恋愛観
世界共通の万人に通ずる話題って、そんなに無いと思っている。その数少ないうちのひとつを、この記事では取り上げたい。それは、「恋」だ。
私の今まで
まずは、私の今の恋愛観を導きだすこととなったその起源についてまとめていきたい。(自分の起源を追求するためだけの章なので、ここはとばしてもらっても構わない。)
小学生
憶えてるものの中でいちばん古い時期は小学校高学年だ。小学校高学年では、2年くらい1人の男の子に片思いしてた。可愛い彼女が居たから勝ち目なかったけど。てか小学生で彼女もちって何?
中学生
次の記憶は中学生。中学生の頃も1人の男の子に2年くらい片思いしてた。バレンタインに頑張ってチョコあげたけど、ホワイトデーにお返しもなく、LINEで告白の返事もらって玉砕した。すごい前の話でずっと忘れてたけど、今振り返ってもその人のこと好きになったの、すごい私らしいなぁって思う。今の自分でさえこの人を好きになるのは妥当だなと思う。なんであいつのこと好きだったんだ?とは別に思わない。すごい面白い人で、彼も彼の周りにいる人も常に笑顔で楽しそうだった。私も楽しませてもらってた。その場を盛り上げることが生まれながらの性分でっせ!っていう人、いいよね。
高校生と大学生(今)
高校生は別学だったから特に何も無く、大学生になった私は、サークルでとんでもなくタイプな人に出会った。いや、タイプというよりかは、「沼な人」って言う方が適切だ。出会ったその日にこの人が好きだ!ってなった。顔、声、笑い方、身なり、所作、趣味嗜好で、もうゾッコン。この人の彼女になれたら喜びで泣けるなって何回も思った。結果としてはお付き合いはできなかったけれども。
私の恋愛観
このような歴史を辿った先に今の私がいるわけだが、こんな簡易的に語ってきた軌跡の中でも現在の私を決定づける要因が明確に記されている。それは高校が女子校だったことだ。女子校で3年を過ごすということはそれ即ち、しっかりとした恋愛教育が成されていないということだ。男女別学の高校に通うって、実はとんでもなく恐ろしいことなのだ。その道中を歩いている時には気づかなかったが、歩いてきた道を振り返ってみると、その恐ろしさに初めて気づく。10代後半という無敵な青春期に、私はなんにも出来なかったのである。常に異性がいる、という環境は、実は恋愛教育に最も必要な空間なのである。恋愛とは誰かに教わるものではなく自分の感じ方が正解であるから、常に異性が同じ空間にいる、ということが恋愛経験の基盤であり全てである。常に同性しかいない女子校、男子校はその地盤をおろそかにする最悪の場であり、且つ偏った思想や捻くれた感性を育てる絶好の場でしかないのだ。その弊害をモロに被った私は、単純で、無知で、幼稚で、凝り固まった考え方をするようになってしまった。
①男性は特別なもの
高校が女子校だったことで「女子しかいない世界が普通で男性がいることは珍しい」といった感覚が自分の中に形成された。また、これは私の人生全般に影響を与えていることなのだが、中学時代の男子がまぁ性格が悪いというか、チクッとする笑いを好む風潮だった。陰で変なあだ名をつけてそれを使っていじるとか、普通じゃない人をネタにするとか。(普通なんてないから「普通じゃない人」という語彙は適切では無いのが申し訳ない。)それの中で生きてきたから、男の人がつける評価は異質だ、格が違うんだ、そう思う思考回路が私の脳内に据え置かれることとなった。これらの事柄が相まって、男性への接し方がだいぶ変になってしまった。男性という存在がもう珍しいから、男の子と接してること自体、気持ち悪く感じる。よろしくない"何か"に自分が染まってしまったような気分になる。「え待って、これ私が本当にしたいこと?私の人生で必要なこと?」って男の子と会話してる時に思っちゃう。あと男の子と接するとき、凄い頭使う。対面して会話する時も、LINEとかDMで会話する時も、警戒心があるから本音は言えないし言いたくないし、だからと言ってテキトーに喋ってると私がそこにいる意味が無いし、発する言葉一つ一つ精査しなきゃいけないし、メッセージも1行を2個送るか2行を1個送るか迷うし、ここでやりとり終わらせて変じゃないか、などなど言い出したらキリがない。そんなこと考えてるからもうめんどくさくなっちゃって結局女の子と一緒に居る選択肢を毎回選ぶようになる。で「男の人に慣れない」⇋「女友達としか遊ばない」の循環が永遠に繰り返される。
②期待することは辞めるべし
