大人は転ぶと恥ずかしい
大人になって転ぶと、どうして痛いとかより先に誰かに見られていないだろうかという恥ずかしさが先立つのだろう。どうも、今朝派手に転んだ苑田です。
転ぶことに限らず、大人になってからというもの失敗に臆病になった気がする。それなりに出来て当然とか、転ばないのが普通ですよっていう感覚が自分の中にあって、それ故に転んだり失敗すると目の前にある痛いとかそういう感覚に蓋をして恥ずかしいという気持ちが勝ってしまう。
それってよくないなと時々思う。転んでしまったとき、恥ずかしいに気をとられてなぜ転んでしまったのかということを考えなければまた転ぶだろうし、失敗したときはどうして自分は失敗したのかその原因に焦点をきちんとあてないと、また同じ失敗を繰り返してしまうからだ。
恥ずかしいという気持ちはもちろん自分の中に生まれた感情だから否定はしないけれど、恥ずかしいに囚われてはいけないなと最近感じる。恥ずかしいも、悔しいも、しんどいも別にそこに抱いた感情にはもちろん間違いなどないわけだけれど、その先できちんと原因について考えるべきだなと個人的には思うという話。別に他人に無理強いしてこうしなさいよという説教をたれたいわけではない。
公募に挑戦しはじめてから、結果という結果は出ていない。言ってしまえば失敗している状況だ。けれどその失敗は多分無駄じゃない(はず)。特に今年は悔しいことが続いているけれど、それと同時になぜ? をよく考えたように思う。どうして自分は落ちたのだろう、何が足りなかったのだろう、どうしたらよくなるのだろうと思考を巡らせることで、多分少しずつ私はレベルアップしている(と信じたい)。
転びたくないし、失敗したくないというのは紛うことなき本音だけれど、それを恐れて挑戦することはやめたくないし、転んだ先、失敗した先でなぜそうなったのかを考えることもやめないようにしたい。
転んだことをきっかけに高尚なことを言っている風だけれど、今日私が転んだのは寝坊して配達先から電話がかかってきて大急ぎで配達したところ、服装選びに失敗していてワイドパンツの裾を踏んだからです。つまりは自業自得なので、こういう失敗はしないようにしましょう。ノーモア二度寝。