。

なぜ、戦争が終わらないのか?
自殺や犯罪がなくならないのか?
貧困や苦痛を味わう人生があるのか?

●「死」の○○

○○に入れる文字は「自覚」「認識」「知覚」でもいいですし、
3文字で「気づき」としてもかまいません。

いずれにせよ、「死」という絶対的な事実、
ここから逃げず、受け入れ、忘れないことです。

「死」を間近に、リアルに感じている人は、
言動や行動に重みが出てきます。

同じ言動や行動でも波動が違うので、
聞いて、見て、読んでいる人の心に響いてくるものがあります。

日々の食事でも「もう味わえないかもしれない」という、
ある意味「恐怖」にもなりますが、と同時に、
いつもの変わらない食事にも関わらず、
一口一口「噛み締める」ように味わうことで、
同じだけど違う味になります。
米一粒の甘みを感じ、味わい深く食を愉しめます。

この「かみ・しめる」が人生のキーポイントです。

●「かみ」「しめる」

「かみ」は「神」「紙」「火・水」「加味」
「しめる」は「占める」「湿る」「絞める」「〆る」

組み合わせると人生の「妙」が観えてきます。

神と人、人と万物、男と女、
対となっている存在同士が
固く結ばれることによって、
味わい深い人生が送れます。

それは「1つ」のものが分かれ、
「2つ」の対となるものが、
また、元に戻ろうとする姿なのかもしれません。

同じような繰り返し、循環の中にも、
進化・成長があり、
螺旋階段のような人生が繰り広げられています。

人生の食事を愉しみ、味わうコツは

「かみ・しめる」


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