序章で私の今までについて話したが、その中でサークルでとんでもなくタイプな人に出会った、と言った。私はこの人の彼女になりたくて、自分ではものすんごくハードルの高い壁に立ち向かった。ご飯に誘ったのだ。2回も。もう一回言うがこれは私にはものすごく高いハードルだった。こんなにありったけの勇気を出したのに、あっちはあっさり断ってきた。まぁそんなめちゃくちゃ仲良いわけでもなければ2回しか会ったことなかったけど、その2回の充実度が高かった(夜の道を一緒に散歩したし、4人ぐらいでご飯も行ったことあった)し、別に私のご飯のお誘いにのってくれても良かったんではないですか???って未だに思う。私はこんなに貴方に会いたくて勇気出したのに、あっちはその勇気をあっさり且つバッサリ斬り捨てた。それがもうとんでもなく儚くて虚しくて。散るってこういうことを言うんだ、って思った。この先の人生においても、私は好きな人を追う側だろうから、勝手に期待した結果あっけなく散る悲しさを、恋をする度に経験しなきゃいけないのかと思うと、先が思いやられた。その恋がたとえ実ったとて期待し続けなければいけないことに変わりはない。常にそんな裏切られる可能性と隣り合わせでいなきゃいけないなら、そもそも期待することをやめるべきだと思うし、恋をスタートさせなければ期待することもないから、恋するのはもういいや、ってなった。
③期待もされたくない
恋愛は付き合うまでも付き合った後も、しがらみばかりだ。先ほどまでの話題「期待する」ということもしがらみであり、「期待される」ということもまたしがらみである。付き合ったあと、何かと報告、連絡、相談しなければならない。よくドラマで「なんで一人で決めちゃうの?相談してくれても良くなかった?」とか「俺お前の彼氏なんだから、もっと頼ってよ」とかいうやりとりがあるけど、それを見るたび「あ、私、恋愛無理だ」となる。所詮他人なのに何が出来るの?じゃあ私の人生に責任とってくれるの?この先もずっとずっと一緒にいてくれるの?私の大切な人で居続けられるの?そんな冷めたことを本気で思っている。だからやっぱ恋愛は向いてないんだろうな、と思う。
④自分に合う人がいない
ここまで読むと、私は期待をしたくもされたくもない、というめんどくさい性質を兼ね備えた人間だということがおわかりいただけただろう。それでいて嫉妬はして欲しいし自分も全然嫉妬する。あまりにも自分の中に矛盾を含みすぎている。この時点で私を恋愛的に好きになってくれる人はごく稀だろう。そして私は服とかカフェ巡りとか、たいていの男性はあまり興味のないものが大好きで、こだわりも強いから、それを共有できる(私の好きなものを好きでなくてもいいけど、解像度は高くあって欲しい)人がいいという基準を加えると、私に合う男性の数はまた更に少なくなる。なんにでも興味があって、服やカフェにも一緒に行って楽しんでくれる人ならいいんだけど、そんな器のでかい人いるか?と思うし、私はそんなことできない(自分の興味ない分野にはとことん興味ないし楽しめない)から、彼が私に一方的に合わせてくれる、なんていう上手い話もないだろ!と思う。本気で好きな人となら、どこ行っても何しても楽しいのかなぁ。
+α 魅力とは?
ここではモヤモヤするけど意見まではいかない「主張の種」みたいなことを話させて頂きたい。それは「女性としての魅力」と「人間としての魅力」について。私が日々生きている中で、「女性としての魅力」と「人間としての魅力」って違うのではないか、という想いがある。私のイメージは以下のベン図のようなものだ。
私の今現在の自論はこうだ。
守りたくなる、小動物みたいだ、顔が可愛い、そういう男心くすぐる要素が「女性としての魅力」(赤の部分)なのに対し、自信がある、流されない、自分なりの意見や主張をもっている、など一人の人間として讃えられるような要素が「人間としての魅力」(青の部分)である。そしてそのいろんな要素の中には、明るい、よく笑う、悪口を言わない、などどちらにもあてはまる要素(黄色の部分)がある。大抵の男性、単純な男性は、赤い部分を多く兼ね備えた女性を好きになる。しかし人生経験が豊富で達観している男性ほど、青の部分に強く惹かれる。じゃあこの黄色の部分は最強なのでは?と思えそうだが、そういうわけでもない気がする。最強というより、当たり前のことと言うか。このあたりはまだ考えが未開拓だから、この先の人生でこの自論がまとまったものになるように経験と学びに努めたいものだ。余談に付き合っていただきありがとうございます。
結び
こんなに長ったらしく自分の恋愛観を書いたは書いたが、結局は自分が彼氏が出来ない言い訳をつらつらと述べただけなのかもしれない。愛して、愛されて、そういう幸せを感じることが出来ないのが時々、無性に辛く、寂しい。好きな人の手を握ったり、胸いっぱいに好きな人とハグしたり、好きな人と1つのベットで寝たり、自分の好きな人が自分と同様に自分を好きでいてくれたり、そんな風にして得る満たされた気持ち、身体中が幸せで飽和してる状態、そういうものに私は一生ありつけないんだと思うと、苦しいなぁって、思う。「女の子の心の中って男の子にしか埋められないとこがある。」オレンジデイズというドラマであったセリフだ。私はこのセリフが凄く好きで、納得したがゆえに心の底からさみしくなった。そこが一生埋まんないのに、未来の私はどうやって幸せになるつもりなのだろう。
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