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【掌編】正しい善意の使い方

「綾子、人に親切になさい。あなたのその善意はきっと、いつかあなたのことを助けてくれるはずよ」
 幼い頃から母は、私に繰り返しそう言った。その言葉の意味もわからぬまま、善意という名前のついた呪いをかけられたのだ。
 
「梶原さん、進捗どう? 大変そうなら私、やりますよ」
「あ、宮田さーん。助かりますぅ。私、全然仕事出来てないですよね。ごめんなさい」
「いえ、協力しあって仕事がきちんと進行するならそれでいいですから」
「宮田さん優しいー。ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」
「ええ。もちろん」
 私はきちんと笑えているだろうか。同期の梶原美波さんは仕事が遅い。遅いというよりきっと、まるでやる気がないのだと思う。なんとなく感じ取っていながら、私がそれを見過ごすのは、彼女に親切にし続けることでいつか私が困ったとき誰かが助けてくれるかもしれないと思うからだ。
 私の働く梶原工務店は梶原さんの叔父さんが社長をしていて、就職活動に全敗した彼女はいわゆるコネ入社でこの会社に入社したらしい。一応経理課に配属されているけれど、彼女は数字を見る能力が著しく低い。経理課に所属しているのは、ひとつは課長が甘いこと、次に私という駒がいることが大きいのだと思う。
 梶原工務店はさほど規模の大きくない会社で、経理は課長と私がいれば充分にまわる。彼女は居ても居なくても変わらないのだ。
「宮田さん、宮田さん、ちょっといい?」
 課長の近藤さんが手招きして私を呼ぶ。立ち上がって彼のデスクの前に立つと、課長は厳しい顔をしてこちらを見つめた。
「宮田さん、ここ、数字間違ってるんだけど。きちんと確認してくれなきゃ困るよ。経理は会社の要なんだからさ」
 近藤さんがヒラヒラさせている書類をよく見ると、一昨日私ではなく梶原さんがやっていた仕事だった。
「あの、それ、私がやったものではないのですが……」
「え? ああ、もしかしてこれ、梶原さんがやったの? ダメだよ、君、ちゃんと彼女がやった仕事は逐一確認してくれないと」
 私がやっていないことを伝えても、結局のところはそうなるのか。この会社はコネ入社の彼女にとても甘い。そのかわり、彼女のミスも含めて私が叱責される仕組みが完全にこの十年で出来上がってしまった。
 十年、十年だ。新卒で入ってからもう彼女の尻拭いをし続けて十年。母から言われ続けた「人には親切にしなさい」という言葉を守っていても、私の善意は私を助けてはくれない。それがわかっていてもなお、私はもう誰かに親切にすることをやめられない。だって私から「善意」という武器を取ったら何が残るのだろう。
 三十三歳、独身。安月給で働いて、人の尻拭いをする毎日は母が私に対して望んでいたものなのだろうか。
 いや、きっと違う。私はきっとどこかで何かを間違えたのだ。
 誰彼となく親切にしてきたこと自体、本当の意味での「善意」というものからかけ離れた行動だったのかもしれない。
「宮田さん、君、もう十年目でしょ? もっと上手くやってくれないと困るよ。いい加減この会社に馴染んでくれないと」
 課長の声ではっと我に返る。それと同時に、私は未だこの会社に馴染めていないのかということに気付かされる。自分では上手く馴染んでいると思っていたのに。
「申し訳ありません。今後気を付けます」
「君はいい人になりたくて梶原さんに親切にしているつもりかもしれないけれど、結局君は彼女にいいように使われているだけだ。君の善意はただ彼女に消費されているだけだ」
 課長は梶原さんに聞こえないように、けれど私にはしっかりと聞こえる声で言った。それから「君が人に親切にするのは勝手だけれど、利用されてばかりなのは関心しない」と言葉を続けて、課長は私に自席へ戻るよう指示した。
 善意を消費されているだけ――課長の声がリフレインする。それと交互に、母の呪いの言葉が繰り返されて私が答えを出すのを阻む。
「宮田さーん、私、ここわかんなくてぇ」
 甘ったるい声で梶原さんが私を呼んでいる。もう十年彼女もここで仕事をしているのだから、私と同じくらいは仕事が出来てくれなくちゃこの会社にとって困る。だったら私は……。
「梶原さん、すみません。私、手が離せないんです。ご自分でやってみてください」
 私は私の善意を正しく使う。

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苑田澪
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