修士1年の夏休み
精神的に追い詰められていた7月を走り抜け、その勢いのままにぎやかな8月を過ごしている。
7月の終わりにあった修論の中間報告会で、私は抽象度が高すぎてほぼ中身のない報告をしてしまった。
もっとできたなぁという反省もある一方で、自分の現状では仕方なかったなぁと冷静に割り切っている部分もある。
人類学は、他者とともに研究する学問である。
それなのに、現時点の私はその他者が、要はフィールドが決まっていない。
フィールドや研究テーマの決め方にはざっくり分けると2タイプいるらしい。
ひとつは、事前に関心のある事柄について先行研究を読み、仮説を立て、それに適切なフィールドを設定して現地を訪れるタイプ。
名付けるなら「ロジカルタイプ」
もうひとつは、とりあえず興味のあるところに行ってみて、現地で生活しながらインスピレーションを得て、そこから先行研究を参照しつつ論を組み立てていくタイプ。
名付けるなら「クリエイタータイプ」
この2タイプ両方を併せ持った研究者の方々もいらっしゃるのだが、私は後者のクリエイタータイプに全振りしている。
そもそも、好奇心が旺盛すぎる。学部時代に卒論を指導していただいた先生にも「君は興味を持つものが多いからと言って、テーマをコロコロ変えすぎだ」と何度言われたことか。本当にすみません。
それ故に、インスピレーションを得るまで、ふわふわうにゃうにゃしてしまう。読む論文も書籍も、分野があっちこっち散らばっている。
修士の学生が1番聞かれるであろう質問「何を研究しているの?」にすら、答えられない現状。まずい。
でも、強みもある。
それは、謎の自信があるところ。
現地に行ってさえしまえば、何かは得られるだろうという自信がある。適応力と豊かな感受性はこういう時に活きる。
さらに、柔軟性もある。
事前に仮説がないまま現地につっこむメリットは、必然的に視野が広くなる。逆に、仮説がないと現地で何をみたらいいのか分からなくなってしまう人もいるらしい。
私としては、フィールドさえ決まれば全てが進むと確信している。
でもフィールドを決めるには、幅広くいっぱい調べて、足で稼いで、直感を当てにするしかない。
百問は一見に如かず。はぁ。
そんな訳で、ここ最近はフィールドとなりうる場所を地球上全体から考えている。というか妄想している。
今月は不思議とイタリアに縁がある。
イタリア語を使ったり、イタリア文化に触れたりしていたら、またイタリアに行きたくなってきた。
あの国ではスーパーマーケットも普通にあるのに、市場で買い物をする人も結構多い。毎日、野菜市場に居座ってみようか。市場では勝手に菜葉とかちぎって味見できるんだよ、面白くない?
3ヶ月までならビザなしで滞在できるし、必要経費は50万円くらいだろうか。今からでも頑張れば貯められそう。
(1年間世界唯一の食科大学院に通うことも検討したが、学費が200-300万円で諦め気味。給付型奨学金取れても厳しいよね)
もっと正直に書くと、ずっと憧れている先生がイタリアの食文化を研究されている。その為、このテーマだと博士課程に進学する道が拓けるかもしれない、という打算もある。案外、将来性という視座でテーマを決めるのもアリかしら。
あと、アイルランドにも行きたい。
今世界で1番行きたい国は、アイルランドだ。
Ed Sheeran の曲名にもある Galway という街にも行ってみたいし、ワーホリビザなら現地でお金を稼ぎながらフィールドワークできる。
妖精の研究も面白そうだし、パブでアイリッシュミュージックとビールが交錯する「場」の研究も絶対楽しい。パブで働きながらちゃっかり踊っちゃったりして。絶対楽しいな。こういう妄想すると、英語のやる気が出る。
それから、南インドの家庭に潜り込んで日常の料理研究をするのも楽しそうだなぁと思う。
来年の春にお金があればインドに2週間ほど渡航する。教授のツテがあるので、やはり現実的に研究しやすそうだ。インドの食器って本当に美しいんだよなぁ。
そもそも私が今の研究室にいるのは、インド研究をしたかったからだ。私は一度だけインドに行ったことがあるが、その時ある女の子に「打ちのめされた」。あの出来事を「経験」で終わらせてしまっていいのか、「研究」として真摯に向き合うこともできるのではないか、そんな思いも抱えている。
海外ばかり考えていたが、9月は佐渡島と北海道でフィールドワークを行う。
どちらかに良いご縁があったらいいのだけれど、今のところ心はそんなに踊っていない。でも日本国内の方が何回もリサーチで行けて良いよね。
さぁ、2年間で卒業できるのだろうか。
3年プランも香ってきている。アイルランドでワーホリプランになったら、早くても3年間という目測だ。
修士1年の夏休み、まだまだ行き当たりばったりなのに、修士生活の4分の1が過ぎてしまった。
夏休みと言いつつも、手帳に休みの日はほとんど無いし、研究も五里霧中だ。
一体どうなるのだろう。研究も、院生生活も、卒業後も全てが不透明だ。玉手箱の中にいる自覚があるから、年齢という尺度を投げ捨てたくなる。
不安だから、妄想で希望を描く。足掻く。もがく。
でも、そんな日々を「おもしれー」と内心ニヤつきながら生きている部分もある。
私のもがいている形跡が、いつかどこかで、学問に取り憑かれた人に活きたらいいなと願って、ここにそっと書き残す。