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「憧れの自分を追う」という樹海。

自分を追い立てて、「こんな自分になりたい」という憧れの自分を追いかける。そういう生き方は、樹海に迷い込むことに似て、歩いても歩いても手ごたえがなく、いつまでたっても目的地に着きません。終始徒労感に浸った状態で、メンタルが病むし、きりがないし、だんだんコンパスが効かなくなるように、方向がわからなくなり、どこに向かおうとしていたのか見失ってしまいます。

樹海に迷い込む根本原因は「無知」

樹海に迷い込む原因は「無知」からくる「自分ヘイト」と「有り得ない目標設定」の二つだと思います。
それを理解し、いくつかのポイントを意識することで、樹海から抜け出すことができます。
樹海から抜け出し、本来の「自分の魂が描いた航路」に乗りたいと思う方はぜひこの記事をお読みになり、実践してほしいと思います。

無知その1)世界の広さを知らないことを知らない

どの人も、生まれてこのかた「自分」しか生きたことがないので、「自分が普通、自分が標準」と思っています。また、自分の特性は飽きるほど見慣れているので、つまらない、平凡なものだと思っています。過去の日本人が浮世絵を軽く見たようなものです。
どの人も、自分の知っているごくごく狭い範囲内で生きています。世界は、想像を絶するほど広くて多様なのに、それを知りません。それ自体は問題ありませんが、「自分は世界のことを良くわかっている、と勘違いしていること」は問題を引き起こします。
まず、自分が知っている範囲はごくごく狭い、と自覚すること。つまり無知の知
が、大変重要です。
無知を無知だと、「自分は平凡だ」とか「頑張ればいろんなタイプに変身できるはずだ」とか勘違いして、樹海に入ってしまいます。

無知その2)自分の尊さを知らない

これは幼い時の育てられ方の影響が大きいと思います。どの人も、宇宙にたった一人の稀有な存在なのに、その尊さを知らないで育っている人が非常に多い。
活発な子は「落ち着きがない、もっと一つのことをじっくりやりなさい」と言われて育ち、慎重な子は「同じことばかりやってないで、色んな事にチャレンジしなさい」と言われて育ちます。このようにマイナス面ばかりに注目されて育つと、自分のプラス面を見ないでマイナス面ばかり責める「自分ディスり思考」が育ってしまいます。
自分ディスり思考が脳内に常駐すると、自尊心を根こそぎ摘み取ってしまいます。

「自分ディスり思考」が作り上げる幻が「憧れ」

活発な子は「こんな落ち着きのない自分が嫌だ」と思い、「一つのことを落ち着いてじっくりやれる人」に憧れます。

慎重な子は「機転の利かない自分が嫌だ」と思い、「身軽にいろんな事にチャレンジできる人」に憧れます。

つまり、お互いに、自分自身とは正反対のタイプの人物像に憧れる。

「活発」と「慎重」は性質の違いであって、どちらが劣っていてどちらが優れているという「価値の差」はありません。なのに、自分ディスり思考があると、自分の特性は劣って見え、自分と正反対の特性は素晴らしく優れているように見えます。それは、自分ディスり思考が作りだした幻想だ、というわけです。

自分ディスりが激しい人ほど、激しく「憧れ」を追い求める

私は、かつて落ち着きがない自分を嫌い、落ち着いた人に憧れて、座禅や茶道にチャレンジしました。自分を嫌う度合いが強い人ほど極端に「向いていないこと」を始め、その結果、失敗ばかりします。向いていないので、当たり前です。
一生懸命頑張れば、それなりには形にはなるかもしれません。でも、師範の先生などは生まれつき「慎重」なタイプでしょうから、かなうわけがない。「とても先生みたいにはできない、自分はだめだ…」と益々落ち込むことになります。
自分を嫌って拒絶する反動で、自分と正反対の「憧れの自分」になろうとしても、向いていないので思い通りにならない。失敗体験ばかり積み重ね、ますます自分を嫌いになる。そしてまた向いていないことにチャレンジする…。堂々巡りで、いつまでたっても自分の良さを認めることができず、自尊心も粉々のままで、ますます自分を嫌いになります。

でも、茶道の師範はもしかすると、活発な私を見て「すごい行動力だなあ、機転の利いた対応ができるなんて、素晴らしいなあ」と思っていたかもわかりません。自分の良さを最も知らないのは自分というわけです。

