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自信過剰になりすぎずに、でもある程度自信を持つという話

長ったらしいタイトルの記事だなと思ったみなさん、こんにちは。書いている本人も思っているので安心してください。

さてタイトルが長ったらしかったので、早速本題に入っていこうと思う。
私という人間は基本的に自信がない。去年公募に初チャレンジする前の話をすると、「どうせ箸にも棒にもかからないのだからやるだけ無駄だ」と思っていたし、そう思っていたがゆえにこれまで何年も公募に挑戦するということを諦めてきていた。

正直どこかで「私の作品なんて」という気持ちがあったし、今もそれは拭いきれない。けれど、今年に入って作家志望仲間という存在が増えて、読み合いをするうち厳しい意見を貰った反面、面白かった、好きだったというお言葉を貰うことも出来た。それが少しずつ自分の中に蓄積されていくうちに、そう言ってくれる人たちに対しても「私の作品なんて」という気持ちは失礼なんじゃないかなと思い始めてきている。気づくの遅いよ! というお言葉も真摯に受け止めていきたい。

世の中は便利なもので、作品を講評してくれるサービスというものが存在する。思い切って改稿予定の短編を講評サービスに投げてみたのだけれど、そこでいただいた講評を受けていくつかの課題と、一応私はきちんと小説を書けているらしいということが分かった。

最近まで実は、私は小説を書けているのだろうかという疑念が頭から振り払えずにいたのだけれど、なんとなくそれも解消されてどうやら私は一応小説を書けているらしいという自覚出来た。そういう意味でも思い切って講評サービスを利用したことは良かったと思う。

人間思い切りというものは大切なもんで、去年の公募への初挑戦しかり、今年の作家志望コミュニティへの参加もしかり、思い切ったときには結構いいことが起こる。作家志望コミュニティで出会った人たちは私にとって大切な仲間だと思っているし、それぞれがそれぞれの望む方向へみんな上手くいけばいいなと甘っちょろいかもしれないけれど考えてしまう。もちろん、そう事は上手く運ばないことも分かってはいるけれど、それでも願いたくなる。真摯に作品に向き合って書いている人たちが報われますようにと。

その願いの中に自分も入れていいんだなと最近思えた。作家になりたいと願っていても、私自身には届かない夢物語のような気がして諦めがどこかにあったきがする。でも、その諦めがある限りきっと私の作家になりたいは実現しないんだろうなと気づいたというか。

どれだけ真摯に作品に向き合ってみても、自分の作品に自信が無い。きっとずっと完全に自分が満足することはないんだろうとも思う。今まで書いてきた自分の作品は愛しているけれど、それは等しくはない。駄作だと思う作品だってあるし、これは割と納得出来るところまで書けたと思う作品だってある。でも自分の中から出てきた物語は、等しく愛おしい。だから、その気持ちを大切にして自信過剰になりすぎず、ある程度の自信は持とうと思う。だって、愛おしいものに対しても失礼だもの。

作家になりたい。なる。欲しいものはたくさんあるけれど、それは胸にしまって、とりあえず私は真摯に今書いている作品に向き合おうと思う。公募のために書いているわけじゃない。私は書きたいから書いているし、書くことに読むことに救われてきた。

もし私が作家になれるのなら、(おこがましいかもしれないけれど)どこかにいる誰かがこの作品に救われたというものを書きたい。ままならない人生を送っている人を掬い上げて、私はその人たちに寄り添っていきたいのだ。それが一人だっていい。どこかの誰か一人が救われるのなら、私はきっと作家になる意味があるんだと思う。

だから頑張っていこうと思う。ある程度の自信を持って。


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苑田澪
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