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石丸伸二論

私、『石丸伸二』の人生くらいなら賭けてやる

2024年5月16日、石丸伸二は東京ビックサイトにて行われたClimbersで、東京都知事に立候補を表明する。

東京ビックサイト『Climbers』にて

それから約2か月弱、都知事選開票の7月7日まで、全国からボランティアが5000人以上集まり、個人献金が約15000件、約2.7億円を集める。

準備期間は少なかったものの、選挙期間中の17日間にわたり、街宣回数を228回をこなしつつ、ネットメディアとSNSによる拡散で注目を惹くたびに、だんだんと都民は演説に集まるようになり、次第にどこの演説場所でも大きな盛り上がりと熱狂を見せた。

街宣場所の都民の集まり

これら、石丸氏の戦略は当初予想されたものよりはるかに高い結果をもたらしたものの、得票数は165万8363票となり結果2位で残念ながら落選した。

マイク納めの東京・丸の内

荒れるSNSの中で

ここからは少し私の目線で石丸伸二という人間を分析したい。

選挙終了後、空前の番狂わせを起こした石丸伸二は、SNSを中心に反石丸派からの誹謗中傷を集めた。さらにSNSでは石丸派支持者と反石丸派支持者による論争が勃発し、SNS内は大いに荒れた。

そんな中、反石丸派で飛びかっていた石丸論を覗くと少し興味がある情報を見つけた。

『ネオリベラリズム・新自由主義』

なるほど、と思った。

新自由主義とは、政治や経済の分野で「新しい自由主義」を意味する思想や概念。なお日本では以下の複数の用語の日本語訳として使われている。
「ネオリベラリズム」:1930年以降、社会的市場経済に対して個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入を最低限とすべきと提唱する経済学上の思想。1970年以降の日本では主にこの意味で使用される場合が多い。
「ニューリベラリズム」:初期の個人主義的で自由放任主義的な古典的自由主義に対して、より社会的公正を重視し、自由な個人や市場の実現のためには政府による介入も必要と考え、社会保障などを提唱する。

ウィキペディア『新自由主義』より

この学術的なネオリベラルという言葉の幅は政治と経済に対し広い意味を持つと感じる。 だが、おそらく人々はこの言葉を現代的な「自分勝手」「自分主義」的なものに変容させて会話している様に感じた。 だから石丸伸二は『自分主義のネオリベラリスト』という評価になるのだろう。

石丸伸二は自分主義のネオリベラリストなのか?

結論から言えばNOだ。

私は市長時代からの彼を追い続けている。
議会の録画、石丸氏の発信する情報、Youtubeのミートアップ、都知事選の街宣などなど。それらから感じる石丸伸二の人間性には「自分勝手」や「自分主義」的なモノとは程遠い、彼の社会貢献に対する強いマインドを感じる。

『日本がもうもたない』
『早く経済を立て直さなくては』

そういった彼の言葉は、アナリスト時代にアメリカ大陸の主要各国の政治と経済による浮き沈みを見てきたからこそ感じ取れるものなんだろう。

考えてみてもらいたい。
彼が単なる「自分主義」で行動しているのであれば、 何故、安芸高田市長をやったのか。

「自己経済合理性」を考えたら、自分に投資をし自分の身の回りの経済を回して経済力を高めていけばいい。その成功事例がホリエモン、ひろゆき、西野亮廣、といった者たちである。しかし彼らは政治家にはなりたいと思っていない。なぜなら圧倒的にコスパが悪いからだ。

では、なぜ石丸伸二はそのコスパの悪い世界に飛び込んできたのか。 つまり、「自分主義」や「自己経済合理性」とはちょっと違うものを持ち合わせていると考える。それが、

『危険な日本経済を何とかしたい』
『日本を守りたい』

という強い想いであり、 その想いが自分を突き動かした結果、銀行員を辞め政治家の道へと人生を切り替え、安芸高田市長という道になったのだろう。

7月5日の決起集会

日本を守りたいという愛国心

つまり、彼の核にあるものは『日本』そのものなのだろう。

日本を守りたい、
その為に、この『石丸伸二』という人間には何ができるのか?
自分ができることは何でもやる!

だからこそ彼は自分『石丸伸二』という道化を創り出し、それを使い周りにいる人々たちを魅了し楽しませ、政治・経済への関心を高めることに多大な貢献をした。そして全国から興味を集めた都知事選で『石丸伸二』というとんでもない政治家が現れたことを全国民に知らしめたのだ。

「都知事選を売名行為に使うな!」などと批判もあったが、本人は言ってる

「最初から勝つ気でいた」と。

そもそも勝算がなければ動かない男だからだ。
今回の都知事選の結果は「届かなかった」ただその言葉に尽きる。

石丸伸二の強みは圧倒的な俯瞰力

SNSでは石丸伸二を理解できないもので溢れ、誹謗中傷が後を絶えなかった。彼らには石丸伸二という人間を捉えることができなかったからだ。自分が分らないものは怖い、だから排除するために非難を浴びせる。そういった者たちが後を絶えなかった。

何故理解できないのか?
それは石丸伸二本人が創り出している虚像『石丸伸二』を追いかけてしまっているからだ。外側で見える石丸伸二はあくまで目的のために役割をただただ全力で全うするマシーンのようなものだ。人々はそれを見て人間性を感じないから非難する。その様な構図に見える。ただ、安芸高田時代から追いかけてきた私にとっては、Youtubeのミートアップなどで見せる彼は、喜怒哀楽もありそして非常に欲張りな人間性を持つ者だ。

石丸伸二の強みとは、表と裏でこの2つの『石丸伸二』を使い分けをしているところにある。

表とは社会的な側面だ。そのため彼は役割を全力で全うする。それが責任だと考えているからだ。普通の人なら「めんどくさい」「難しい」「やりたくない」など、自己執着に阻まれ全力を出すことができない。だが、人間石丸伸二はこの自己執着をバッサリと切り捨てている。だから表の『石丸伸二』は役割に対して全力で取り組むことができる。

これは自分の気持ちを捨て、役割を全うするだけのマシーンを自ら作りだしているようなものだ。だから虚像なのだ。それを見て人間性を批判するがお分かりの通り、人間性なんてものはそこには存在していない。

目指す目標に対し、自己執着を切り捨てて全てを俯瞰して眺め、そこに『石丸伸二』という人間をどこに置いたら一番有用であるか。一番有用なのだから、置かれた『石丸伸二』はその場所で強烈なパフォーマンスを発揮する。

人を排除しない姿勢

彼は常に言葉を選ぶ。 そして彼から人を排除する言葉や人格批判は聞いたことがない。

この度の選挙中、1度も他候補の批判は無かった。あったのは他候補の出す施策に対して数点ほど批判した程度だ。

①あなたは要らない
②私は知らない

というのはどちらも人に対してネガティブに写る言葉だが、①は排除しているが②は排除していない。石丸伸二の使う言葉は②だ。彼は人を排除しない。ここに『石丸伸二』と他の候補者たちとは異なる大きな差があるように感じる。

人を排除せず、良いものは良い、悪いものは悪い、と言い続け、自分の役割と責任を全うせよ、と訴え続ける。

周りに居る者たちを奮起し、強烈な引力で引っ張っていく。
それが石丸伸二という人間なのである。

国民よ奮起せよ!日本を動かそう!


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