マグロは、コアラにはなれない

ある時私は気づきました。頑張って「落ち着いたヒト」になろうとしていたけれど、ひょっとしたら、不可能なのではなかろうか?と。
落ち着いたヒトは、がんばって落ち着いているのではなく、デフォルトで落ち着いているのではなかろうかと。デフォルトで動き回る自分みたいな人は、どんなに頑張っても落ち着いた人になることはないのだと。
私はマグロなのに、コアラに憧れてるようなものじゃないか?と。だとしたら、コアラに変身なんてできないじゃないか。

つまり、「頑張れば落ち着いた人になれるに違いない」と画策している時点で、致命的な勘違いをしていると気づきました。それはまるで、自分を「マグロにもコアラにも自在に変身できるミュータント」だと真面目に信じ込んでいたようなもので、自分でもおかしくて笑ってしまいます。

樹海に至るみちすじ

自分ディスり思考は、「嫌いな自分・受け入れられない自分」と正反対の性質を持つ「憧れの自分像」を脳内で作り上げます。その「憧れの自分像」は実現しえない虚像です。「自分と正反対のタイプの自分」なんて存在しません。存在したなら、それはもはや自分ではないでしょう。
そんな虚像を追い求めるのは、北極星を目的地に設定するようなものです。到達不可能な地点を目指すことは、行けども行けども到着しない、樹海への入り口です。
今の自分が立っている場所に意識を戻しましょう。もう、あるのかないのかよくわからない場所に行こうとするのはやめること。そして、自分の特性を正確に把握したうえで、それが活きる環境はどういうものかを模索しましょう。

自分の特性をフラットに評価しよう

どんな特性にもプラス面とマイナス面の両方あります。

活発さのプラス面は、積極的、活動的、パワフル等。マイナス面は、騒がしく、大雑把、目立つこと、等。
慎重さのプラス面は、繊細、綿密、丁寧、物静か等。マイナス面は、消極的、地味、弱弱しい、等。

これらは同じことの言いかえであり、両方伴うものなので、プラス面だけ伸ばそうとか、マイナス面だけ消そうとしても無理です。
それがわかると、マイナス面を消そうとするよりも、プラス面がより活かせるように工夫すれば良いのだと気づくでしょう。

適材を適所に配置すればよい

適材適所は建築が語源だそうで、私の師匠から聞いたのは、お社を建てる時、柱となる木が植わっていた場所をそのまま変えずその場所に配置した…と聞きました。その話が本当かどうかは確かめていませんが、その場所に向いた性質の個体を配置することがどれほど重要かを表す言葉であることは間違いありません。
どれだけ質の良い建材を用意しても、その特性が発揮されない場所に配置しては、台無しであるだけでなく、その建物がまるごと倒壊するほど危険なことでもあります。逆にどんな癖のある建材や、弱点のおおい建材であっても、その性質を活かす場所に配置すれば、非常に役立つということです。

活発な人材は、茶道や座禅を頑張るよりも、アドリブばかりの占い師や電話相談員などが向いています。
慎重な人材は、ゆっくり自分のペースで仕事を組み立てられるようなことが向いている。

そんなふうに、自分を他のものに「加工」しないとできないようなことを追いかけるより、自分の特性をできるだけそのままで活かせるような、素敵な活用方法がないかを模索しましょう。「自分に向いた道」に入ってからでも、自分磨きはできます。もちろん苦手なことにチャレンジする「苦難の道」でも自分磨きはできますが、労多く益少ない。その労を、自分に向いた道に向ければ、より喜びや達成感を感じながら磨かれていくと思います。

そういう「自分に向いた道」は、自分ディスりの声に急かされながら「憧れの自分像」を追いかけているうちは、見えてきません。ですから、一旦自分の脳内の「自分ディスり思考」に黙ってもらって、自分のプラス面もしっかりチェックし、フラットに冷静に「自分はどういう特性をもっている?そして、その活かし方は?」と自問自答してみてくださいね。

人が育つ文化も、個性も、とんでもなく多様であり、まだまだ自分の想像も及ばない領域が、この世界には無限に存在するのです。ありもしない目的地を目指して樹海に入るのは勿体ない。自分の特性を最大の武器にして、この世界を冒険して回りましょう。

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